小窓
歴代天皇の皇居

作成日:2022/2/24

皇居(英語:Imperial Palace)

皇居は、日本の天皇の平常の居所のことである。
「皇居」の呼称が広く用いられるようになったのは現在の皇居からである。

皇居の呼び名は、 史料や古典文学に登場するものの現在では使われない表現を含めると様々ある。
  大内(おおうち)、  大内山(おおうちやま)、大宮(おおみや)、
  宮城(きゅうじょう)、宮中(きゅうちゅう)、 禁中(きんちゅう)、
  禁裏(きんり)、   雲居(くもい)、    雲の上(くものうえ)
  皇宮(こうぐう)、  皇城(こうじょう)、  九重(ここのえ)
  御所(ごしょ)、   内裏(だいり)、    紫の庭(むらさきのにわ)、   百敷(ももしき)

以前は宮城(きゅうじょう)と公称されていたが、 第二次世界大戦後に廃止され、 現在は特別史跡「江戸城跡」一帯を指して皇居と呼んでいる。
天皇の平常時の住居である「御所」や各種公的行事や政務の場である「宮殿」、 宮内庁庁舎などがある。

初代・神武天皇

橿原宮

橿原宮
かしはらのみや
名前  橿原宮日本書紀
      畝火之白檮原宮古事記
      畝傍橿原宮延喜式
      可之波良能宇禰備乃宮万葉集
所在地 奈良県橿原市久米町934
主祭神 神武天皇
      媛蹈鞴五十鈴媛命
社格等 旧官幣大社
      勅祭社
      別表神社
創建  西暦1890年明治23年)
札所等 神仏霊場巡拝の道第33番
      (奈良第20番)
例祭  2月11日(紀元祭)
橿原宮(かしはらのみや)/ 畝傍之橿原宮(うねびかしはらのみや)

神武天皇の宮室。奈良県橿原市久米町・畝傍町。
日本書紀』によると、天皇は東征、大和(やまと)平定後、畝傍山の南東の橿原の地に宮をつくり、辛酉(しんゆう)年(紀元前660年にあたる)正月朔日(さくじつ)に即位したという。 『古事記』に「畝火之白檮原(うねびのかしはら)宮」とある。

畝傍山付近にカシハラの地名は残存しないが、 初代天皇である神武天皇と皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命を祀るため、 神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされるこの地に、 橿原神宮創建の民間有志の請願に感銘を受けた明治天皇により、 西暦1888年明治21年)畝傍山南東麓を宮跡に決定し、 西暦1890年明治23年)4月2日に官幣大社として創建された。
橿原神宮の設計は、東京帝国大学(現・東京大学)名誉教授を務めた伊東忠太によって行われた。

西暦1938年昭和13年) - 西暦1941年昭和16年)の神苑(しんえん)工事の際、発掘調査を行い、巨大なイチイガシの樹根を発見した。

高島宮

高島宮/高嶋宮(たかしまのみや、たかしまぐう)

神武天皇日向から大和国への東征途上で、 吉備国に営んだとされる行宮である。
吉備高島宮吉備高嶋宮(きびのたかしまのみや、きびたかしまぐう)とも呼ばれる。

日本書紀』によると、 太歳甲寅の年(紀元前667年)の10月5日に軍舟を率いて日向を出立し、 大和へ向かう東征を開始した彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと。後の神武天皇)は、 豊後水道を通り筑紫国安芸国とを経て、翌・乙卯年(紀元前666年)3月6日、 吉備国の高島の地に行宮を造って3年間滞在し、 その間に船舶や武器の準備、兵糧の備蓄を行った上で、 戊午年(紀元前663年)2月11日に再び大和へ向かい出航したというが、 この時の行宮が高島宮である。 ちなみに神武天皇即位は高島宮進発の3年後、 辛酉年(紀元前660年)であるとされている。 『古事記』も大同小異の伝承を記すが、 高島宮での滞在を8年間としている。

西暦1938年昭和13年)から15年にかけて、 文部省が当時の学界の総力をあげて学術的な「神武天皇聖蹟調査」を試みた結果、 当時の岡山県児島郡甲浦村大字宮浦字高島(現岡山市南区宮浦)を「聖蹟伝説地」に認定した。 宮浦には高島神社が鎮座し、 高島宮の故跡に後世神社を創祀したとの伝承をもつため、 この文部省の調査によってほぼ公認された状態であるが、 同様の伝承を有し、 または故跡に比定される神社(論社)は岡山県内や周辺一帯に複数存在している。 ちなみに「高島」の「島」は、必ずしも島を意味するとは限らない名称である。

複数存在する高島宮の伝承地のうち、 文部省が「聖蹟伝説地」と認定した岡山県岡山市南区宮浦の高島神社。

その他の伝承地

2代・綏靖天皇

葛城高丘宮

葛城高丘宮 / 葛城高岡宮(かづらぎのたかおかのみや)

綏靖天皇の宮(皇居)の名称は、 『日本書紀』では葛城高丘宮(かづらぎのたかおかのみや)、 『古事記』では葛城高岡宮(かづらぎのたかおかのみや)。
紀元前581年綏靖天皇元年)に都し、 紀元前549年綏靖天皇33年)綏靖天皇崩御とともに廃都。
大和国葛上郡高宮郷(奈良県御所市森脇または同市西佐味の付近)にあったとされる。

宮の伝説地は『和名類聚抄』に見える大和国葛上郡高宮郷と見られ、 『大和志』以来現在の奈良県御所市森脇周辺と推定される。
同地には「葛城高丘宮阯」碑が建てられている。

3代・安寧天皇

片塩浮孔宮/片塩浮穴宮

片塩浮孔宮/片塩浮穴宮(かたしほのうきあなのみや/かたしおのうきあなのみや)

安寧天皇の宮(皇居)。
紀元前547年安寧天皇2年)に都し、 紀元前511年安寧天皇38年)安寧天皇崩御と共に廃都。
所在地については、奈良県橿原市四条町、大阪府柏原市、奈良県大和高田市三倉堂などの諸説がある。
石園座多久蟲玉神社の入口左に石碑がある。

4代・懿徳天皇

軽曲峡宮

軽曲峡宮(かるのまがりおのみや)『日本書紀』 軽之境岡宮(かるのさかいおかのみや)『古事記

懿徳天皇の宮(皇居)。
日本書紀(懿徳天皇二年正月条)』に、 「都を軽の地に遷す。是を曲峡宮と謂ふ」とある。
古事記』に、 「大倭日子友命、軽の境岡宮に坐しまして、天の下治らしめしき」とある。

所在地:奈良県橿原市白橿町

5代・孝昭天皇

掖上池心宮

掖上池心宮(わきがみのいけごころのみや)『日本書紀
葛城掖上宮(かづらきのわきがみのみや/かずらきのわきがみのみや)『古事記

孝昭天皇の宮(皇居)。
古事記(孝昭天皇段)』に「葛城の掖上宮」、 『日本書紀(孝昭天皇元年七月条)』に「都を掖上に遷す。是を池心宮と謂ふ」とあり、 『大和志』は「池内御所二村間」とし、大月池付近と伝承。

所在地:奈良県御所市玉手
石碑は御所実業高等学校正門南側の民家の畑の中にある。

6代・孝安天皇

室秋津島宮

室秋津島宮(むろのあきつしまのみや) 『日本書紀
葛城室之秋津島宮(かづらきのむろのあきづしまのみや/かずらきのむろのあきづしまのみや) 『古事記

孝安天皇の宮(皇居)。
古事記(孝安天皇段)』に「葛城の室の秋津島宮」、 『日本書紀(孝安天皇二年一〇月条)』に「都を室の地に遷す。是を秋津嶋宮と謂ふ」とあり、 「帝王編年記」には「室秋津嶋宮」。

住所:奈良県御所市室1322

八幡神社境内に「室秋津島宮阯」碑が建てられている。
日本書紀』『古事記』では日本の本州の異称として「秋津島(秋津州)」が使用されるが、 元々は上記の宮が営まれた奈良盆地西南部の葛城地方を指した地名であったとする説がある。

7代・孝霊天皇

黒田廬戸宮

黒田廬戸宮(くろだのいほとのみや/くろだのいおとのみや) 『日本書紀』 、『古事記

孝霊天皇の宮(皇居)。

住所:奈良県磯城郡田原本町黒田

石碑は桃太郎伝説発祥の地として田原本町がPRしている法楽寺の入口にある。
近くの孝霊神社は元は法楽寺の鎮守社として法楽寺境内にあったが、明治初期に現在の地へ遷座した。

8代・孝元天皇

軽境原宮

軽境原宮(かるのさかいはらのみや) 『日本書紀
軽之堺原宮(かるのさかひはらのみや/かるのさかいはらのみや)『古事記

孝元天皇の宮(皇居)。
高取川左岸、牟佐坐神社が俗に境原天神とよばれるところから、その地を宮跡とする(『大和志(和州旧跡幽考)』)。
日本書紀(孝元天皇四年春三月条)』に「都を軽の地に遷す。是を境原宮と謂ふ」、「古事記」に「大倭根子日子国玖琉命、軽の境原宮に坐しまして、天の下治らしめしき」とある。

住所: 奈良県橿原市見瀬町

「軽境原宮阯」碑が道路脇に建っているが、すぐそばにある牟佐坐神社に伝承地としての由緒が残っている。

9代・開化天皇

春日率川宮

春日率川宮(かすがのいざかわのみや) 『日本書紀
春日之伊邪河宮(かすがのいざかわのみや)『古事記

開化天皇の宮(皇居)。

住所:奈良県奈良市本子守町

率川神社が春日率川宮伝承地といわれているが、宮跡を示す石碑や説明板はない。
すぐ近くに開化天皇陵がある。

10代・崇神天皇

磯城瑞籬宮

磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや) 『日本書紀

磯城瑞籬宮は、『日本書紀』に記載されている崇神天皇の都。

奈良県桜井市金屋に存在していたと推定されており、 志貴御県坐神社には大正年間に「崇神天皇磯城瑞籬宮跡」の石碑が建てられている。 本宮の北側には三輪山(大神神社)が鎮座する。 周辺には纏向遺跡をはじめとする古墳時代前後の遺跡が存在し、 箸墓古墳やホケノ山古墳、崇神天皇陵、景行天皇陵、垂仁天皇陵などの巨大前方後円墳群が点在する。

11代・垂仁天皇

纒向珠城宮

纒向珠城宮(まきむくたまきのみや)

垂仁天皇の宮。
住所:奈良県桜井市巻野内

ここから東900mにある相撲神社は、 野見宿禰と当麻蹶速(たいまのけはや)による日本最初の勅命天覧相撲が催された場所である。

12代・景行天皇

纒向日代宮

纒向日代宮(まきむくひしろのみや)
日代宮(ひしろのみや)は太陽を祀る宮という意味。

所在地:奈良県桜井市穴師
相撲神社の近く。穴師愛宕神社の近く。
景行天皇纒向日代宮跡の石碑が立っている。

景行天皇11年11月の条に「則(すなわ)ち更(また)纏向(まきむく)に都つくる。是(これ)を日代宮(ひしろのみや)と謂す」とある。

高穴穂宮

高穴穂宮(たかあなほのみや)は古代近江にあったとされる宮である。
日本書紀』には高穴穂宮と記されるが、 『古事記』と『先代旧事本紀』には志賀高穴穂宮と記される。
穴穂は滋賀県大津市穴太に比定されている。 考古学的な遺構は全く確認されてないが、 同地にある高穴穂神社(明治以前には禅納大明神社とされていた)を宮址とする伝承がある。
日本書紀
景行天皇が景行天皇58年から崩御するまでの3年間、 志賀に居して是を高穴穂宮とすると記している。
次代の成務天皇は明確な宮の記載は無いが、 この宮で即位し、 この地において60年間統治したと推定され、 仲哀天皇が即位2年目に笥飯宮に遷宮するまで3代の天皇が宮居したとする。
古事記
『古事記』には、 成務天皇が近江の志賀高穴穂宮に居して天下を治めると記している。 景行天皇、仲哀天皇が志賀高穴穂宮に居した記事はない。
近江王朝説
王朝交替説の一つで、 三輪王朝と河内王朝に挟まれた景行、成務、仲哀の3代にわたって近江に本拠とした王朝があったとする学説。 水野祐の三王朝交替説は諡号に「イリ」を持つ天皇皇族による三輪王朝と「ワケ」を持つ天皇皇族による河内王朝とするが、 近江王朝は「タラシ」が諡号に含まれる3天皇1皇后を根拠の一つとしている。 同時期には四道将軍を始め、尾張、丹波など畿外に関連した叙述が『記紀』に多くみられ、 国造を置くなど王権による全国支配が進められたとされる。

14代・仲哀天皇

徳勒津宮

徳勒津宮(ところつのみや)

仲哀天皇の宮(行宮)。
住所:和歌山県和歌山市新在家

石碑だけが残っている。

角鹿笥飯宮

角鹿笥飯宮(つぬがのけひのみや)

仲哀天皇の宮(行宮
住所:福井県敦賀市曙町

気比(けひ)神宮が笥飯宮跡として伝えられている。
境内奥(東端)には角鹿(つぬが)神社がある。通説では「敦賀」という地名の発祥となったと言われている。

穴門豊浦宮

穴門豊浦宮(あなとのとよらのみや)

第14代仲哀天皇の宮。
伝承地は山口県であり大和から遠く離れているが、 仲哀天皇は熊曾討伐のためこの地に赴いていた。
忌宮神社境内に宮跡を伝える石碑が建っている。
所在地:山口県下関市長府宮の内町1

穴門(長門の古称。山口県西武)の豊浦宮(とよらのみや)は、 古事記・日本書紀に登場する地名。 仲哀天皇が滞在した宮で、仲哀天皇が死んだ後に殯を行った土地。 現在の「忌宮神社(下関市)」かその周辺のことだと思われる。

推古天皇は豊浦宮で即位しているが、 これは奈良県高市郡明日香村の地名である。 蘇我蝦夷は豊浦に住んでいたため豊浦大臣とも呼ばれていた。

豊浦という地名は「港」に付けられる名前で奈良の盆地につくような名前ではない。 下関の豊浦と何か関わりがあってついた名前なのかもしれない。

ただし、川や池の地形を表していて、 決して「港」に特化した名前ではない可能性もある。

筑紫橿日宮

筑紫橿日宮(つくしのかしいのみや)

仲哀天皇の宮。
伝承地は香椎宮で、 石碑の文字が金色に装飾された石碑がある。
香椎宮は西暦200年(仲哀天皇9年)、神功皇后が祠を建て仲哀天皇の神霊を祀ったのが起源。

所在地:福岡県福岡市東区香椎

香椎宮の伝承
むかしむかしのお話。英雄ヤマトタケルの子、仲哀天皇は、 強く美しい神功皇后と夫婦になり、香椎でひとときを過ごすことになりました。
ある日、仲哀天皇は神の怒りに触れ亡くなってしまいます。 神功皇后は悲しみをこらえて、天皇のかわりに男装をして海を行き交い、 そして愛する夫のために香椎にほこらを建てました。 その後、ご夫婦に男の子が生まれます。 生まれつき弓の名手であったこの男の子は、 おじいさんとお母さんの血を受け継いでたくさんの勝負に勝ち、 お父さんの遺志を引き継いで応神天皇となりました。 武芸にすぐれ、日本文化の基礎を築いたこの天皇は、 いつしか八幡神と呼ばれ、全国の八幡宮という神社の神さまになります。
そして時は流れ、愛する夫のそばにいたいと願った神功皇后のお宮も、 香椎の地に築かれました。

こうしてご夫婦は再びご一緒になり、 この地は香椎宮と呼ばれるようになりました。愛つなぐ、香椎宮。 あなたも大事な人々の幸せを祈って、愛をつないでください。

摂政・神功皇后

磐余若桜宮

磐余若桜宮/磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや)

神功皇后が若桜宮を築いたのち、 四人の天皇が皇居をここ(磐余の地)に築いた。 住所:奈良県桜井市池之内
伝承地のすぐ横に稚桜神社がある。

神功皇后摂政のときの都。 履中天皇の皇居。 『日本書紀』によれば、神功皇后摂政の69年ここで崩御、 履中天皇の元年復都、同6年廃都。

日本書紀』に神功皇后磐余若桜宮・履中天皇磐余稚桜宮がみえ、 『延喜式』神名帳の城上郡にみえる若桜神社との関係が注目される。 現大字谷に若桜神社、大字池之内に稚桜神社が鎮座。

15代・応神天皇

軽島豊明宮

軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや)

応神天皇の皇居に比定されている。
住所:奈良県橿原市大軽町
春日神社境内に石碑がある。

16代・仁徳天皇

難波高津宮

難波高津宮(なにわのたかつのみや/なにわのこうずぐう/なにわのこうずのみや)

仁徳天皇の宮。
住所:大阪市天王寺区餌差町
宮跡の場所は未だ確定はしていないが、諸説の一である。

18代・反正天皇

丹比柴籬宮

丹比柴籬宮(たじひしばがきのみや)  反正天皇の宮跡。

日本書紀』反正天皇元年10月条に「河内の丹比に都す、是を柴籬宮と謂ふ」とあり、 『古事記』は「水歯別命、多治比の柴垣宮に坐して、天の下を治むるなり」とする。
反正天皇の名は『日本書紀』に「多遅比瑞歯別」、『古事記』では「蝮之水歯別」という。

丹比地方に勢力をもっていたのでタジヒのミズハワケとよばれ、 丹比の地に宮を作ったのであろう。
『帝王編年記』に「丹比柴籬宮」として「河内国丹比郡、今宮坂上路北宮地是也」とあるが、 現在のどこにあたるかは不明。

柴籬神社(しばがきじんじゃ)のあたりが伝承地となっており、 2種類の石碑がある。

19代・允恭天皇

遠飛鳥宮

遠飛鳥宮(とほつあすかのみや/とおつあすかのみや)

第19代允恭天皇の皇居。奈良県高市郡明日香村にあったといわれる。(伝承地未詳)

「遠つ飛鳥」は奈良県高市郡明日香村飛鳥を中心とした地域を指し、 「近つ飛鳥」は今の大阪府羽曳野市飛鳥を中心とした地域を指す。☆

20代・安康天皇

石上穴穂宮

石上穴穂宮(いそのかみのあなほのみや)

安康天皇の宮。 住所:奈良県天理市田町568<

宮跡にちなんで名付けられたという穴穂神社がこの場所にある。

21代・雄略天皇

泊瀬朝倉宮

泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)

泊瀬朝倉宮は、古墳時代の天皇である第21代雄略天皇が営んだ宮殿。
長谷朝倉宮、初瀬朝倉宮とも表記される。

伝承地は奈良県桜井市黒崎もしくは同市岩坂。
黒崎の白山神社境内には「雄略天皇泊瀬朝倉宮伝承地」の碑が建立されている。

一方、西暦1984年には、 同市脇本にある脇本遺跡で、 5世紀後半のものと推定される掘立柱穴が発見されており、 考古学的見地から朝倉宮の有力な候補地とされている。
この遺跡は、 第1期は5世紀後半、 第2期は6世紀前半、 第3期は6世紀後半と7世紀後半の3期に分けられる。

泊瀬朝倉宮は雄略天皇が在位した西暦456年から西暦479年までの皇居であると考えられているが、 これ以降も引き続き皇居とされたとの説もある。

稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣銘には「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」と刻まれているが、 「獲加多支鹵大王」は雄略天皇であり、 「斯鬼宮」(しきのみや)は泊瀬朝倉宮を指すと考えられている。

22代・清寧天皇

磐余甕栗宮

磐余甕栗宮(いわれのみかくりのみや)

清寧天皇の宮。
住所:奈良県橿原市東池尻町

23代・顕宗天皇

近飛鳥八釣宮

近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや)

顕宗天皇の宮。
所在地:奈良県高市郡明日香村八釣41
    あるいは大阪府羽曳野市飛鳥
伝承地:弘計皇子神社(をけのみこじんじゃ)

()