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倭漢直(やまとのあやのあたひ/やまとのあやのあたい)

作成日:2023/4/24

倭漢直(やまとのあやのあたひ/やまとのあやのあたい)

後漢・霊帝の後裔を称する渡来系氏族。倭漢は東漢とも書く。 実態は朝鮮半島南部からの渡来集団と考えられており、 漢(アヤ)の由来を任那の「安耶(安羅・阿那)」に求める説もある。

雄略16年10月に直姓、 西暦682年天武天皇11年)5月に連姓、 西暦685年天武天皇14年6月)に忌寸姓を賜った。 始祖は応神天皇の時代に来朝した阿知直(阿知使主・阿知王)とされ、 『古事記』では墨江中王によって放火された宮殿から履中天皇を救い出している。 『坂上系図』に引用される『新撰姓氏録』逸文によれば、 阿知王の来朝は「本国」の戦乱を避けたものであり、 応神天皇より使主号と大和国檜前の地を賜ると、 離散した故郷の人民を檜前に呼び集め、 同地を今来郡(のちに高市郡)として倭漢直の本拠としたとされる。

雄略天皇の時代には渡来系技術者集団である漢人・漢部の統率者に任ぜられ、 さらに倭漢直掬(阿知直の子・都加使主と同一人物とされる)は雄略天皇の遺詔によって大伴大連室屋とともに後事を託されるなど、 その勢力を大きく拡大させる。 すでに履中天皇の時代に阿知直は内蔵の出納を担っていたが、 雄略天皇の時代に大蔵が設置されると、 漢氏は秦氏とともに内蔵・大蔵の主鎰・蔵部を務めたとも伝えられる(『古語拾遺』)。 また、『新撰姓氏録』逸文は都賀使主の子(山木・志努・爾波伎)をそれぞれ兄腹・中腹・弟腹と称しており、 倭漢直の後裔氏族は大きく三流に分かれていたことが知られる。 ただし、これらの史料には編纂時の政治的意図が多分に含まれているため、 史実とみるには慎重になるべきである。 ...

阿知直の伝承は加上したものとみなされ、 実際の来朝は日朝交渉が緊密化して以降、 およそ5世紀後半に求められている。
倭漢直は渡来系技術者集団を駆使して王権に奉仕し、 その活躍は文筆・財務・外交・手工業など多岐に及ぶが、 6世紀以降は軍事的機能が特筆される。
先述した雄略天皇の遺詔に代表されるように、 はじめ倭漢直は大伴連と密接な関係を有していたと考えられるが、 大伴連が没落して以降は蘇我臣に接近している。
馬子の命を受けた東漢直駒による崇峻天皇の暗殺や、 乙巳の変において蝦夷の守りを固めているのが、 蘇我臣を軍事的に支えていた実例であろう。
蘇我系の古人大兄皇子が謀反を密告された際にも、 その謀議に加わった人物として倭漢文直麻呂の名が挙げられている。
倭漢直の軍事力は壬申の乱においても発揮され、 大海人皇子に勝利をもたらしている。
天武6年(677)に出された詔では、 小墾田の御世(推古期)から近江朝(天智期)まで東漢直は「七つの不可」を犯してきたが、 東漢直が絶えることを惜しみ、 それまでの罪を赦すと述べている。
壬申の乱における功績が評価されたのと同時に、 その軍事力が王権にとっても無視し得ないものであったことを物語っていよう。

倭漢直には多数の後裔氏族が知られるが、 天武11年に連姓を賜った際には、 書直智徳がほかの分流に先行して連姓を賜っており、 この段階では書直(連・忌寸)が族長的地位にあったと推測される。
ただし、書忌寸の活動は8世紀初頭には縮小しており、 代わって民忌寸が複数の叙爵者を輩出したが、 最終的に族長的地位についたのは坂上忌寸(宿禰)であった。
新撰姓氏録』逸文の系譜が製作された8世紀末は、 まさに坂上宿禰が族長的地位を確立しようとする時期にあたる。
この時期には坂上宿禰に次ぐ倭漢集団内の勢力として大蔵宿禰・内蔵宿禰などがあったが、 これらの氏族は『新撰姓氏録』逸文が列記する後裔氏族に挙げられていない。
倭漢集団内の有力氏族は坂上宿禰の主張する系譜とは異なる独自の系譜を有しており、 坂上宿禰が有力氏族に配慮して系譜に組み込まなかった可能性が指摘されている。
その系譜のなかにみられる「三腹」についても信憑性は疑問視されており、 むしろ職能によって組織化されていた集団が、 兄腹・中腹・弟腹、 さらには阿知使主・都加使主を始祖とする擬制的血縁集団へと収斂されていった結果と捉えるべきだろう。


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