平城京における肥大化した奈良仏教各寺の影響力を厭い、
天武天皇流が自壊して天智天皇流に皇統が戻ったこともあって、
当時秦氏が開拓していたものの、
ほとんど未開の山城国への遷都を行う。
初め延暦3年(784年)に長岡京を造営するが、
天災や後述する近親者の不幸・祟りが起こり、
その原因を天皇の徳がなく天子の資格がないことにあると民衆に判断されるのを恐れて、
わずか10年後の延暦13年(794年)、
側近の和気清麻呂・藤原小黒麻呂(北家)らの提言もあり、
気学における四神相応の土地相より長岡京から艮方位(東北)に当たる場所の平安京へ改めて遷都した。
また、
軍隊に対する差別意識と農民救済の意識から、
健児制を導入したことで百姓らの兵役の負担は解消された。
しかし、
この制度も間もなく機能しなくなり、
9世紀を通じて朝廷は軍事力がない状態になった。
その結果として、
9世紀の日本列島は無政府状態となり、
結果として、
日本列島は16世紀の織豊政権樹立まで、
700年近い戦乱の時代に陥った。
そのような状況において、
有力な農民が自衛のために武装して、
武士へと成長することとなった。
文化面では『続日本紀』の編纂を発案したとされる。
また最澄を還学生(短期留学生)として唐で天台宗を学ばせ、
日本の仏教に新たな動きをもたらしたのも桓武天皇治下で、
いわゆる「南都六宗」と呼ばれた既存仏教に対しては封戸の没収など圧迫を加えている。
また後宮の紊乱ぶりも言われており、
それが後の薬子の変へとつながる温床となったともされる。
その他、
即位前の宝亀3年には井上内親王と他戸親王の、
在位中の延暦4年には早良親王の不自然な薨去といった暗い事件が多々あった。
井上内親王や早良親王の怨霊を恐れて同19年7月23日(西暦800年8月16日)に後者に「崇道天皇」と追号し、
前者は皇后位を復すと共にその墓を山陵と追称したりしている。
治世中は2度の遷都や東北への軍事遠征を主導し、 地方行政を監査する勘解由使の設置など、 歴代天皇の中でもまれに見る積極的な親政を実施したが、 青年期に官僚としての教育を受けていたことや壮年期に達してからの即位がこれらの大規模な政策の実行を可能にしたと思われる。
陵(みささぎ)は、
宮内庁により桃山陵墓地内にある柏原陵(かしわばらのみささぎ)に治定(京都府京都市伏見区桃山町永井久太郎)されている。
宮内庁上の形式は円丘。
上記とは別に、 伏見区深草大亀谷古御香町にある宮内庁の大亀谷陵墓参考地(おおかめだにりょうぼさんこうち)では、 桓武天皇が被葬候補者に想定されている。
在世中に宇多野(うたの)への埋葬を希望したとされるが、
不審な事件が相次ぎ卜占によって賀茂神社の祟りであるとする結果が出され、
改めて伏見の地が選ばれ、
柏原陵が営まれた。
『延喜式』に記された永世不除の近陵として、
古代から中世前期にかけて朝廷の厚い崇敬を集めた。
柏原陵の在所は中世の動乱期において不明となり、
さらに豊臣秀吉の築いた伏見城の敷地内に入ってしまったため、
深草・伏見の間とのみ知られていた。
元禄年間の修陵で深草鞍ヶ谷町浄蓮華院境内の谷口古墳が考定され、
その後幕末に改めて桃山町の現陵の場所に定められた。
もっともその根拠は乏しいと見られ、
別に桃山丘陵の頂き付近に真陵の位置を求める説もあるため、
確かな場所は不明とするほかない。
また皇居では、
皇霊殿(宮中三殿の一つ)において、
他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
なお、
後述するように平安京への遷都を行い、
かつ同京最初の天皇となったことにちなんで、
明治28年(西暦1895年)に平安遷都1100年を記念して、
桓武天皇を祀る平安神宮が創祀されている。