『記紀』によれば、
15代応神天皇の5世孫であり越前国を治めていた。
本来は皇位を継ぐ立場ではなかったが、
四従兄弟にあたる第25代武烈天皇が後嗣を残さずして崩御したため、
中央の有力豪族の推戴を受けて即位したとされる。
戦後、天皇研究に関するタブーが解かれると、 5世王というその特異な出自と即位に至るまでの異例の経緯に注目が集まり、 元来はヤマト王権とは無関係な地方豪族が実力で大王位を簒奪し、 現皇室にまで連なる新王朝を創始したとする王朝交替説がさかんに唱えられるようになった。
しかしながら傍系王族の出身という『記紀』の記述を支持する声もあって、 それまでの大王家との血縁関係については現在も議論が続いている。
『記紀』は共に継体天皇を応神天皇の5世の子孫と記している。
また、『日本書紀』はこれに加えて継体を11代垂仁天皇の女系の8世の子孫とも記している。
近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市近辺)で誕生したが、
幼い時に父の彦主人王を亡くしたため、
母・振媛の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられ、
「男大迹王」として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。
『日本書紀』によれば、西暦506年(武烈天皇8年12月8日)に武烈天皇が後嗣を定めずに崩御したため、 大連・大伴金村、 物部麁鹿火、 大臣・巨勢男人ら有力豪族が協議し、 まず丹波国にいた14代仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこおおきみ)を推戴しようとしたが、 倭彦王は迎えの兵を見て恐れをなして山の中に隠れて行方不明となってしまった。 やむなく群臣達は越前にいた応神天皇の5世の孫の男大迹王を迎えようとしたものの、 疑念を持った男大迹王は河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)を使いに出し、 大連大臣らの本意に間違いのないことを確かめて即位を決意したとされる。 翌年の507年、58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位し、 武烈天皇の姉にあたる手白香皇女を皇后とした。 即位19年後の526年にして初めて大倭(後の大和国)に入り、都を定めた。 翌年に百済から請われて救援の軍を九州北部に送ったものの、 しかし新羅と通じた筑紫君・磐井によって反乱が起こり、 その平定に苦心している(詳細は磐井の乱を参照)。
対外関係としては、 百済が上述のように新羅や高句麗からの脅威に対抗するためにたびたび倭国へ軍事支援を要請し、 それに応じている。 また、『日本書紀』によれば西暦512年(継体天皇6年12月)に百済から任那の四県の割譲を願う使者が訪れたとある。 倭国は大伴金村の意見によってこれを決定した。(後の欽明朝初期にこの四県割譲が問題となり、責任を問われた金村が失脚している。)
西暦531年(継体天皇25年)に皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)し、
その安閑天皇の即位と同じ日つまり、
西暦531年3月10日(継体天皇25年2月7日)に崩御した。
崩年に関しては『古事記』では継体の没年を西暦527年(継体天皇21年)としており、
そうであれば都を立てた翌年に死去したことになる。
『古事記』では没年齢は43歳、
『日本書紀』では没年齢は82歳。
『日本書紀』では、
注釈として『百済本記』(散逸)の辛亥の年に天皇及び太子と皇子が同時に亡くなったという記述
一方で、この辛亥の年とは西暦531年ではなく、
60年前の西暦471年とする説もある。
『記紀』によれば干支の一回り昔の辛亥の年には20代安康天皇が皇后の連れ子である眉輪王に殺害される事件があり、
混乱に乗じた21代雄略天皇が兄や従兄弟を殺して大王位に即いている。
「辛亥の年に日本で天皇及び太子と皇子が同時に亡くなった」という伝聞情報のみを持っていた『百済本記』の編纂者が誤って西暦531年のことと解釈し、
『日本書紀』の編纂者も安康天皇にまつわる話であることに気づかずに(「天皇」は安康天皇、「太子」は後継者と目していた従兄弟の市辺押磐皇子、「皇子」はまま子の眉輪王か)継体天皇に当てはめたとも考えられる。
『日本書紀』によれば応神天皇5世の孫(曾孫の孫)で父は彦主人王、
母は11代垂仁天皇7世孫の振媛(ふりひめ)である。
ただし、応神から継体に至る中間4代の系譜について『記紀』では省略されており、
辛うじて鎌倉時代の『釈日本紀』(『日本書紀』の注釈書)に引用された『上宮記』の逸文によって知ることが出来る。
これによると、
男子の直系は「凡牟都和希王(ほむたわけのおおきみ・応神天皇)[注 3] ─ 若野毛二俣王 ─ 大郎子(一名意富富等王) ─ 乎非王 ─ ?斯王(=彦主人王) ─ 乎富等大公王(=継体天皇)」とされる。
『上宮記』逸文は近年、
文体の分析によって推古朝の遺文である可能性が指摘され、
その内容の信憑性や実際の血統については前述の通り議論が分かれているものの、
原帝紀の編纂と同時期(6世紀中葉か)に系譜伝承が成立したものと考えられる。
皇后は21代雄略天皇の孫娘で、
24代仁賢天皇の皇女であり、
武烈天皇の妹(姉との説もある)の手白香皇女である。
継体には大和に入る以前に複数の妃がいたものの、
即位後には先帝の妹を皇后として迎えた。
これは政略結婚であり、
直系の手白香皇女を皇后にする事により、
既存の大和の政治勢力との融和を図るとともに一種の入り婿という形で血統の正当性を誇示しようとしたと考えられる。
継体にはすでに多くの子もいたが、
手白香皇女との間に生まれた天国排開広庭尊(29代欽明天皇)を嫡男とした。
欽明天皇もまた手白香皇女の姉妹を母に持つ宣化天皇皇女の石姫皇女を皇后に迎え、
30代敏達天皇をもうけた。
以上のように、
大王家の傍系という自らの血の薄さを直系である皇后の血統により補填しようとした様子が窺える。
その後は、欽明天皇の血筋が現在の皇室に至るまで続いている。
『記紀』によれば、
先代の武烈天皇に後嗣がなかったため、
越前(近江とも)から「応神天皇5世の孫」である継体天皇が迎えられ即位したとされる。
『日本書紀』の系図一巻が失われたために正確な系譜が書けず、
『釈日本紀』に引用された『上宮記』逸文によって辛うじて状況を知ることが出来るが、
この特異な即位事情を巡っては種々の議論がある。
『記紀』の記述を信用するならば、
継体を大王家の「5代前に遡る遠い傍系に連なる有力王族」とする説が正しい。
しかし戦後に天皇に関する自由な研究が認められることになり、
継体はそれまでの大王家とは血縁関係のない新王朝の始祖であるとする説が提唱されるようになった。
代表的な研究者である水野祐によればいわゆる万世一系は否定され、
出自不明の26代継体天皇から新たな王朝が始まったことになり、
この新王朝は継体の出身地から「越前王朝」と歴史学上呼称される。
一方で、その出自を近江国坂田郡を本拠とする息長氏に求める説もあり、
その根拠としては息長氏が応神天皇の孫の意富富杼王を祖とする皇別氏族(皇族が臣籍降下して誕生した氏族)で、
後の天武朝には八色の姓の最高位を賜るなど朝廷から格別な待遇を受けた氏族であり、
継体自身も妃の一人を息長氏から迎えていることなどがあげられる。
いずれにしても決め手となるような史料はなく、
継体の出自に関しては結論は出ていない。
また、即位から大和に宮を定めるまで何故か19年もの時間がかかっていることも不可解で、
そのため即位に反抗する勢力を武力制圧して王位を簒奪したとする説も出た。
継体が宮を構えたのはいずれも河川交通の要衝の地で、
大伴氏など継体の即位を後押ししたとみられる豪族の土地も多く、
それら支援豪族の力を借りながら漸進的に支配地域を広げていったようにも窺える。
しかし大伴氏などは大和盆地に勢力を持っており、
継体が宮を築くまで大和にまったく政治力を行使できなかったとは考えづらく、
もしも反乱による武力闘争があったのであれば、
大和遷都の翌年に起こった筑紫君「磐井の乱」のように『記紀』に記されていないのは不自然である。
一方で、継体が育ったとされる越前、
生まれた土地とされる近江、
宮があったとされる山城・河内、
陵墓が設けられた摂津は日本海、琵琶湖、宇治川、淀川、瀬戸内海の水上交通を中心とした交通路によって結び付いており、
継体が地方豪族ながら大王位を継げた背景にはこうした交通路を掌握して、
強大な政治力・経済力を維持していたことにあるとし、
本拠地を離れて大和入りする動機が弱いために敢えて大和に入らなかったとする見方もある。
水谷千秋は武力闘争までには至らなかったものの継体の即位に反対する勢力は存在したとし、 その中心となった氏族を葛城氏と推測している。 その根拠としては、葛城氏は武烈までの仁徳天皇の王統と密接な関係があったこと、 以降の時代に目立った活動が見られないこと、 6世紀後半には、 拠点であった北葛城地方が大王家の領有となっていることを挙げている。
さらに大和入りの後に安閑・宣化が蘇我氏の勢力圏に宮を造営していることから、 葛城氏の支流とみられる蘇我氏は宗家と距離を置いて継体の即位を支援し、 この時の働きが後の飛鳥朝における興盛のきっかけとなったとしている。
また、考古学的な調査からもヤマト王権に従順ではなかったと窺える北部・中部の九州の首長達が、 中央の混乱に乗じて自立をする気配を見せ、 そうした傾向に対する危機感が反目を繰り返していた中央豪族達を結束させ、 継体の大和入りを実現させたとしている。
大和入りの翌年に勃発した「磐井の乱」は、 継体の下に新たに編成されたヤマト王権の試金石となり、 この鎮圧に成功したことによって継体は自らの政権の礎を確固なものとしたと推測している。
近年では、5世紀の大王の地位は特定の血に固定されなかった(即ち王朝ではなかった)とする説もある。 継体以前のヤマト王権は各地域国家の連合で、 王統は一つに固定されていなかったという意味であり、 武光誠は継体以前の大王は複数の有力豪族から選出されたとしている。 既述の通り、近年では継体の出自を伝える『上宮記』の成立が推古朝に遡る可能性が指摘され、 傍系王族説が再び支持を集めるようになった。 すなわち『上宮記』逸文が載っている『釈日本紀』には「上宮記曰一伝」という記述があるが『上宮記』の作者は別史料を引用しており、 それにはさらに古い資料に基づいた系譜が載っていたとされていることを根拠とする。
仮に継体新王朝説を採用した場合でも、 現皇室は1500年の歴史を持ち、 現存する王朝の中では世界最長である[注 6]。 それ以前の系譜は参考ないしは別系とするなどして「実在と系譜が明らかな期間に限っても」という条件下においてもこのように定義・認定されることから、 皇室の歴史を讃える際などに、 継体天皇の名前が引き合いに出されることが多い。
隅田八幡神社所蔵国宝「人物画像鏡」の銘文に『癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟』「癸未の年八月十日、男弟王が意柴沙加の宮にいます時、斯麻が長寿を念じて河内直、穢人今州利の二人らを遣わして白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る」とある(判読・解釈には諸説あり)。
隅田八幡神社は西暦859年の設立であるが、 人物画像鏡の出土場所、出土年代は明らかにされておらず、 「癸未」については西暦443年説と西暦503年説など論争がある。 「癸未」を西暦503年、 「男弟王」を(おおと)=男大迹王つまり継体天皇と解釈すると、 継体は癸未=武烈天皇5年8月10日(西暦503年9月18日)の時点では、 大和の意柴沙加宮=忍坂宮にいたとする仮説が成り立つ。
もしこの説が正しければ、 継体が畿内勢力の抵抗に遭って長期に渡って奈良盆地へ入れなかったとする説が崩れる。 西暦503年説が正しければ、 鏡を作らせて長寿を祈った「斯麻」は、 当時倭国と同盟関係にあった百済の武寧王(別名斯麻王)という可能性も出てくる。
ただし「男弟」の読みは厳密には「ヲオト」であり、 継体の「ヲホド」とは微妙に異なる(詳細はハ行転呼音、唇音退化を参照)。 このことから、 「男弟王」を「大王の弟の王族」と解釈し、 妹の忍坂大中姫が允恭天皇に入内した意富富杼王であると考える説もある。 その場合「癸未」は西暦443年となり、 鏡を作らせた「斯麻」を武寧王ではなく三嶋県主と考える説もある。 継体は三嶋の対岸に位置する樟葉宮で即位していることから、 曽祖父である意富富杼王とも深い親交があったとしても不自然ではない。 しかし、この説は斯麻と三嶋県主の関係が明らかになっておらず、少数説である。
ゆかりの地である越前はかつて湿原が広がり農耕や居住に適さない土地であった。 男大迹王(おおとのみこ、のちの継体天皇)はこの地を治めると、 まず足羽山に社殿を建て大宮地之霊(おおみやどころのみたま)を祀りこの地の守護神とした。 これが現在の足羽神社である。
次に地形を調査のうえ、 大規模な治水を行い九頭竜川・足羽川・日野川の三大河川を造ることで湿原の干拓に成功した。 このため越前平野は実り豊かな土地となり人々が定住できるようになった。 続いて港を開き水運を発展させ稲作、養蚕、採石、製紙など様々な産業を発達させた。
天皇即位のため越前を離れることになると、 この地を案じて自らの御生霊を足羽神社に鎮めて御子の馬来田皇女(うまくだのひめみこ)を斎主としてあとを託したという。 このような伝承から越前開闢の御祖神とされている。
能の「花筐」に登場する。 あらすじ:継体帝が武烈帝の後継者に選ばれ、寵愛の照日(シテ)に手紙と花篭を形見として贈って上京した。 照日は君を慕い、侍女とともに狂女の姿となって都へ追う。 紅葉見物の行幸の列の前に現われた照日は、 帝の従者(ワキ)に篭を打ち落されて狂い、 漢の武帝と李夫人の物語を舞う。 やがて帝は以前照日に渡した花篭であると気づき、 再び召されて都に連れ帰った。 後に二人の間の子が安閑天皇となる。
※『日本書紀』に拠る。
上述の遷都は政治上の重大な変革があったためとする説もあるが、 憶測の域を出ない。 ただし、この記録が事実とすると、 継体が大和にいたのは晩年の5年のみである。
陵(みささぎ)は、 宮内庁により大阪府茨木市太田3丁目にある三嶋藍野陵(みしまのあいののみささぎ:三島藍野陵)に治定されている。 宮内庁上の形式は前方後円。 遺跡名は「太田茶臼山古墳」で、 墳丘長227メートルの前方後円墳である。 しかし、 本古墳の築造時期は5世紀の中頃とみられている。
一方、大阪府高槻市郡家新町の今城塚古墳(前方後円墳、墳丘長190m)は6世紀前半の築造と考えられることから、 歴史学界では同古墳を真の継体天皇陵とするのが定説となっている。 この古墳は被葬者の生前から造られ始めた寿陵であると考えられている。 この古墳は宮内庁による治定の変更が行われていないために立ち入りが認められ、 西暦1997年からは発掘調査も行われている。 西暦2011年4月1日には高槻市教育委員会にて史跡公園として整備され、 埴輪祭祀場等には埴輪がレプリカで復元された。 隣接する今城塚古代歴史館では、 日本最大級の家型埴輪等が復元展示されている。
同古墳ではこれまで家型石棺の破片と見られる石片が三種類確認されている。 その内訳は、熊本県宇土市近辺の阿蘇溶結凝灰岩のピンク石、 奈良県と大阪府の境に位置する二上山の溶結凝灰岩の白石、 兵庫県高砂市の竜山石で、 少なくとも三基の石棺が安置されていたことが推測できる。 このうち、 竜山石は大王家の棺材として多く用いられたものである。 これらの石棺は、16世紀末の伏見大地震により破壊されたと見られる。
西暦2016年には、 過去に付近で石橋に使われていた石材が今城塚古墳の石棺の一部であった可能性が発表された。
西暦1847年、 飛騨高山の国学者・田中大秀の起案を受けて門弟・橘曙覧、池田武万侶、山口春村、足羽神社神主・馬来田善包らにより継体天皇御世系碑が足羽神社境内に建立されている。 この碑文には、 大秀の研究による応神天皇から継体天皇までの系図が彫り込まれている。
これには「玉穂宮天皇大御世系」とあり、 その下に「品陀和気命(御諡 応人天皇) ─ 若沼毛二俣王 ─ 大郎子(亦名 意本杼王) ─ 宇斐王 ─ ?斯王(書記云 彦主人王)─ 袁本杼命(書記云 更名 彦太尊 御諡 継体天皇)」と彫り込まれている。
また足羽神社の近くにある足羽山公園には継体天皇を模した巨大な石像が坂井市を見下ろすように建っており、 観光スポットとなっている。