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桓武天皇(かんむてんのう、くゎんむてんのう)

作成日:2020/6/7

桓武天皇(かんむてんのう、)は、日本の第50代天皇(在位:。諱は山部(やまのべ / やまべ)。 平城京から長岡京および平安京への遷都を行った。また、践祚と日を隔てて即位した初めての天皇である。桓武平氏の祖にも当たる。

《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第50代天皇 桓武天皇(かんむてんのう、くゎんむてんのう)

[在位] 西暦781年4月30日(天応元年4月3日) - 西暦806年4月9日(延暦25年3月17日)《紀》
[生没] 西暦737年天平9年)- 西暦806年4月9日(延暦25年3月17日)70歳没《紀》
[時代] 平安時代
[先代] 光仁天皇   [次代] 平城天皇
[和風諡号] 日本根子皇統弥照天皇(やまとねこすめろぎいやてりのすめらみこと)
[] 山部(やまのべ / やまべ)
[別称] 柏原帝日本根子皇統弥照尊天國押撥御宇柏原天皇
[父親] 光仁天皇   [母親] 高野新笠
[皇后] 乙牟漏
[皇居] 平城宮、長岡宮、平安宮
[陵所] 柏原陵(かしわばらのみささぎ)

年表

天皇の系譜(第38代から第50代)
天平9年(西暦737年)
降誕
白壁王(後の光仁天皇)の長男(第一王子)として天平9年(西暦737年)に産まれた。 生母は百済系渡来人氏族の和氏の出身である高野新笠。
当初は皇族としてではなく官僚としての出世が望まれて、 大学頭や侍従に任じられた(光仁天皇即位以前は山部王と称された)。
天応元年(西暦781)
4月13日(5月10日) 即位礼
11月15日(12月4日) 大嘗祭
宝亀3年(西暦772年)
3月2日(4月9日) 異母弟の皇太子・他戸親王の母である皇后・井上内親王が廃された。
5月27日(7月2日) 他戸親王が廃された。
宝亀3年(西暦西暦773年)
4年1月2日(1月29日) 皇太子とされた。
父王(光仁天皇)の即位後は親王宣下と共に四品が授けられ、 後に中務卿に任じられたものの、 生母の出自が低かったため立太子は予想されていなかった。
しかし、 藤原氏などを巻き込んだ政争により、 異母弟の皇太子・他戸親王の母である皇后・井上内親王が宝亀3年3月2日(772年4月9日)に、 他戸親王が同年5月27日(7月2日)に相次いで突如廃されたために、 翌4年1月2日(773年1月29日)に皇太子とされた。 その影には式家の藤原百川による擁立があったとされる。
なお井上内親王と他戸親王は同日に同じ幽閉先で逝去したが、 他戸親王の実姉(桓武天皇の異母妹にあたる)酒人内親王を妃として、 朝原内親王を儲けた。
天応元年(西暦781年)
天応元年4月3日(西暦781年4月30日) 父から譲位されて即位。
天応元年4月4日(西暦781年5月1日) 同母弟の早良親王を皇太子と定めた。
天応元年4月15日(西暦781年5月12日)に即位の詔を宣した。
延暦2年(西暦783年)
4月18日(5月23日) 百川の兄・藤原良継の娘・乙牟漏を皇后とした。
彼女との間に安殿親王(後の平城天皇)と神野親王(後の嵯峨天皇)を儲けた。
また、 百川の娘で良継の外孫でもあった夫人・藤原旅子との間には大伴親王(後の淳和天皇)がいる。
延暦3年(西暦784年)
長岡京を造営する。
延暦4年(西暦785年)
9月頃 早良親王を藤原種継暗殺の廉により廃太子の上で流罪に処し、親王が抗議のための絶食で配流中に薨去するという事件が起こった。
11月10日 交野柏原(現在の大阪府枚方市)において、日本で初めて、天を祀る郊祀を行った。
11月25日(12月31日) 安殿親王を皇太子とした。
延暦6年(西暦787年)
11月5日 交野柏原において、2度目の郊祀を行った。
延暦8年(西暦789年)
紀古佐美を征東大使とする最初の蝦夷征討軍は惨敗した。
延暦10年(西暦791年)
乙牟漏の亡きあとに神野親王(嵯峨天皇)の乳母を務めた大秦公忌寸浜刀自女に賀美能宿禰の姓を贈る。『続日本紀
延暦13年(西暦794年)
平安京遷都した。
2度目の征夷大将軍・大伴弟麻呂が蝦夷征討軍を率いる。
延暦20年(西暦801年)
3度目の蝦夷征討軍の派遣
2度目の征夷大将軍・大伴弟麻呂の補佐役として活躍した坂上田村麻呂を抜擢して、 彼を征夷大将軍とする3度目の蝦夷征討軍を送った。
延暦21年(西暦802年)
3度目の蝦夷征討から田村麻呂がアテルイら500人の蝦夷を京都へ護送し、蝦夷の脅威は減退した。
延暦22年(西暦803年)
田村麻呂が志波城を築いた時点で蝦夷はほぼ平定された。
延暦24年(西暦805年)
平安京の造作と東北への軍事遠征がともに百姓を苦しめているとの藤原緒嗣(百川の長子)の建言を容れて、 いずれも中断している(緒嗣と菅野真道とのいわゆる徳政相論)。
(西暦)
延暦25年3月17日(西暦806年4月9日)
崩御。於:平安宮正寝柏原大輔
安殿親王が平城天皇として即位した。
延暦25年4月7日(西暦806年4月28日)
大喪儀

治世

平城京における肥大化した奈良仏教各寺の影響力を厭い、 天武天皇流が自壊して天智天皇流に皇統が戻ったこともあって、 当時秦氏が開拓していたものの、 ほとんど未開の山城国への遷都を行う。
初め延暦3年(784年)に長岡京を造営するが、 天災や後述する近親者の不幸・祟りが起こり、 その原因を天皇の徳がなく天子の資格がないことにあると民衆に判断されるのを恐れて、 わずか10年後の延暦13年(794年)、 側近の和気清麻呂・藤原小黒麻呂(北家)らの提言もあり、 気学における四神相応の土地相より長岡京から艮方位(東北)に当たる場所の平安京へ改めて遷都した。

また、 軍隊に対する差別意識と農民救済の意識から、 健児制を導入したことで百姓らの兵役の負担は解消された。 しかし、 この制度も間もなく機能しなくなり、 9世紀を通じて朝廷は軍事力がない状態になった。
その結果として、 9世紀の日本列島は無政府状態となり、 結果として、 日本列島は16世紀の織豊政権樹立まで、 700年近い戦乱の時代に陥った。
そのような状況において、 有力な農民が自衛のために武装して、 武士へと成長することとなった。

文化面では『続日本紀』の編纂を発案したとされる。
また最澄を還学生(短期留学生)として唐で天台宗を学ばせ、 日本の仏教に新たな動きをもたらしたのも桓武天皇治下で、 いわゆる「南都六宗」と呼ばれた既存仏教に対しては封戸の没収など圧迫を加えている。
また後宮の紊乱ぶりも言われており、 それが後の薬子の変へとつながる温床となったともされる。

その他、 即位前の宝亀3年には井上内親王と他戸親王の、 在位中の延暦4年には早良親王の不自然な薨去といった暗い事件が多々あった。
井上内親王や早良親王の怨霊を恐れて同19年7月23日(西暦800年8月16日)に後者に「崇道天皇」と追号し、 前者は皇后位を復すと共にその墓を山陵と追称したりしている。

治世中は2度の遷都や東北への軍事遠征を主導し、 地方行政を監査する勘解由使の設置など、 歴代天皇の中でもまれに見る積極的な親政を実施したが、 青年期に官僚としての教育を受けていたことや壮年期に達してからの即位がこれらの大規模な政策の実行を可能にしたと思われる。

后妃・皇子女

ほか

陵・霊廟

陵(みささぎ)は、 宮内庁により桃山陵墓地内にある柏原陵(かしわばらのみささぎ)に治定(京都府京都市伏見区桃山町永井久太郎)されている。
宮内庁上の形式は円丘。

上記とは別に、 伏見区深草大亀谷古御香町にある宮内庁の大亀谷陵墓参考地(おおかめだにりょうぼさんこうち)では、 桓武天皇が被葬候補者に想定されている。

在世中に宇多野(うたの)への埋葬を希望したとされるが、 不審な事件が相次ぎ卜占によって賀茂神社の祟りであるとする結果が出され、 改めて伏見の地が選ばれ、 柏原陵が営まれた。
延喜式』に記された永世不除の近陵として、 古代から中世前期にかけて朝廷の厚い崇敬を集めた。

柏原陵の在所は中世の動乱期において不明となり、 さらに豊臣秀吉の築いた伏見城の敷地内に入ってしまったため、 深草・伏見の間とのみ知られていた。
元禄年間の修陵で深草鞍ヶ谷町浄蓮華院境内の谷口古墳が考定され、 その後幕末に改めて桃山町の現陵の場所に定められた。
もっともその根拠は乏しいと見られ、 別に桃山丘陵の頂き付近に真陵の位置を求める説もあるため、 確かな場所は不明とするほかない。

また皇居では、 皇霊殿(宮中三殿の一つ)において、 他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
なお、 後述するように平安京への遷都を行い、 かつ同京最初の天皇となったことにちなんで、 明治28年(西暦1895年)に平安遷都1100年を記念して、 桓武天皇を祀る平安神宮が創祀されている。

百済との関係

百済王氏等への厚遇
桓武天皇の生母である高野新笠の出身は、 百済系渡来人氏族で史姓の和氏であり、 中央政権に顕官を出す氏族ではなく、 また新笠の母方の土師氏も有力な氏族ではなかった。
光仁天皇の皇后・井上内親王が廃され、 山部親王(桓武天皇)が皇太子となっても、 新笠は皇后にはなれず、 従三位・夫人の位までであった。

桓武天皇は即位間もなく、 天応元年(西暦781年)4月に母・新笠を皇太夫人とし、 西暦従兄弟にあたる和家麻呂は異例の出世を遂げ、 祖母方の土師氏も、 大枝(大江)朝臣・菅原朝臣などの姓を賜った。
延暦8年12月28日(西暦790年1月)に母・新笠が薨ずると皇太后位を贈り、 延暦9年(西暦790年)1月に新笠を葬る前日、 和氏は百済武寧王の子孫であり、 百済王族の遠祖である都慕王(東明王)は河伯の娘が日光により身籠ったものであるとして、 これにちなんで新笠に「天高知日之子姫尊」の諡号を贈った。
さらに、 同年2月に「百済王氏は朕の外戚である」と詔を発し、 百済王氏の位階を進めた。
百済王氏を外戚と称することで、 母・新笠の出身氏族を名目上高貴なものにし、 その結果母の身分を上昇させようとした、 と考えられる。
在位中、 百済王氏が本拠としていた交野にたびたび狩猟のため行幸し、 百済王氏を重用した。
また、 後宮に百済王氏の教法・教仁・貞香を召しいれ、 百済王明信を尚侍としている。
天皇明仁の発言
平成13年(西暦2001年)12月18日、 天皇誕生日前に恒例となっている記者会見において、 天皇明仁は翌年に予定されていたサッカーワールドカップ日韓共催に関する「おことば」の中で、
私自身としては、 桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、 『続日本紀』に記されていることに、 韓国とのゆかりを感じています。
武寧王は日本との関係が深く、 この時以来、 日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。
また、武寧王の子、聖明王は、 日本に仏教を伝えたことで知られております。

との発言を行った。

この発言は、 テレビ各社のニュースでは重ねて報じられたが、 日本の新聞各紙の報道は簡素だった。
韓国では大きな反響を呼び、 「皇室は韓国人の血筋を引いている」、 「皇室百済起源論」「日王が秘められた事実を暴露」などの発言意図から逸脱した報道も多く行われたほか、 当時の金大中大統領が年頭記者会見で歓迎の意を表するほどだった。
なお、 天皇明仁は平城遷都1300年記念祝典の挨拶でも、 百済とのゆかりについて同様の趣旨を発言している。

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