小窓
斑鳩宮(いかるがのみや)

作成日:2023/2/21

斑鳩宮(いかるがのみや) 推古天皇9年(西暦601年) - 皇極天皇2年(西暦643年

斑鳩宮は、厩戸皇子(聖徳太子)が現在の奈良県生駒郡斑鳩町に営んだ宮殿。
日本書紀』によると厩戸皇子は、 西暦601年推古天皇9年)に斑鳩宮を造営し、 西暦605年推古天皇13年)に移り住んだ。 また、皇子の手により、 斑鳩宮の西方に斑鳩伽藍群(法隆寺・中宮寺・法輪寺・法起寺)が建立された。

聖徳太子薨去後は、山背大兄王一族が住んでいたが、 皇極天皇2年(西暦643年)に蘇我入鹿の兵によって宮は焼き払われ、 山背大兄王以下の上宮王家の人々は、 法隆寺で自決に追い込まれたとされる。 なお現在の法隆寺蘇我氏滅亡後に再建されたとされ、 明治期から法隆寺再建・非再建論争が行われた。 今日でも法隆寺再建をめぐり論議がなされている。

発掘調査で判明したことは、 まず宮は現在の東院伽藍の場所に建っていたこと、 宮の範囲は二町四方であること、などである。 しかし、宮全体構造はまだ分かっていない。 また、厩戸皇子が建立したと伝えられる斑鳩寺は、 西院伽藍の裏手の若草伽藍であり、 金堂や塔が火災にあい焼失した痕跡が残っていた。

伽藍中心部の広さは東西や139メートル、 南北172.5メートルの四天王寺式伽藍配置であった。 斑鳩宮と斑鳩寺(若草伽藍)は、 方位がほぼ同じで同時期の造営であることがわかる。 また、西院伽藍の東大門や西大門に沿う築地も同方向であるので、 斑鳩宮造営と同時に築造され、 道路や水路を広範囲に敷設したことと推測できる。 さらに、飛鳥と斑鳩を結ぶ太子道も同方位である。 太子道は、筋違い道とも呼ばれ、 磯城郡田原本町保津と生駒郡斑鳩町高安を結ぶ道であった。
西暦1998年の発掘で田原本町保津の起点の東南から側溝20メートル(溝幅3メートル、深さ0.5メートル)の道が検出されている。

斑鳩宮は、現在の「法隆寺東院伽藍」の場所に建っていた。