『古事記』の原本は現存せず、 幾つかの写本が伝わるのみである。
成立年代は、
写本の序に記された年月日(和銅5年正月28日(ユリウス暦712年3月9日))により、
8世紀初めと推定される。
内容は、
神代における天地の始まりから推古天皇の時代に至るまでの様々な出来事(神話や伝説などを含む)が紀伝体で記載される。
また、
数多くの歌謡を含む。
なお、
『古事記』は「高天原」という語が多用される点でも特徴的な文書である。
『古事記』は『日本書紀』とともに後世では『記紀』と総称される。
内容には一部に違いがあり、『日本書紀』のような勅撰の正史ではないが、『古事記』も序文で天武天皇が、
【原文】
撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉
【読み下し文】
帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り実を定めて、後葉に流へむと欲ふ。
と詔したと記載があるため、
勅撰とも考えられる。
史料の上では、
序文に書かれた成立過程や皇室の関与に不明な点や矛盾点が多いとする見解もある。
ただし、
あくまでも神話の世界の話であることや日本における皇室の正統性を想起させる内容であることから、
近現代においてはイデオロギーのための議論のもととして利用されることもあったが、
古事記に記述されていることが真実であっても、
脚色を含んだものであったとしても、
原点をあたる手段もないので証明の手立てがないと言わざるを得ない。
また『日本書紀』における『続日本紀』のような『古事記』の存在を直接証明する物証もないため、 古事記偽書説も唱えられていたが、 現在では「偽書ではない」と捉えるのが主流となっている。
『古事記』は歴史書であるとともに文学的な価値も非常に高く評価され、
また日本神話を伝える神典の一つとして、
神道を中心に日本の宗教文化・精神文化に多大な影響を与えている。
『古事記』に現れる神々は、
現在では多くの神社で祭神として祀られている。
一方文化的な側面は日本書紀よりも強く、 創作物や伝承等で度々引用されるなど、 世間一般への日本神話の浸透に大きな影響を与えている。
中大兄皇子(天智天皇)らによる蘇我入鹿暗殺事件(乙巳の変)に憤慨した蘇我蝦夷は、
大邸宅に火をかけ自害した。
この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上したと言われる。
『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ『国記』は難を逃れ天智天皇に献上されたとされるが、
共に現存しない。
天智天皇は白村江の戦いで唐・新羅連合に敗北し、
予想された渡海攻撃への準備のため史書編纂の余裕はなかった。
その時点で既に諸家の『帝紀』及『本辭』(=『旧辞』)は虚実ない交ぜの状態であった。
壬申の乱後、 天智天皇の弟である天武天皇が即位し、 『天皇記』や焼けて欠けてしまった『国記』に代わる国史の編纂を命じた。
その際、 28歳で高い識字能力と記憶力を持つ稗田阿礼に『帝紀』及『本辭』(『旧辞』)などの文献を「誦習」させた。
その後、 元明天皇の命を受け、 太安萬呂が稗田阿礼の「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を編纂し、 『古事記』を完成させた。
成立の経緯を記す序によれば『古事記』は、
天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を太安萬呂が書き記し、
編纂したものである。
かつて「誦習」は、
単に「暗誦」することと考えられていたが、
小島憲之(『上代日本文学と中国文学 上』塙書房)や西宮一民(「古事記行文私解」『古事記年報』)らによって、
「文字資料の読み方に習熟する行為」であったことが確かめられている。
書名は『古事記』とされているが、
作成当時においては古い書物を示す一般名詞であったことから、
正式名ではないといわれる。
また、
書名は安萬侶が付けたのか、
後人が付けたのかは定かではない。
読みは「フルコトブミ」との説もあったが、
現在は一般に音読みで「コジキ」と呼ばれる。
『古事記』は『帝紀』的部分と『旧辞』的部分とから成る。
『帝紀』は初代天皇から第33代天皇までの名、
天皇の后妃・皇子・皇女の名、及びその子孫の氏族など、
このほか皇居の名・治世年数・崩年干支・寿命・陵墓所在地、
及びその治世の主な出来事などを記している。
これらは朝廷の語部などが暗誦して天皇の大葬の殯の祭儀などで誦み上げる慣習であったが、
6世紀半ばになると文字によって書き表されたものである。
『旧辞』は、 宮廷内の物語、 皇室や国家の起源に関する話をまとめたもので、 同じ頃書かれたものである。
なお、 笹川尚紀は、 舒明天皇の時代の後半に天皇と蘇我氏の対立が深まり、 舒明天皇が蘇我氏が関わった『天皇記』などに代わる自己の正統性を主張するための『帝記』と『旧辞』を改訂・編纂を行わせ、 後に子である天武天皇に引き継がれて、 それが『古事記』の元になったと推測している。
本文は「変体漢文」を主体とし、
古語や固有名詞のように、
漢文では代用しづらいものは一字一音表記としている。
歌謡はすべて一字一音表記とされており、
本文の一字一音表記部分を含めて上代特殊仮名遣の研究対象となっている。
また一字一音表記のうち、
一部の神の名などの右傍に 上、去 と、中国の文書にみられる漢語の声調である四声のうち上声と去声と同じ文字を配している。
『古事記』は物語中心に書かれているが、
それだけでなく多くの歌謡も挿入されている。
これらの歌謡の多くは、
民謡や俗謡であったものが、
物語に合わせて挿入された可能性が高い。
有名な歌として、
須佐之男命が櫛名田比売と結婚したときに歌い、
和歌の始まりとされる
『古事記』の研究は、近世以降、特に盛んとなった。
江戸時代の本居宣長による全44巻の註釈書『古事記傳』は『古事記』研究の古典であり、
厳密かつ実証的な校訂は後世に大きな影響を与えている。
第二次世界大戦後は、
倉野憲司や武田祐吉、西郷信綱、西宮一民、神野志隆光らによる研究や注釈書が発表された。
特に倉野憲司による岩波文庫版は、初版(1963年(昭和38年))刊行以来、
重版の通算は約100万部に達している。
20世紀後半になり、
『古事記』の研究はそれまでの成立論から作品論へとシフトしている。
成立論の代表としては津田左右吉や石母田正があり、
作品論の代表としては、吉井巌・西郷信綱・神野志隆光がいる。