小窓
崇峻天皇(すしゅんてんのう)

作成日:2020/05/04

《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第32代天皇 崇峻天皇(すしゅんてんのう)  日本史のなかで、臣下により暗殺されたと正史に明記されている唯一の天皇である。

[在位] 西暦587年9月9日?(用明天皇2年8月2日)- 西暦592年12月12日?(崇峻天皇5年11月3日)《紀》
[生没] 西暦553年?(欽明天皇14年) - 西暦592年12月12日?(崇峻天皇5年11月3日) 40歳?没《紀》
[時代] 飛鳥時代
[先代] 用明天皇   [次代] 推古天皇
[和風諡号] 長谷部若雀天皇
[] 泊瀬部
[父親] 欽明天皇(第12皇子)   [母親] 蘇我小姉君
[夫人] 小手子河上娘布都姫
[子女] 蜂子皇子、錦代皇女
[皇居] 倉梯柴垣宮
[陵所] 倉梯岡陵

年表

天皇の系譜(第26代から第37代)
西暦553年欽明天皇14年)
西暦571年欽明天皇32年)
5月24日(4月15日)父・欽明天皇63歳で崩御
西暦572年敏達天皇元年)
4月30日(4月3日)先々代・敏達天皇 即位
西暦585年敏達天皇14年)
西暦587年用明天皇2年)
西暦592年崇峻天皇5年)

系譜

欽明天皇の第12皇子。
母は蘇我稲目の女・蘇我小姉君で、 敏達天皇用明天皇推古天皇の異母弟にあたる。

親族

祖父:継体天皇   祖母:手白香皇女
父親:欽明天皇   母親:蘇我小姉君
后:小手子(大伴糠手子の女)
河上娘
布都姫
(生母不明)

即位

大臣の蘇我馬子によって推薦され即位した。
一方大連物部守屋は、 同母兄の穴穂部皇子を即位させようとはかるが、 穴穂部皇子蘇我馬子によって殺害されてしまう。
その後、 蘇我馬子は、 物部守屋を滅ぼし、 これ以降物部氏は没落してしまう。

暗殺

崇峻天皇の時代には、 物部氏の没落によって欽明天皇以来の崇仏廃仏論争に決着が付き、 法興寺(飛鳥寺)の造寺事業が行われた。 しかし、 崇峻天皇が即位したあとでも政治の実権は常に馬子が握っており、 次第に不満を感じるようになった。

西暦592年10月4日に、 猪を献上する者があった。
崇峻天皇は笄刀(こうがい)を抜いてその猪の目を刺し、 「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発言。
そのことを聞きつけた馬子が「崇峻天皇は自分を嫌っている」と警戒し、 部下に暗殺命令を下した。
そして東国の調を進めると偽って崇峻天皇を儀式に臨席させ、 その席で東漢駒に暗殺をさせた。
臣下により天皇が殺害されたのは、 確定している例では唯一である。
死亡した当日に葬ったことと、 陵地・陵戸がないことは、 他に例が無い。

近年、 歴史学者の佐藤長門は「王殺し」という異常事態下であるにも関わらず、 崇峻天皇の暗殺後に、 内外に格段の動揺が発生していないことを重視して、 馬子個人の策動ではなく多数の皇族・群臣の同意を得た上での「宮廷クーデター」であった可能性を指摘している。

陵・霊廟

陵(みささぎ)は、 宮内庁により奈良県桜井市大字倉橋にある倉梯岡陵治定されている。
宮内庁上の形式は円丘。
『日本書紀』の崇峻天皇の五年十一月条に

馬子宿禰、群臣を詐めて曰はく、『今日、東国の調を進る。』という。
乃ち東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)をして、天皇を弑せまつらしむ。
是の日に、天皇を倉梯岡(くらはし)陵に葬りまつる。

とある。
延喜式(諸陵寮)』に「無陵地幷無戸」とある。
『陵墓要覧』では所在地を奈良県桜井市大字倉橋字金福寺跡(今、桜井市倉橋)とする。

現在、 崇峻天皇陵は、 倉梯柴垣宮の旧地と伝えられてきた小字「天皇屋敷」(桜井市倉橋)にある。
同地に、 崇峻天皇の位牌を祀る金福寺があったことから、 陵地として決定したという。
1876年(明治9年)、 奈良県十市郡倉橋村にあった雀塚と呼ばれる古墳が一旦崇峻天皇陵として治定されたが、 1889年(明治22年)に現在の陵に改定された。

ただし、 根拠には乏しいといい、 近年では、 桜井市倉橋にある巨大方墳、 赤坂天王山古墳を崇峻陵とする森浩一の見解が有力視されるようになっている。
同古墳は6世紀末から7世紀初頭に築造された方墳で、 東西45.5m、南北42.2m、高さ約9.1m、全長17mの横穴式石室を持つ。
また、斑鳩町法隆寺にある藤ノ木古墳の被葬者を崇峻天皇とする説もある。

皇居では、 皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。


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