小窓
長屋王の変(ながやおうのへん)

作成日:2023/3/24

長屋王の変(ながやおうのへん)

西暦729年天平元年2月)に起こった政変。
左大臣長屋王が謀反を計画しているとの告発を受け、 兵が王邸を包囲し訊問の結果、王は自殺。 妻の吉備内親王(きびないしんのう)、子の膳夫王(かしわでおう)、 桑田王、葛木王(かずらきおう)、鉤取王(かぎとりおう)らも後を追い、 夫妻は生馬(生駒)山(いこまやま)に葬られた。 縁坐した者も少数はいたが、まもなく王の兄弟姉妹、 妻子をはじめ関係者は許され、事件は急速に集結した。

これは聖武天皇と夫人(ぶにん)藤原光明子(ふじわらのこうみょうし)(のちの光明皇后)との間に生まれた皇太子基王(もといおう)(某王との説も)が前年に死去する一方、 別の夫人県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)が安積親王(あさかしんのう)を生んだ状況下で、 安積立太子を阻むとともに第2子誕生を期待して、 光明子立后をめざす藤原氏が、反対派と目される長屋王を排除するために起こした事件とみられる。

同年8月、神亀(じんき)から天平に改元したのち光明子は皇后となった。 なお長屋王邸は平城京左京3条2坊にあり、 事件後それは国家に没収され、 立后に伴って光明皇后の宮になったことが、 出土木簡(もっかん)によって判明している。