大臣の蘇我馬子によって推薦され即位した。
一方大連の物部守屋は、
同母兄の穴穂部皇子を即位させようとはかるが、
穴穂部皇子は蘇我馬子によって殺害されてしまう。
その後、
蘇我馬子は、
物部守屋を滅ぼし、
これ以降物部氏は没落してしまう。
崇峻天皇の時代には、 物部氏の没落によって欽明天皇以来の崇仏廃仏論争に決着が付き、 法興寺(飛鳥寺)の造寺事業が行われた。 しかし、 崇峻天皇が即位したあとでも政治の実権は常に馬子が握っており、 次第に不満を感じるようになった。
西暦592年10月4日に、
猪を献上する者があった。
崇峻天皇は笄刀(こうがい)を抜いてその猪の目を刺し、
「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発言。
そのことを聞きつけた馬子が「崇峻天皇は自分を嫌っている」と警戒し、
部下に暗殺命令を下した。
そして東国の調を進めると偽って崇峻天皇を儀式に臨席させ、
その席で東漢駒に暗殺をさせた。
臣下により天皇が殺害されたのは、
確定している例では唯一である。
死亡した当日に葬ったことと、
陵地・陵戸がないことは、
他に例が無い。
近年、 歴史学者の佐藤長門は「王殺し」という異常事態下であるにも関わらず、 崇峻天皇の暗殺後に、 内外に格段の動揺が発生していないことを重視して、 馬子個人の策動ではなく多数の皇族・群臣の同意を得た上での「宮廷クーデター」であった可能性を指摘している。
陵(みささぎ)は、
宮内庁により奈良県桜井市大字倉橋にある倉梯岡陵に治定されている。
宮内庁上の形式は円丘。
『日本書紀』の崇峻天皇の五年十一月条に
現在、
崇峻天皇陵は、
倉梯柴垣宮の旧地と伝えられてきた小字「天皇屋敷」(桜井市倉橋)にある。
同地に、
崇峻天皇の位牌を祀る金福寺があったことから、
陵地として決定したという。
1876年(明治9年)、
奈良県十市郡倉橋村にあった雀塚と呼ばれる古墳が一旦崇峻天皇陵として治定されたが、
1889年(明治22年)に現在の陵に改定された。
ただし、
根拠には乏しいといい、
近年では、
桜井市倉橋にある巨大方墳、
赤坂天王山古墳を崇峻陵とする森浩一の見解が有力視されるようになっている。
同古墳は6世紀末から7世紀初頭に築造された方墳で、
東西45.5m、南北42.2m、高さ約9.1m、全長17mの横穴式石室を持つ。
また、斑鳩町法隆寺にある藤ノ木古墳の被葬者を崇峻天皇とする説もある。
皇居では、 皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。