恭仁京(くにきょう/くにのみやこ)は、奈良時代の都城。
山背国相楽郡(現在の京都府木津川市加茂地区)に位置する。
正式名称は「大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)」。
宮跡は山城国分寺跡と重複し、
合わせて国の史跡に指定されている(指定名称は「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」)。
藤原広嗣の乱の後、天平12年(740年)12月15日聖武天皇の勅命により、平城京から遷都された。相楽が選ばれた理由として右大臣(のち左大臣)・橘諸兄の本拠地であったことが指摘されている。
西暦741年(
天平13年)の9月に左京右京が定められ、
11月には大養徳恭仁大宮という正式名称が決定され、
大極殿が平城京から移築され、
大宮垣が築かれていき、宮殿が造られた。
条坊地割りが行われ、木津川に大きな橋が架けられた。
しかし、都としては完成しないまま
西暦743年(
天平15年)の末にはこの京の造営は中止されて、
聖武天皇は近江紫香楽宮に移り、
西暦742年(
天平14年)秋には近江国で宮の建設が始まり、
さらに
西暦744年(
天平16年)2月に、
穂積老を留守官に任じて
難波京に
遷都、
さらに
西暦745年(
天平17年)5月に都は
平城京に戻された。
遷都後、
西暦748年(
天平18年
???20年???)恭仁宮大極殿は山背国分寺に
施入されている。
宮は
平城宮を簡略化した程度で、
南北750メートル、
東西560メートルの南北に長い長方形であった。
朝堂院も平城宮より東西に幅が狭く、板塀で囲まれていた。
西側は狭い谷間、
東側は木津川の氾濫原によって宮や京の造営が制約され、
全体的に小規模であったとみられ、
条坊制を示す遺構も確認されていない。