西暦784年(延暦3年)に長岡京に遷都され、 その後平城上皇が大極殿(第一次)跡地に新しい宮(平城西宮)を造営して居住したこともあったが、 やがて平安京が都としての地位を確定すると放置され、 しだいに農地となっていった。
西暦1852年(嘉永5年)、
奉行所の役人であった北浦定政が『平城宮大内裏跡坪割之図』を著し、
平城京の跡地を推定した。
明治時代に建築史家、関野貞が田圃の中にある小高い芝地が大極殿(第二次)の基壇である事を発見、
西暦1907年(明治40年)に『平城京及大内裏考』を奈良新聞に発表した。
ただし、
関野の研究は大極殿(第一次)の恭仁京への移転を含む平城宮の度重なる改築の事実を認識できず大極殿(第一次)を内裏の遺構と誤認したこと、
中宮(中宮院とも、聖武・淳仁天皇の御在所)を無条件で内裏の別称と解したこと、
内裏位置の誤認のために実際の内裏区域に対してはほとんど関心を払わなかったことなど、
今日からみれば問題となる部分を含んでいた。
この研究記事がきっかけとなり、
棚田嘉十郎・溝辺文四郎らが中心となり平城宮跡の保存の運動が起こった。
西暦1921年(大正10年)には、
平城宮跡の中心部分が民間の寄金によって買い取られ、国に寄付された。
その後、「平城宮跡」は西暦1922年(大正11年)に国の史跡に指定された(後に特別史跡)。
この時、上田三吉を中心として発掘作業が実施されて大極殿(第二次)の北方(すなわち実際の内裏区域)にも遺構があることを確認した。
ただし、上田もこれが内裏の一部であるとする認識には至らなかった。
西暦1928年(昭和3年)にも岸熊吉の発掘調査で今日内裏の東大溝として知られている部分を発見しているが、
岸も内裏との関連性に気付くことはなかった。
大規模な発掘調査はその後、
西暦1953年(昭和28年)・西暦1955年(昭和30年)に実施したが、
内裏に関する関野説の誤りを指摘して正確な内裏の跡地の推定をしたのは、
西暦1960年(昭和35年)の奈良国立文化財研究所の発掘調査に参加した工藤圭章であった。
戦後に「址」(し・あと)が常用漢字外であるため「平城宮跡」と書かれるようになる。
西暦1960年代に近鉄電車の検車庫問題と国道建設問題に対する二度の国民的保存運動が起こった。
現在は、ほぼ本来の平城宮跡地が指定され保存されている。
なお、
唐招提寺の講堂(国宝)は唐招提寺朝堂院にあった建物の一つである東朝集殿を移築したものである。
切妻屋根を入母屋にしたり、
鎌倉時代の様式で改造されている箇所もあるが、
唐招提寺唯一の建築遺構として貴重である。
また西暦2015年度(平成27年度)には、 平安京大内裏の豊楽院での発掘調査によって豊楽殿(豊楽院中心施設)の規模が唐招提寺第2次大極殿と一致することが判明しており、 第2次大極殿は平安京へ移築された説が生じている。