神武天皇の生年は庚午年1月1日とある。
『日本書紀』の記載から換算すれば、
紀元前711年2月11日となる。
没年は紀元前585年(神武天皇76年3月11日)となっている。
日本の初代天皇とされる『古事記』・『日本書紀』上の人物である。
在位:紀元前年(神武天皇元年1月1日) - 紀元前585年(神武天皇76年3月11日)
諱は彦火火出見尊(ひこほほでみ)、
あるいは狭野(さの、さぬ)。
『日本書紀』記載の名称は神日本磐余彦天皇(かんやまといわれびこのすめらみこと)。
天照大御神の五世孫であり、
高皇産霊尊の五世の外孫と『古事記』『日本書紀』に記述されている。
奈良盆地一帯の指導者長髄彦らを滅ぼして一帯を征服(神武東征)。
遷都した橿原宮(現在の奈良県橿原市)にて即位して日本国を建国したと言われる人物。
45歳のときに兄や子を集め東征を開始。(⇒ 神武東征)
日向国 から 筑紫国、 安芸国、 吉備国、 浪速国(摂津国)、 河内国、 紀伊国 を経て数々の苦難を乗り越え 中洲を征し、 畝傍山の東南橿原の地に都を開いた。
そして事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃とし、 翌年に初代天皇として即位した。
『日本書紀』に基づく明治時代の計算によると即位日は紀元前660年2月11日。
皇后となった媛蹈鞴五十鈴媛命との間には神八井耳命、
神渟名川耳尊(かむぬなかわみみ。綏靖天皇)を得た。
即位76年に崩御。
神倭伊波礼毘古命(若御毛沼命)は、
兄の五瀬命とともに、
日向の高千穂で、
葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、
東へ行くことにした。
彼らは、日向を出発し筑紫へ向かい、
豊国の宇沙(現・宇佐市)に着く。
菟狭津彦命・宇沙都比売の二人が一柱騰宮/足一騰宮(あしひとつあがりのみや)を作って彼らに食事を差し上げた。(⇒ 菟狭津彦命・宇沙都比売)
彼らはそこから移動して、
筑紫国の岡田宮で1年過ごし、
さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、
吉備国の高島宮で8年過ごした。
速吸門で亀に乗った国津神に会い、
水先案内として椎根津彦という名を与えた。
浪速国の白肩津に停泊すると、 登美能那賀須泥毘古の軍勢が待ち構えていた。 その軍勢との戦いの中で、 彦五瀬命は登美能那賀須泥毘古が放った矢に当たってしまった。
彦五瀬命は「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。
それで南の方へ回り込んだが、彦五瀬命は紀国の男之水門に着いた所で亡くなった。
神倭伊波礼毘古命が熊野まで来た時、 大熊が現われてすぐに消えた。すると神倭伊波礼毘古命を始め彼が率いていた兵士たちは皆気を失ってしまった。この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの大刀を持って来ると、神倭伊波礼毘古命はすぐに目が覚めた。高倉下から神倭伊波礼毘古命がその大刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、兵士たちは意識を回復した。
神倭伊波礼毘古命は高倉下に大刀を手に入れた経緯を尋ねた。
高倉下によれば、高倉下の夢に天照大神と高木神(タカミムスビ)が現れた。
二神は建御雷神を呼んで、
また、 高木大神の命令で遣わされた八咫烏の案内で、 熊野から吉野の川辺を経て、 さらに険しい道を行き大和の宇陀に至った。 宇陀には兄宇迦斯(エウカシ)・弟宇迦斯(オトウカシ)の兄弟がいた。 まず八咫烏を遣わして、神倭伊波礼毘古命に仕えるか尋ねさせたが、兄の兄宇迦斯は鳴鏑を射て追い返してしまった。兄宇迦斯は神倭伊波礼毘古命を迎え撃とうとしたが、軍勢を集められなかった。そこで、神倭伊波礼毘古命に仕えると偽って、御殿を作ってその中に押機(踏むと挟まれて、あるいは、天上や石が落ちてきて、押し潰すことで、圧死する罠)を仕掛けた。弟の弟宇迦斯は神倭伊波礼毘古命にこのことを報告した。そこで神倭伊波礼毘古命は、大伴氏(大伴連)らの祖の道臣命(ミチノオミ)と久米直らの祖の大久米命(オオクメ)を兄宇迦斯に遣わした。二神は矢をつがえて「仕えるというなら、まずお前が御殿に入って仕える様子を見せろ」と兄宇迦斯に迫り、兄宇迦斯は自分が仕掛けた罠にかかって死んだ。その後、圧死した兄宇迦斯の死体を引き出し、バラバラに切り刻んで撒いたため、その地を「宇陀の血原」という。
忍坂の地では、 土雲の八十建が待ち構えていた。 そこで神倭伊波礼毘古命は八十建に御馳走を与え、 それぞれに刀を隠し持った調理人をつけた。 そして合図とともに一斉に打ち殺した。
その後、兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)の兄弟と戦った。 最後に、登美毘古(ナガスネビコ)と戦い、 そこに邇藝速日命が参上し、 天津神の御子としての印の品物を差し上げて仕えた。
こうして荒ぶる神たちや多くの土雲(豪族)を服従させ、 神倭伊波礼毘古命は畝火の白檮原宮で神武天皇として即位した。
その後、大物主神の子である比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)を皇后とし、日子八井命(ヒコヤイ)、神八井耳命、神沼河耳命(カムヌナカワミミ、後の綏靖天皇)の三柱の子を生んだ。
「難波の碕に至り、その地を浪速国と名付ける。」とある。
磐余彦尊は、
船団を組み「難波の碕」に至ったとき、
その流れの速いところから「浪速国」と名付けたということである。
磐余彦尊が到着した時代の正確な地形は不明だが、 現在の平野の部分は海ないしは湖であった。 上町台地がせり出しており、流れが急だったと考えられる。
また、このあとに現れる「白肩の津」は枚方丘陵のあたりであったと考えられる。
宮(皇居)の名称は、
『日本書紀』では「橿原宮(かしはらのみや)」、
『延喜式』では「畝傍橿原宮(うねびのかしはらのみや)」、
『古事記』では「畝火の白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」と記す。
このほか、『万葉集』にも「可之波良能宇禰備乃宮(かしはらのうねびのみや)」がみえる。
伝承地は奈良県橿原市畝傍町の橿原神宮。
「橿原」の地名が早く失われたために宮跡は永らく不明であったが、
江戸時代以来、
多くの史家が「畝傍山東南橿原地」の記述を基に口碑や古書の蒐集を行っており、
その成果は蓄積されていった。
幕末から明治には、
天皇陵の治定をきっかけに在野からも聖蹟顕彰の機運が高まり、
明治21年(西暦1888年)2月に奈良県県会議員の西内成郷が内務大臣山縣有朋に対し、
宮跡保存を建言した(当初の目的は建碑のみ)。
翌年に明治天皇の勅許が下り、
県が「高畠」と呼ばれる橿原宮跡(の推定地、現在の外拝殿前広場)を買収。
京都御所の内侍所を賜って本殿、
神嘉殿を賜って拝殿(現在の神楽殿)と成し、
橿原神社(明治23年(西暦1890年)に神宮号宣下、官幣大社)が創建された。
明治44年(西暦1911年)から第一次拡張事業が始まり、
橿原神宮は創建時の2万159坪から3万600坪に拡張される。
その際、
周辺の民家(畝傍8戸、久米4戸、四条1戸)の一般村計13戸が移転し(『橿原神宮規模拡張事業竣成概要報告』)、
洞部落208戸、
1054人が大正6年(西暦1917年)に移転した(宮内庁「畝傍部沿革史」)。
なお、昭和13年(西暦1938年)から挙行された紀元2600年記念事業に伴い、
末永雅雄の指揮による神宮外苑の発掘調査が行われ、
その地下から縄文時代後期~晩期の大集落跡と橿の巨木が立ち木のまま16平方メートルにも根を広げて埋まっていたのを発見した。
鹿沼景揚(東京学芸大学名誉教授)が記したところによると、
これを全部アメリカのミシガン大学に持ち込み、
炭素14による年代測定をすると、
当時から2600年前のものであり、
その前後の誤差は±200年ということであった。
このことから『記紀』の神武伝承にはなんらかの史実の反映があるとする説もある。
またこの時期、
第二次拡張事業(昭和13年~15年、西暦1938年~西暦1940年)がなされる。
社背の境内山林に隣接する畝傍及び長山部落の共同墓地、
境内以西、
畝傍山御料林以南、
東南部深田池東側民家などを買収。
「境内地としての風致を将来した。」(「昭和二十一年稿 橿原神宮史」五冊-三、五冊-五(橿原神宮所蔵))
なお、この事業は国費および紀元2600年記念奉祝会費で賄われた。
陵(みささぎ)の名は畝傍山東北陵。
宮内庁により奈良県橿原市大久保町の遺跡名・俗称「四条ミサンザイ」に治定されている。
ただし埋蔵文化財包蔵地とはされていない。
宮内庁上の形式は円丘。
『記紀』によると畝傍山の北方、
白檮尾(かしのお)の上にあると記されている。
壬申の乱の際に大海人皇子が神懸りした際に「高市社の事代主神と身狭社の生霊神」が表れ「神日本磐余彦天皇の陵に、馬及び種々の兵器を奉れ」と神託を受けたため、
神武陵に使者を送って挙兵を報告したとされる。
天武期には陵寺として大窪寺が建てられたとみられる。
『延喜式』の第21巻の『諸陵式』によると、
神武天皇陵は、
平安の初め頃には、
東西1町、南2町の広さであった。
貞元2年(西暦977年)には神武天皇ゆかりのこの地に国源寺が建てられたが、
中世には神武陵の所在も分からなくなっていた。
江戸時代の初め頃から神武天皇陵を探し出そうという動きが起こっており、
水戸光圀が『大日本史』の編纂を始めた頃幕府も天皇陵を立派にすることで、
幕府の権威をより一層高めようとした。
元禄時代に陵墓の調査をし、
歴代の天皇の墓を決めて修理する事業が行われ、
その時に神武天皇陵に治定されたのが、
畝傍山から東北へ約700mの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳だった(現在は第2代綏靖天皇陵に治定されている)。
しかし、
畝傍山からいかにも遠く、
山の上ではなく平地にあるので、
福塚よりも畝傍山に少し近い「ミサンザイ」あるいは「ジブデン(神武田)」というところにある小さな塚(現在の神武陵)という説や、
最有力の洞の丸山という説もあった。
その後、
文久3年(西暦1863年)に神武陵はミサンザイに決まり、
幕府が15000両を出して修復し、
同時期に神武天皇陵だけでなく、
百余りの天皇陵全体の修復を行った。
このように神武天皇陵の治定は紆余曲折の歴史があり、
国源寺は明治初年、
神武天皇陵の神域となった場所から大窪寺の跡地へと移転したが、
ミサンザイにあった塚はもとは国源寺方丈堂の基壇であったという説もある。
現陵は橿原市大久保町洞(古くは高市郡白檮<かし>村大字山本)に所在し、
畝傍山からほぼ東北に300m離れており、
東西500m、南北約400mの広大な領域を占めている。
毎年、4月3日には宮中およびいくつかの神社で神武天皇祭が行なわれ、
山陵には勅使が参向し、
奉幣を行なっている。
また皇居では、
皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
神武天皇が即位したという辛酉の歳は、 そのまま西暦に換算すると紀元前660年であり、 同時に弥生時代早期又は縄文時代末期に当たる。
明治時代の歴史学者である那珂通世は、 西暦1897年の著書『上世年紀考』で「日本書紀」の記述を批判して、
大正時代には、 津田左右吉は『記紀』の成立過程に関して本格的な文献批判を行い、 神話学、民俗学の成果を援用しつつ、
津田の説に対する反論も存在し、
神武の実在性を主張する論者もいる。
安本美典は神武東征を邪馬台国の東遷(邪馬台国政権が九州から畿内へ移動したという説)であるとする。
古田武彦も神武天皇の実在を主張するが、
神武天皇が開いた大和朝廷を邪馬壱国/九州王朝の分家だとしている。
田中卓は初期天皇の皇后の出自伝承の素朴さが寧ろ帝系譜の信憑性を高めるとしている。
宝賀寿男は『記紀』が古代の地理事情を残している点や、
古代氏族の系図やトーテム・習俗、
年暦に関する研究から天照大御神から神武天皇までの皇統譜を実在のものとした。
田中や宝賀、古田は神武東征の出発地を北部九州とする点で安本や戦前の通説とは異なる。
久保田穰は初期天皇の実在を直接示唆するのは『記紀』であるが、
ほぼ同時期の『万葉集』や風土記、
その他史書や各種系図・神社伝承などが『記紀』の内容を支持するとした。
志賀剛は神武天皇の実在を認めつつ、
宇陀郡出身の人物として想定し、
東征の前半部分を虚構とする。
武光誠は西方文化集団の畿内への到来と銅鐸消滅時期が一致することから神武天皇的な存在を認めている。
なお現在神武天皇の史学的立ち位置は
ギネス世界記録では、
神武天皇の伝承を元に、
日本の皇室を「世界最古の王朝」としているが、
発行物には「現実的には4世紀」と記載している。
なお実在が確実な継体天皇から数えても、
現存する王朝としては世界最古にあたる。
神武天皇の即位年月日は、 『日本書紀』の記述に基づいて、 明治期に法的・慣習的に紀元前660年の旧暦元旦、新暦の2月11日とされている。
『日本書紀』においては、
年月日は全て干支で記している。
神武天皇の即位年月日は「辛酉年春正月庚辰朔」とある。
太陽暦(グレゴリオ暦)が明治6年(西暦1873年)1月1日 から暦として採用されたが、
それに先立って、
紀元節が旧暦である天保暦の正月(旧正月)とはならないようにするため、
神武天皇即位の日である紀元節を太陽暦(グレゴリオ暦)の特定の日付に固定する必要が生まれた。
文部省天文局が算出し、
暦学者の塚本明毅が審査して2月11日という日付を決定した。
具体的な計算方法は明かにされていないが、
当時の説明では「干支に相より簡法相立て」としている。
神武天皇の即位年は、
『日本書紀』の歴代天皇在位年数を元に逆算すると西暦紀元前660年に相当し、
即位月は「春正月」であることから立春の前後であり、
即位日の干支は「庚辰」である。
そこで西暦紀元前660年の立春に最も近い「庚辰」の日を探すと、
西暦では2月11日と特定される。
その前後では前年12月13日と同年4月12日も庚辰の日であるが、
これらは「春正月」になり得ない。
したがって「辛酉年春正月庚辰」は紀元前660年2月11日以外には考えられない。
また、
この日を以って皇紀元年とする暦が主に明治・大正期から終戦まで用いられた。
なお、
『日本書紀』は「庚辰」が「朔」、
すなわち新月の日であったとも記載しているが、
朔は暦法に依存しており「簡法」では計算できないので、
明治政府による計算では考慮されなかったと考えられる。
当時の月齢を天文知識に基づいて計算すると、
この日は天文上の朔に当たる。