稲目は財務に手腕を振るい、王辰爾を遣わして船賦を数えて記録させた。
また、天皇の命により諸国に屯倉を設置している。
仏教受容問題に権力闘争が重なり、蘇我氏と物部氏は激しく争った。
決着はつかず、この争いは子の蘇我馬子、物部守屋の代まで引き継がれた。
蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳からほど近い明日香村阪田の都塚古墳(金鶏塚古墳)は従来、
一辺が28メートルの方墳か直径30メートルの円墳であるとされてきたが、
西暦2014年、
明日香村教育委員会と関西大学の調査チームによって、
一辺が40メートルで石が積み上げられた階段状の巨大な方墳であることが確認された。
当時の大王に匹敵する規模の古墳であることから、
稲目の墓である可能性が指摘されている。