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神武天皇/神武天皇(じんむてんのう)

作成日:2019/7/14
神武天皇は日本の初代天皇である。日本神話に登場する伝説上の人物である。
日本書紀』に基づく計算によると、 紀元前660年2月11日に奈良県橿原宮にて即位し、 日本を建国したとされる。

第二次世界大戦の終戦までは、 即位したとされる「2月11日」が祝日(紀元節)となっていた。

《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の初代天皇 神武天皇/神武天皇(じんむてんのう)

[在位] 紀元前660年2月11日(神武天皇元年1月1日) - 紀元前585年神武天皇76年3月11日) 《
[生没] 紀元前711年庚午年2月13日) - 紀元前585年神武天皇76年3月11日) 127歳没《》 137歳没《
[時代] 伝承の時代(弥生時代
[先代] 鸕鶿草葺不合尊。   [次代] 綏靖天皇
[和風諡号] 神日本磐余彦天皇- 《
[] 彦火火出見尊狭野
[父親] 鸕鶿草葺不合尊   [母親] 玉依姫
[皇后] 媛蹈鞴五十鈴媛命
[夫人] 吾平津媛
[皇居] 橿原宮(畝傍橿原宮、畝火之白檮原宮《記》)
[陵所] 畝傍山東北陵

年表

天皇の系譜(初代から第9代).svg
紀元前711年庚午年)明記された干支があるわけではなく、年齢から逆算したもの。
紀元前697年甲申年)明記された干支があるわけではなく、年齢から逆算したもの。
紀元前667年甲寅年)
紀元前661年庚申年)
紀元前660年神武天皇元年(辛酉年))
紀元前659年神武天皇2年)
紀元前657年神武天皇4年)
紀元前630年神武天皇31年)
紀元前619年神武天皇42年)
紀元前585年神武天皇76年)
紀元前584年(神武天皇77年(年号の表記について))
紀元前582年(神武天皇79年(年号の表記について))
紀元前581年綏靖天皇元年)
紀元前578年綏靖天皇4年)

概要

神武天皇の生年は庚午年1月1日とある。
『日本書紀』の記載から換算すれば、 紀元前711年2月11日となる。
没年は紀元前585年神武天皇76年3月11日)となっている。
日本の初代天皇とされる『古事記』・『日本書紀』上の人物である。 在位:紀元前年神武天皇元年1月1日) - 紀元前585年神武天皇76年3月11日)

諱は彦火火出見尊(ひこほほでみ)、 あるいは狭野(さの、さぬ)。
日本書紀』記載の名称は神日本磐余彦天皇(かんやまといわれびこのすめらみこと)。

天照大御神の五世孫であり、 高皇産霊尊の五世の外孫と『古事記』『日本書紀』に記述されている。
奈良盆地一帯の指導者長髄彦らを滅ぼして一帯を征服(神武東征)。
遷都した橿原宮(現在の奈良県橿原市)にて即位して日本国を建国したと言われる人物。

略歴

磐余彦尊(のちの神武天皇)は、 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊海神の娘・玉依姫の第四子として、 庚午年(『本朝皇胤紹運録』によると1月1日庚辰の日)に生まれた。
日本書紀』によると、 日向国の高千穂で誕生。
  1. 生年の庚午年は『日本書紀』の記載から換算すれば、 紀元前711年2月13日となる。
  2. ただし、生年は干支の記載があるわけではなく、年齢から換算したものである。
  3. 日本書紀』神代第十一段の第三の一書では第三子とし、第四の一書は第二子とする。

誕生の地である「日向国の高千穂」は「天孫降臨」の地である。
その「天孫降臨」の地の伝承地は2箇所の候補がある。
  1. 宮崎県北部の西臼杵(にしうすき)郡高千穂町。
    その古跡として高千穂神社があり、近くには「天岩戸」と呼ばれる岩窟をご神体とし、 瓊瓊杵尊が鎮祭したと伝えられる天岩戸神社もある。
  2. 宮崎県と鹿児島県との境に連なる霧島連山の高千穂峰(たかちほのみね)。
    霧島神宮が鎮座しています。

兄に彦五瀬命新羅王の祖とする稲飯命三毛入野命がいる。

磐余彦尊は、 生まれながらにして明達で強い意志を持っており、 甲申年に15歳で立太子。
甲申年は、 『日本書紀』の記載から換算すれば、紀元前697年になる。

磐余彦尊は、 将来、神武天皇(初代天皇)として即位する。 その初代天皇となる身が 立太子するというのは明らかに不合理である。
父の彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊を天皇に準じて扱ったとも見られる。
なお、父がいつ崩御したかの記述は無いが、 東征開始時に父を「皇考」(亡父の意)と呼んでおり、 これ以前に崩じたと見られる。

日向国吾田邑の吾平津媛を妃とし、 手研耳命を得た。

45歳のときに兄や子を集め東征を開始。(⇒ 神武東征

日向国 から 筑紫国安芸国吉備国、 浪速国(摂津国)、 河内国紀伊国 を経て数々の苦難を乗り越え 中洲を征し、 畝傍山の東南橿原の地に都を開いた。

そして事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃とし、 翌年に初代天皇として即位した。

日本書紀』に基づく明治時代の計算によると即位日は紀元前660年2月11日。

皇后となった媛蹈鞴五十鈴媛命との間には神八井耳命神渟名川耳尊(かむぬなかわみみ。綏靖天皇)を得た。

即位76年に崩御

親族

祖父:火折尊       祖母:豊玉姫
父親:鸕鶿草葺不合尊   母親:玉依姫
妃:吾平津媛
皇后:媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと) 事代主神の娘。

神武東征

神武東征(じんむとうせい)は、
磐余彦尊が日向(現在の宮崎県付近)を発ち、
奈良盆地とその周辺を統治していた長髄彦を滅ぼし、
橿原宮で初代天皇(神武天皇)として即位した。
という一連の説話をさす用語。

古事記の記載

神倭伊波礼毘古命若御毛沼命)は、 兄の五瀬命とともに、 日向の高千穂で、 葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、 東へ行くことにした。 彼らは、日向を出発し筑紫へ向かい、 豊国宇沙(現・宇佐市)に着く。
菟狭津彦命・宇沙都比売の二人が一柱騰宮/足一騰宮(あしひとつあがりのみや)を作って彼らに食事を差し上げた。(⇒ 菟狭津彦命・宇沙都比売
彼らはそこから移動して、 筑紫国の岡田宮で1年過ごし、 さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、 吉備国高島宮で8年過ごした。 速吸門で亀に乗った国津神に会い、 水先案内として椎根津彦という名を与えた。

浪速国の白肩津に停泊すると、 登美能那賀須泥毘古の軍勢が待ち構えていた。 その軍勢との戦いの中で、 彦五瀬命登美能那賀須泥毘古が放った矢に当たってしまった。

彦五瀬命は「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。

それで南の方へ回り込んだが、彦五瀬命紀国男之水門に着いた所で亡くなった。

神倭伊波礼毘古命が熊野まで来た時、 大熊が現われてすぐに消えた。すると神倭伊波礼毘古命を始め彼が率いていた兵士たちは皆気を失ってしまった。この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの大刀を持って来ると、神倭伊波礼毘古命はすぐに目が覚めた。高倉下から神倭伊波礼毘古命がその大刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、兵士たちは意識を回復した。

神倭伊波礼毘古命は高倉下に大刀を手に入れた経緯を尋ねた。 高倉下によれば、高倉下の夢に天照大神と高木神(タカミムスビ)が現れた。 二神は建御雷神を呼んで、

葦原中国は騒然としており、私の御子たちは悩んでいる。お前は葦原中国を平定させたのだから、再び天降りなさい

と命じたが、建御雷神は「平定に使った大刀を降ろしましょう」と答えた。 そして高倉下に、「倉の屋根に穴を空けてそこから大刀を落とすから、天津神の御子の元に運びなさい」と言った。目が覚めて自分の倉を見ると本当に大刀があったので、こうして運んだという。その大刀は甕布都神、または布都御魂と言い、現在は石上神宮に鎮座している。

また、 高木大神の命令で遣わされた八咫烏の案内で、 熊野から吉野の川辺を経て、 さらに険しい道を行き大和の宇陀に至った。 宇陀には兄宇迦斯(エウカシ)・弟宇迦斯(オトウカシ)の兄弟がいた。 まず八咫烏を遣わして、神倭伊波礼毘古命に仕えるか尋ねさせたが、兄の兄宇迦斯は鳴鏑を射て追い返してしまった。兄宇迦斯は神倭伊波礼毘古命を迎え撃とうとしたが、軍勢を集められなかった。そこで、神倭伊波礼毘古命に仕えると偽って、御殿を作ってその中に押機(踏むと挟まれて、あるいは、天上や石が落ちてきて、押し潰すことで、圧死する罠)を仕掛けた。弟の弟宇迦斯は神倭伊波礼毘古命にこのことを報告した。そこで神倭伊波礼毘古命は、大伴氏(大伴連)らの祖の道臣命(ミチノオミ)と久米直らの祖の大久米命(オオクメ)を兄宇迦斯に遣わした。二神は矢をつがえて「仕えるというなら、まずお前が御殿に入って仕える様子を見せろ」と兄宇迦斯に迫り、兄宇迦斯は自分が仕掛けた罠にかかって死んだ。その後、圧死した兄宇迦斯の死体を引き出し、バラバラに切り刻んで撒いたため、その地を「宇陀の血原」という。

忍坂の地では、 土雲八十建が待ち構えていた。 そこで神倭伊波礼毘古命八十建に御馳走を与え、 それぞれに刀を隠し持った調理人をつけた。 そして合図とともに一斉に打ち殺した。

その後、兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)の兄弟と戦った。 最後に、登美毘古(ナガスネビコ)と戦い、 そこに邇藝速日命が参上し、 天津神の御子としての印の品物を差し上げて仕えた。

こうして荒ぶる神たちや多くの土雲(豪族)を服従させ、 神倭伊波礼毘古命は畝火の白檮原宮で神武天皇として即位した。

その後、大物主神の子である比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)を皇后とし、日子八井命(ヒコヤイ)、神八井耳命、神沼河耳命(カムヌナカワミミ、後の綏靖天皇)の三柱の子を生んだ。

日本書紀の記載

紀元前667年甲寅年)
紀元前666年乙卯年)
紀元前663年戊午年)
紀元前662年己未年)
紀元前661年庚申年)
紀元前660年辛酉年) 即位
紀元前659年(即位2年)

菟狭津彦・菟狭津媛

うさつひこ。生没年不詳 菟狭津彦『日本書紀(皇孫本紀)』、宇佐都彦『日本書紀(国造本紀)』、宇沙都比古『古事記
うさつひめ。生没年不詳 菟狹津媛『日本書紀』、宇沙都比賣『古事記』、菟狹津姬『先代旧事本紀

古代日本の豪族で初代宇佐(菟狭国造
高皇産霊尊の孫・天三降命(天活玉命の子)の子とされる。
妹の菟狭津媛命は天種子命の妻となり、 中臣連の祖である宇佐津臣命を生んだ。

古事記』では宇沙都比古、 『日本書紀(皇孫本紀)』では菟狭津彦、 『日本書紀(国造本紀)』では宇佐都彦命、 中臣氏族の各種系図では宇佐津彦命と表記される。

古事記』では豊国の宇沙に、 『日本書紀』では筑紫国の菟狭にいた人物とされ、 菟狭津媛命と共に兄妹で登場する。

日本書紀』では、 神武天皇が東征し、 中洲大和国)をめざして国神珍彦を海導者として筑紫国菟狭に上陸したとき、 菟狭国造の祖である菟狭津彦菟狭津媛がおり、 菟狭川の川上に一柱騰宮/足一騰宮(あしひとつ あがりのみや)を造営して饗応の奉仕をした。 そこで神武天皇は勅をして、 妹の菟狭津媛を待臣の天種子命(中臣連遠祖)に娶らせたとされる。 『先代旧事本紀』、 『古事記』においても同様の伝承を記すが、 『古事記』では天種子命に関する記述がない。

一柱騰宮/足一騰宮(あしひとつ あがりのみや)の伝承地

浪速国と名付ける

「難波の碕に至り、その地を浪速国と名付ける。」とある。
磐余彦尊は、 船団を組み「難波の碕」に至ったとき、 その流れの速いところから「浪速国」と名付けたということである。

磐余彦尊が到着した時代の正確な地形は不明だが、 現在の平野の部分は海ないしは湖であった。 上町台地がせり出しており、流れが急だったと考えられる。

また、このあとに現れる「白肩の津」は枚方丘陵のあたりであったと考えられる。

磐余彦尊東征時の正確な地形ではなく、 現在の平野部分(大阪市)付近は当時この様に海であったことを示すイメージ図である。
(元は河内湖という湖であった)




画像の出典:島田永和からのはぁとふるエール

孔舎衛坂

孔舎衛坂(くさえのさか)

大阪府東大阪市の東端、生駒山地を越える峠。 大和・河内の二か国を結ぶ。

現在の暗(くらがり)峠または善根寺越にあたるといわれ、 草香江の港から奈良に至る尾根道が通じていた。くさかのさか。直越(ただごえ)。
『日本書紀』神武前戊午年四月(北野本訓)
「孔舎衛坂(クサエノサカ)に徼(さいき)て、与(とも)に会(あ)ひ戦(たたか)ふ」

※「孔舎衛」の「衛」を「衙」の誤りとして「くさか」とよむ説がある。

あああ


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神武東征の経路
高千穂(宮崎県)
一柱騰宮(大分県)
岡田宮(福岡県)
多?理宮(広島県)
高島宮(岡山県)
浪速の渡(大阪府)
白肩津(大阪府)
男之水門(和歌山県)
熊野(和歌山県)
宇陀(奈良県)

即位4年2月23日、 天下をすでに平定し終わり海内無事である旨を詔し、 鳥見山中に皇祖天神をまつった。

即位31年4月1日、 巡幸して腋上の嗛間丘に登り、 蜻蛉の臀呫(あきつ の となめ。トンボの交尾するさま)に似ていることから、 その地を秋津洲と命名した。

即位76年3月11日、 橿原宮崩御。127歳。

翌年の丁丑年(紀元前584年?)9月12日、 畝傍山東北陵に葬られた。
始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称され、 のち「神武天皇」と諡された

神武天皇即位

紀元前660年2月11日(旧暦:神武天皇元年1月1日)。
日本神話上、 神武天皇が即位したとされる。 (『日本書紀』に基づく)

神武天皇即位紀元(皇紀)元年に当たる年。 年の干支は辛酉で、 中国の讖緯説では革命が起こる年とされている(辛酉革命説)。

日本書紀』「神武天皇元年正月朔の条」に
「辛酉年春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮 是歲為天皇元年」

とあり、その訓は
辛酉(かのととり)の年の春正月(はるむつき)、 庚辰(かのえたつ)の(ついたち)。 天皇(すめらみこと)、橿原宮(かしはらのみや)に於(お)いて即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。 是歳(このとし)を天皇元年(すめらみことのはじめとし)と為(な)す

この年の春正月(立春)に一番近い庚辰日はグレゴリオ暦換算では2月11日に当たり、 日本の建国記念の日の由来となっている。 また、天文学的計算でもこの日はに当たる。

宮(皇居)の名称は、
『日本書紀』では「橿原宮(かしはらのみや)」、
延喜式』では「畝傍橿原宮(うねびのかしはらのみや)」、
『古事記』では「畝火の白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」と記す。
このほか、『万葉集』にも「可之波良能宇禰備乃宮(かしはらのうねびのみや)」がみえる。
伝承地は奈良県橿原市畝傍町の橿原神宮。

「橿原」の地名が早く失われたために宮跡は永らく不明であったが、 江戸時代以来、 多くの史家が「畝傍山東南橿原地」の記述を基に口碑や古書の蒐集を行っており、 その成果は蓄積されていった。
幕末から明治には、 天皇陵の治定をきっかけに在野からも聖蹟顕彰の機運が高まり、 明治21年(西暦1888年)2月に奈良県県会議員の西内成郷が内務大臣山縣有朋に対し、 宮跡保存を建言した(当初の目的は建碑のみ)。
翌年に明治天皇の勅許が下り、 県が「高畠」と呼ばれる橿原宮跡(の推定地、現在の外拝殿前広場)を買収。
京都御所の内侍所を賜って本殿、 神嘉殿を賜って拝殿(現在の神楽殿)と成し、 橿原神社(明治23年(西暦1890年)に神宮号宣下、官幣大社)が創建された。

明治44年(西暦1911年)から第一次拡張事業が始まり、 橿原神宮は創建時の2万159坪から3万600坪に拡張される。
その際、 周辺の民家(畝傍8戸、久米4戸、四条1戸)の一般村計13戸が移転し(『橿原神宮規模拡張事業竣成概要報告』)、 洞部落208戸、 1054人が大正6年(西暦1917年)に移転した(宮内庁「畝傍部沿革史」)。

なお、昭和13年(西暦1938年)から挙行された紀元2600年記念事業に伴い、 末永雅雄の指揮による神宮外苑の発掘調査が行われ、 その地下から縄文時代後期~晩期の大集落跡と橿の巨木が立ち木のまま16平方メートルにも根を広げて埋まっていたのを発見した。
鹿沼景揚(東京学芸大学名誉教授)が記したところによると、 これを全部アメリカのミシガン大学に持ち込み、 炭素14による年代測定をすると、 当時から2600年前のものであり、 その前後の誤差は±200年ということであった。
このことから『記紀』の神武伝承にはなんらかの史実の反映があるとする説もある。

またこの時期、 第二次拡張事業(昭和13年~15年、西暦1938年~西暦1940年)がなされる。
社背の境内山林に隣接する畝傍及び長山部落の共同墓地、 境内以西、 畝傍山御料林以南、 東南部深田池東側民家などを買収。
「境内地としての風致を将来した。」(「昭和二十一年稿 橿原神宮史」五冊-三、五冊-五(橿原神宮所蔵))

なお、この事業は国費および紀元2600年記念奉祝会費で賄われた。

陵・霊廟

陵(みささぎ)の名は畝傍山東北陵
宮内庁により奈良県橿原市大久保町の遺跡名・俗称「四条ミサンザイ」に治定されている。
ただし埋蔵文化財包蔵地とはされていない。
宮内庁上の形式は円丘。

記紀』によると畝傍山の北方、 白檮尾(かしのお)の上にあると記されている。
壬申の乱の際に大海人皇子が神懸りした際に「高市社の事代主神と身狭社の生霊神」が表れ「神日本磐余彦天皇の陵に、馬及び種々の兵器を奉れ」と神託を受けたため、 神武陵に使者を送って挙兵を報告したとされる。
天武期には陵寺として大窪寺が建てられたとみられる。
延喜式』の第21巻の『諸陵式』によると、 神武天皇陵は、 平安の初め頃には、 東西1町、南2町の広さであった。
貞元2年(西暦977年)には神武天皇ゆかりのこの地に国源寺が建てられたが、 中世には神武陵の所在も分からなくなっていた。

江戸時代の初め頃から神武天皇陵を探し出そうという動きが起こっており、 水戸光圀が『大日本史』の編纂を始めた頃幕府も天皇陵を立派にすることで、 幕府の権威をより一層高めようとした。
元禄時代に陵墓の調査をし、 歴代の天皇の墓を決めて修理する事業が行われ、 その時に神武天皇陵に治定されたのが、 畝傍山から東北へ約700mの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳だった(現在は第2代綏靖天皇陵に治定されている)。
しかし、 畝傍山からいかにも遠く、 山の上ではなく平地にあるので、 福塚よりも畝傍山に少し近い「ミサンザイ」あるいは「ジブデン(神武田)」というところにある小さな塚(現在の神武陵)という説や、 最有力の洞の丸山という説もあった。
その後、 文久3年(西暦1863年)に神武陵はミサンザイに決まり、 幕府が15000両を出して修復し、 同時期に神武天皇陵だけでなく、 百余りの天皇陵全体の修復を行った。
このように神武天皇陵の治定は紆余曲折の歴史があり、 国源寺は明治初年、 神武天皇陵の神域となった場所から大窪寺の跡地へと移転したが、 ミサンザイにあった塚はもとは国源寺方丈堂の基壇であったという説もある。

現陵は橿原市大久保町洞(古くは高市郡白檮<かし>村大字山本)に所在し、 畝傍山からほぼ東北に300m離れており、 東西500m、南北約400mの広大な領域を占めている。
毎年、4月3日には宮中およびいくつかの神社で神武天皇祭が行なわれ、 山陵には勅使が参向し、 奉幣を行なっている。
また皇居では、 皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

考察

歴史的位置づけについて

神武天皇が即位したという辛酉の歳は、 そのまま西暦に換算すると紀元前660年であり、 同時に弥生時代早期又は縄文時代末期に当たる。

明治時代の歴史学者である那珂通世は、 西暦1897年の著書『上世年紀考』で「日本書紀」の記述を批判して、

記紀』の紀年は、 古代中国由来の、 「辛酉」の年に天命が改まり、 王朝が代わり、 同時に正しい改革も行われる、 特に21回毎に大革命が起こるとする「辛酉革命説」に基づく『記紀』編者の創作であろう

と論考した。
その上で那珂は、
推古天皇治世の最も輝かしい事跡が601年の辛酉にあったことから、その21回前の辛酉、つまり紀元601年からさらに60×21=1260年遡った紀元前660年あたりを神武即位年にしたのだろう

と推測した。

大正時代には、 津田左右吉は『記紀』の成立過程に関して本格的な文献批判を行い、 神話学、民俗学の成果を援用しつつ、

神武天皇は弥生時代の何らかの事実を反映したものではなく、 主として皇室による日本の統治に対して『正統性』を付与する意図をもって編纂された日本神話の一部として理解すべきである

とした。
このため津田は「皇室の尊厳を冒涜した」として出版法違反で起訴され、 有罪判決を受けた(津田事件)。

津田の説に対する反論も存在し、 神武の実在性を主張する論者もいる。
安本美典は神武東征を邪馬台国の東遷(邪馬台国政権が九州から畿内へ移動したという説)であるとする。
古田武彦も神武天皇の実在を主張するが、 神武天皇が開いた大和朝廷を邪馬壱国/九州王朝の分家だとしている。
田中卓は初期天皇の皇后の出自伝承の素朴さが寧ろ帝系譜の信憑性を高めるとしている。
宝賀寿男は『記紀』が古代の地理事情を残している点や、 古代氏族の系図やトーテム・習俗、 年暦に関する研究から天照大御神から神武天皇までの皇統譜を実在のものとした。
田中や宝賀、古田は神武東征の出発地を北部九州とする点で安本や戦前の通説とは異なる。
久保田穰は初期天皇の実在を直接示唆するのは『記紀』であるが、 ほぼ同時期の『万葉集』や風土記、 その他史書や各種系図・神社伝承などが『記紀』の内容を支持するとした。
志賀剛は神武天皇の実在を認めつつ、 宇陀郡出身の人物として想定し、 東征の前半部分を虚構とする。
武光誠は西方文化集団の畿内への到来と銅鐸消滅時期が一致することから神武天皇的な存在を認めている。

なお現在神武天皇の史学的立ち位置は

神武天皇の史的実在は、 これを確認することも困難であるが、 これを否認することも、 より以上に困難なのである

であるとされる。

ギネス世界記録では、 神武天皇の伝承を元に、 日本の皇室を「世界最古の王朝」としているが、 発行物には「現実的には4世紀」と記載している。
なお実在が確実な継体天皇から数えても、 現存する王朝としては世界最古にあたる。

即位年月日について

神武天皇の即位年月日は、 『日本書紀』の記述に基づいて、 明治期に法的・慣習的に紀元前660年の旧暦元旦、新暦の2月11日とされている。

日本書紀』においては、 年月日は全て干支で記している。
神武天皇の即位年月日は「辛酉年春正月庚辰朔」とある。

太陽暦(グレゴリオ暦)が明治6年(西暦1873年)1月1日 から暦として採用されたが、 それに先立って、 紀元節が旧暦である天保暦の正月(旧正月)とはならないようにするため、 神武天皇即位の日である紀元節を太陽暦(グレゴリオ暦)の特定の日付に固定する必要が生まれた。
文部省天文局が算出し、 暦学者の塚本明毅が審査して2月11日という日付を決定した。
具体的な計算方法は明かにされていないが、 当時の説明では「干支に相より簡法相立て」としている。

神武天皇の即位年は、 『日本書紀』の歴代天皇在位年数を元に逆算すると西暦紀元前660年に相当し、 即位月は「春正月」であることから立春の前後であり、 即位日の干支は「庚辰」である。
そこで西暦紀元前660年の立春に最も近い「庚辰」の日を探すと、 西暦では2月11日と特定される。
その前後では前年12月13日と同年4月12日も庚辰の日であるが、 これらは「春正月」になり得ない。
したがって「辛酉年春正月庚辰」は紀元前660年2月11日以外には考えられない。
また、 この日を以って皇紀元年とする暦が主に明治・大正期から終戦まで用いられた。

なお、 『日本書紀』は「庚辰」が「」、 すなわち新月の日であったとも記載しているが、 は暦法に依存しており「簡法」では計算できないので、 明治政府による計算では考慮されなかったと考えられる。
当時の月齢を天文知識に基づいて計算すると、 この日は天文上のに当たる。


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神武天皇が紀元前585年(神武天皇76年)の崩御の後3年間は、 「手研耳命の反逆」のため天皇は空位となっていた。

この3年間は西暦以外で年を特定することができない。

神武天皇は既に崩御してしまっているが、 便宜上、神武天皇77年から神武天皇79年と表記している。

彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)

彦火火出見尊の名を持つのは下記の2人である。
  1. 鸕鶿草葺不合尊の父親であり、 瓊瓊杵尊の子である火折尊(山幸彦)の別名。
  2. 鸕鶿草葺不合尊の末子である神武天皇

ただし、このサイトでは単に「彦火火出見」と表記した場合は神武天皇を意味する。
火折尊(ほのおりのみこと)を「彦火火出見」と表現する場合は、 「(火折尊)」等、何らかの言葉を添えることとする。

速吸門(はやすいのと/はやすいど)

速吸門は『日本書紀』・『古事記』に見える古代日本の地名。
潮の速い場所の一般名詞と考えられる。

関連項目
椎根津彦(しいねつひこ、『日本書紀』)/槁根津日子(さおねつひこ、『古事記』)/珍彦(うずひこ)

椎根津彦槁根津日子、または珍彦は、日本神話に登場する神。
神武東征において登場する倭国造(倭直部)の祖。

神武天皇が東征において速吸門(はやすいのと)で出会った国津神で、 船路の先導者となる。
このとき、 『日本書紀』では曲浦(わだのうら)で魚釣するところを椎の棹を授けて御船に引き入れて名を珍彦(うづひこ)から椎根津彦(しいねつひこ)に改めさせたとあり、 『古事記』では亀の甲羅の上に乗っていたのを棹をさし渡し御船に引き入れて槁根津日子の名を賜ったという。

『日本書紀』ではその後、 神武天皇に献策して兄磯城を挟み撃ちにより破る。
また神武天皇の即位後に褒賞として倭国造に任命された。

速吸門については諸説ある。

『日本書紀』では豊予海峡を指すと考えられており、 大分県大分市佐賀関には、 椎根津彦を祀る椎根津彦神社がある。

『古事記』では吉備国の児島湾口を指すと考えられる。
岡山県岡山市東区水門町には、 珍彦(宇豆毘古命、うづひこのみこと)の乗った大亀の化身とされる亀岩を祀る亀石神社(かめいわじんじゃ)がある。
あるいは『古事記』が吉備の高島宮から浪速に行く間に速吸門を通ったとある点から、 これを明石海峡とする考え方もある。
豊国(とよのくに、とよくに、古墳時代 - 7世紀)

古墳時代にあった律令制以前の国の一つ。 旧国名を豊日別(とよひわけ)と言い、 現在の福岡県東部および大分県全域に相当する九州の北東部地域に存在した。
律令制の時代には豊前国と豊後国に分かれた。

豊国は、『古事記』の国産み神話の中で、 筑紫島(九州島)の4面のうちの一つで、当時は豊日別であったされる。

胆駒山(いこまさん)

現在の生駒山(いこまやま・いこまさん)。
奈良県生駒市と大阪府東大阪市との県境にある標高642mの山。
生駒山地の主峰である。

竈山(かまやま)

和歌山市和田にある小丘。
「日本書紀‐神武天皇」に、 五瀬命(いつせのみこと)が矢傷を負い、 葬られた所とあり、 この命をまつる竈山神社がある。

名草邑(なぐさむら)

名草邑(のちの名草郡あたり、現在の和歌山市名草山周辺)

崗水門(おかのみなと)

福岡県北部、遠賀川河口付近の古地名。
神武天皇、仲哀天皇の寄港地と伝えられる古代の良港。
塢舸(おか)のみなと。崗(おか)津。