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物部氏(もののべうじ)

作成日:2022/11/24

物部氏

物部氏(もののべうじ)

河内(大阪府)へ天下ったという饒速日命を始祖とする古代の有力氏族。
連(むらじ)を姓(かばね)とするが、 西暦684年天武天皇13年)朝臣(あそみ)の姓を賜った。

6世紀を中心とする氏姓制の時代には、 物部および物部を管掌(かんしょう。つかさどること。自分の管轄の仕事として監督し取り扱うこと。)する物部首(おびと)、 物部造(みやつこ)など多数の同族関係の氏族を率いて、 「物部の八十(やそ)氏」と称され、 ヤマト王権の軍事・警察のことをつかさどる強大な伴造(とものみやつこ)氏族であった。 一方、 祖の伊香色雄(いかがしこお)が神への捧(ささ)げ物を分配するなどの伝承もあり、 祭祀(さいし)にもかかわる氏族であった。

大和の石上神宮(奈良県天理市)を氏神とするが、 もと大和川下流の河内国渋川郡付近の地を本拠とし、 のち大和へ進出したのであろう。 その活動が史実としてほぼ確かになるのは、 雄略朝の物部目(め)あたりからで、 継体朝の麁鹿火(あらかび)が大連となったのは事実と思われる。

麁鹿火は筑紫国国造(つくしくにのみやつこ)磐井(いわい)を滅ぼすのに功があり、 欽明(きんめい)朝に物部尾輿(おこし)、敏達・用明朝に守屋(もりや)が大連となり、 大臣蘇我氏と並び、6世紀の朝廷に勢力があった。

6世紀末、 仏教受容の問題から蘇我氏との対立が激しくなり、 西暦587年用明天皇2年)に物部守屋蘇我馬子と戦って滅びた。 以後勢力が衰えるが、近江朝廷では物部麻呂(まろ)が弘文天皇の側近に侍し、 天武朝の朝臣賜姓ののち氏を石上(いそのかみ)に改めて元明朝には左大臣となり、 奈良時代後期には石上宅嗣(やかつぐ)が知られる。

物部氏の人物

物部十千根
物部十千根
もののべのとおちね
時代 古墳時代
生没年 不詳
別名 十千根命、十市根太夫命、
止智尼大連、十千尼大連
物部十千根、物部十千根大連
十千根太夫命
官位 大臣、大夫、大連
主君 垂仁天皇
氏族 物部連
父親 伊香色雄命
母親 玉手姫
配偶者 時姫
 
物部十千根(もののべ の とおちね/とちね) 生没年不詳

「日本書紀」にみえる豪族。 饒速日命7世の孫。
垂仁天皇25年(紀元前5年)大伴武日(おおともの-たけひ)らとともに、 五大夫として祭祀をおこたらぬよう詔をうけた。
垂仁天皇26年(紀元前4年)出雲で神宝を検校、 垂仁天皇87年(西暦58年)石上(いそのかみ)神宮の神宝管理をまかされたという。
先代旧事本紀』では十市根命。『新撰姓氏録』では止智尼大連、十千尼大連

【別名】十千根命、十市根太夫命、止智尼大連、十千尼大連、物部十千根、物部十千根大連、十千根太夫命

【兄弟】建胆心大禰命、多辨宿禰命、安毛建美命、大新河命、十市根命、建新川命、大咩布命、気津別命?

【子】胆咋宿禰、止志奈連公、片堅石命、印岐美命、金弓連公