物部氏(もののべうじ)
河内(大阪府)へ天下ったという
饒速日命を始祖とする古代の有力氏族。
連(むらじ)を姓(かばね)とするが、
西暦684年(
天武天皇13年)朝臣(あそみ)の姓を賜った。
6世紀を中心とする氏姓制の時代には、
物部および物部を管掌(かんしょう。つかさどること。自分の管轄の仕事として監督し取り扱うこと。)する物部首(おびと)、
物部造(みやつこ)など多数の同族関係の氏族を率いて、
「物部の八十(やそ)氏」と称され、
ヤマト王権の軍事・警察のことをつかさどる強大な伴造(とものみやつこ)氏族であった。
一方、
祖の伊香色雄(いかがしこお)が神への捧(ささ)げ物を分配するなどの伝承もあり、
祭祀(さいし)にもかかわる氏族であった。
大和の石上神宮(奈良県天理市)を氏神とするが、
もと大和川下流の
河内国渋川郡付近の地を本拠とし、
のち大和へ進出したのであろう。
その活動が史実としてほぼ確かになるのは、
雄略朝の物部目(め)あたりからで、
継体朝の麁鹿火(あらかび)が
大連となったのは事実と思われる。
麁鹿火は
筑紫国国造(つくしくにのみやつこ)磐井(いわい)を滅ぼすのに功があり、
欽明(きんめい)朝に物部尾輿(おこし)、敏達・用明朝に守屋(もりや)が
大連となり、
大臣の
蘇我氏と並び、
6世紀の朝廷に勢力があった。
6世紀末、
仏教受容の問題から
蘇我氏との対立が激しくなり、
西暦587年(
用明天皇2年)に
物部守屋は
蘇我馬子と戦って滅びた。
以後勢力が衰えるが、近江朝廷では物部麻呂(まろ)が弘文天皇の側近に侍し、
天武朝の朝臣賜姓ののち氏を石上(いそのかみ)に改めて
元明朝には左大臣となり、
奈良時代後期には石上宅嗣(やかつぐ)が知られる。
物部十千根
もののべのとおちね
時代 | : | 古墳時代 |
生没年 | : | 不詳 |
別名 | : | 十千根命、十市根太夫命、 |
| | 止智尼大連、十千尼大連、 |
| | 物部十千根、物部十千根大連、 |
| | 十千根太夫命 |
官位 | : | 大臣、大夫、大連 |
主君 | : | 垂仁天皇 |
氏族 | : | 物部連 |
父親 | : | 伊香色雄命 |
母親 | : | 玉手姫 |
配偶者 | : | 時姫 |
| | |
物部十千根(もののべ の とおちね/とちね) 生没年不詳
「日本書紀」にみえる豪族。
饒速日命7世の孫。
垂仁天皇25年(
紀元前5年)大伴武日(おおともの-たけひ)らとともに、
五大夫として祭祀をおこたらぬよう詔をうけた。
垂仁天皇26年(
紀元前4年)出雲で神宝を検校、
垂仁天皇87年(
西暦58年)石上(いそのかみ)神宮の神宝管理をまかされたという。
『
先代旧事本紀』では十市根命。『
新撰姓氏録』では止智尼
大連、十千尼
大連。
【別名】十千根命、十市根太夫命、止智尼
大連、十千尼
大連、物部十千根、物部十千根
大連、十千根太夫命
【兄弟】建胆心大禰命、多辨宿禰命、安毛建美命、大新河命、十市根命、建新川命、大咩布命、気津別命?
【子】胆咋宿禰、止志奈連公、片堅石命、印岐美命、金弓連公