小窓
恭仁京()

作成日:2023/3/30

恭仁京(くにきょう/くにのみやこ)は、奈良時代の都城。 山背国相楽郡(現在の京都府木津川市加茂地区)に位置する。
正式名称は「大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)」。
宮跡は山城国分寺跡と重複し、 合わせて国の史跡に指定されている(指定名称は「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」)。

藤原広嗣の乱の後、天平12年(740年)12月15日聖武天皇の勅命により、平城京から遷都された。相楽が選ばれた理由として右大臣(のち左大臣)・橘諸兄の本拠地であったことが指摘されている。

西暦741年天平13年)の9月に左京右京が定められ、 11月には大養徳恭仁大宮という正式名称が決定され、 大極殿が平城京から移築され、 大宮垣が築かれていき、宮殿が造られた。 条坊地割りが行われ、木津川に大きな橋が架けられた。 しかし、都としては完成しないまま西暦743年天平15年)の末にはこの京の造営は中止されて、 聖武天皇は近江紫香楽宮に移り、 西暦742年天平14年)秋には近江国で宮の建設が始まり、 さらに西暦744年天平16年)2月に、 穂積老を留守官に任じて難波京遷都、 さらに西暦745年天平17年)5月に都は平城京に戻された。

遷都後、 西暦748年天平18年???20年???)恭仁宮大極殿は山背国分寺に施入されている。

宮は平城宮を簡略化した程度で、 南北750メートル、 東西560メートルの南北に長い長方形であった。 朝堂院も平城宮より東西に幅が狭く、板塀で囲まれていた。 西側は狭い谷間、 東側は木津川の氾濫原によって宮や京の造営が制約され、 全体的に小規模であったとみられ、 条坊制を示す遺構も確認されていない。