西暦701年(大宝元年)、
藤原不比等らによる編纂によって大宝律令が成立したが、
その後も不比等らは、
日本の国情により適合した内容とするために、
律令の撰修(改修)作業を継続していた(「慶雲の改革」)。
三代格式の弘仁格式によれば、
西暦718年(養老2年)に各10巻の律と令が藤原不比等により撰されている。
ところが、西暦720年(養老4年)の不比等の死により律令撰修はいったん停止することとなった(ただし、その後も改訂の企てがあり、最終的に施行の際にその成果の一部が反映されたとの見方もある)。
その後、孝謙天皇の治世の西暦757年5月、
藤原仲麻呂の主導によって、
西暦720年に撰修が中断していた新律令が施行されることとなった。
これが養老律令である。
旧大宝律令と新養老律令では、
一部(戸令など)に重要な改正もあったものの、
全般的に大きな差異はなく、
語句や表現、法令不備の修正が主な相違点であった。
ただし、
この通説に対しては近年において榎本淳一は大宝律令から養老律令への改正を一部唐風化による乖離を含むものの全体的には日本の実情に合わせた大規模な改正が行われ、
養老律令によって内容・形式が整った法典が完成したとする新説を唱え、
以後両者の差異に関する議論も行われるようになった。
以後、桓武天皇の時代に養老律令の修正・追加を目的とした刪定律令(24条)・刪定令格(45条)の制定が行われたが短期間で廃止となり、 以後日本において律令が編纂されることはなかった。
明治維新後、明治政府は、
西暦1868年(明治元年)に「仮刑律」、
西暦1870年に「新律綱領」を制定した。
律令のうち、律の部分のみ改正した法といえ、
これは律令制への復古と、武家法、慣習法などを用いて実際の状況に対応する両方の面があった。
西暦1873年の法改正、改定律例から、
従来の慣例と異なるヨーロッパの刑法制の導入が始まり、
西暦1876年には、
律から官吏の職務処分が切り離された。
西暦1880年(明治13年)に制定された旧刑法で、
従来の「律」から、近代法制である「刑法」へ、
用語面でも置き換わることになった