阿知直の伝承は加上したものとみなされ、
実際の来朝は日朝交渉が緊密化して以降、
およそ5世紀後半に求められている。
倭漢直は渡来系技術者集団を駆使して王権に奉仕し、
その活躍は文筆・財務・外交・手工業など多岐に及ぶが、
6世紀以降は軍事的機能が特筆される。
先述した雄略天皇の遺詔に代表されるように、
はじめ倭漢直は大伴連と密接な関係を有していたと考えられるが、
大伴連が没落して以降は蘇我臣に接近している。
馬子の命を受けた東漢直駒による崇峻天皇の暗殺や、
乙巳の変において蝦夷の守りを固めているのが、
蘇我臣を軍事的に支えていた実例であろう。
蘇我系の古人大兄皇子が謀反を密告された際にも、
その謀議に加わった人物として倭漢文直麻呂の名が挙げられている。
倭漢直の軍事力は壬申の乱においても発揮され、
大海人皇子に勝利をもたらしている。
天武6年(677)に出された詔では、
小墾田の御世(推古期)から近江朝(天智期)まで東漢直は「七つの不可」を犯してきたが、
東漢直が絶えることを惜しみ、
それまでの罪を赦すと述べている。
壬申の乱における功績が評価されたのと同時に、
その軍事力が王権にとっても無視し得ないものであったことを物語っていよう。
倭漢直には多数の後裔氏族が知られるが、
天武11年に連姓を賜った際には、
書直智徳がほかの分流に先行して連姓を賜っており、
この段階では書直(連・忌寸)が族長的地位にあったと推測される。
ただし、書忌寸の活動は8世紀初頭には縮小しており、
代わって民忌寸が複数の叙爵者を輩出したが、
最終的に族長的地位についたのは坂上忌寸(宿禰)であった。
『新撰姓氏録』逸文の系譜が製作された8世紀末は、
まさに坂上宿禰が族長的地位を確立しようとする時期にあたる。
この時期には坂上宿禰に次ぐ倭漢集団内の勢力として大蔵宿禰・内蔵宿禰などがあったが、
これらの氏族は『新撰姓氏録』逸文が列記する後裔氏族に挙げられていない。
倭漢集団内の有力氏族は坂上宿禰の主張する系譜とは異なる独自の系譜を有しており、
坂上宿禰が有力氏族に配慮して系譜に組み込まなかった可能性が指摘されている。
その系譜のなかにみられる「三腹」についても信憑性は疑問視されており、
むしろ職能によって組織化されていた集団が、
兄腹・中腹・弟腹、
さらには阿知使主・都加使主を始祖とする擬制的血縁集団へと収斂されていった結果と捉えるべきだろう。
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