『古事記』では、 神武天皇の神武東征において大和地方の豪族である那賀須泥毘古が奉じる神として登場する。
長髄彦の妹の登美夜毘売を妻とし、
宇摩志麻遅命をもうけた。
宇摩志麻遅命は、
物部連、
穂積臣、
采女臣の祖としている。
神倭伊波礼毘古(後の神武天皇)が東征し、 それに抵抗した長髄彦が敗れた後、 神倭伊波礼毘古が天照大神の子孫であることを知り、 神倭伊波礼毘古のもとに下った。
『日本書紀』などの記述によれば、 神武東征に先立ち、 天照大御神から十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、 その後大和国(奈良県)に移ったとされている。
これらは、 瓊瓊杵尊の天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられる。
また、 有力な氏族、 特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、 神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、 饒速日命の存在には多くの重要な問題が含まれている。
大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、 大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。
『先代旧事本紀』では、
「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)」といい天忍穗耳尊の子で瓊瓊杵尊の兄である天火明命と同一の神であるとしている。
また物部氏、穂積氏、尾張氏、海部氏、熊野国造らの祖神と伝える。
『新撰姓氏録』ではニギハヤヒは、 天神(高天原出身、皇統ではない)、 天火明命(アメノホアカリ)は天孫(天照大御神の系)とし両者を別とする。
饒速日命の墳墓は、奈良県生駒市白庭台にある饒速日命墳墓である。
『日本書紀』と『古事記』によると、
神武天皇(イワレビコ)と饒速日命(ニギハヤヒ)の出会いのあらすじは次の通り。
「神武天皇(イワレビコ)は塩土老翁から、
東方に美しい土地があり、
天磐船で先に降りたものがいると聞く。
そして彼の地へ赴いて都を造ろうと、
一族を引き連れ南九州から瀬戸内海を経て東へ向かい、
難波碕(現代の大阪)へたどり着く。
その後河内国草香邑から生駒山を目指す。
そこに土着の長髄彦が現れたため戦うが苦戦する。
神武は「日(東)に向って敵を討つのは天の道に反す」として、 熊野(紀伊半島南端部)へ迂回して北上することにした。
菟田(奈良)に到達し高倉山に登ってあたりを見渡すと、 八十梟帥が軍陣を構えているのが見えた。
その晩神武の夢に天神が現れ「天神地祇を敬い祀れ」と告げる。
その通りにすると敵陣を退治でき、
続いて長髄彦を攻める。
すると長髄彦は「我らは天磐船で天より降りた天神の御子饒速日命(ニギハヤヒ)に仕えてきた。
あなたは天神を名乗り土地を取ろうとされているのか?」と問うたところ、
神武は「天神の子は多い。あなたの君が天神の子であるならそれを証明してみよ」と返す。
長髄彦は、
饒速日命の天羽々矢と歩靫を見せる。
すると神武も同じものを見せた。
長髄彦はそれでも戦いを止めなかった。
饒速日命(ニギハヤヒ)は天神と人は違うのだと長髄彦を諌めたが、
長髄彦の性格がひねくれたため殺し、
神武天皇に帰順して忠誠を誓った。
ただし、 『先代旧事本紀』では、 既に饒速日は復命せず現地で亡くなり、 亡骸(なきがら)は速飄(はやちかぜ)により天に上げられ、 葬儀は七日七夜続いたとあり、 神武東征の時点で彼は故人となっている。
『石切劔箭神社』の社史によれば、 天照大御神から大和建国の神勅を拝し『十種の瑞宝』を授かった饒速日尊が船団を組み、 自らも『布都御魂劔』と日の御子の証である『天羽々矢』を携え天磐船がに乗り込み、 物部八十の大船団を率いて高天原を出航した。
途中、 豊前国の宇佐に寄港すると船団を二つに分け、 息子の天香具山命に『布都御魂劔』を授け船団の一方を預けた。
宇佐から瀬戸内海を渡ると饒速日尊は河内・大和に、 一方の天香具山命は紀伊に向かった。
天磐船が鳥見の里を見渡す哮ヶ峯(たけるがみね『生駒山』)に着くと、
饒速日尊は辺りを見渡し「虚空(そら)にみつ日本(やまと)国)」【訳「 空から見た日本の国」または「空に光り輝く日本の国」】と賛じた。
これが日本の国号の始まりとなった。
当時の河内と大和の一帯は鳥見の里と呼ばれ、
穏やかな自然と海や山の幸に恵まれた豊な土地であった。
この地方を治めていた豪族、
鳥見一族は、
稲作や製鉄の技術がないものの、
狩や漁がうまく、
生活用具や住居づくりに優れ、
長身の恵まれた体格は戦闘に秀で「長髄の者」と恐れられていた。
その頃の鳥見一族の長、
長髄彦は饒速日尊の徳の高さに打たれ、
尊のもたらした稲作や織物、製鉄の道具・武具に文化の差をみると、
争う事の無益さを悟り、
一族こぞって饒速日尊に従った。
この時二人の間を取り持ったのが長髄彦の妹、
登美夜毘売、
後に饒速日尊との間に宇摩志麻遅命をもうけた。
こうして鳥見の里を治めるようになった饒速日尊は、 水が豊かで稲作に適したこの土地に水田を拓き、 大きな実りをもらすようになった。
これが近畿地方の稲作文化の初めとなった。
一方、
鳥見の里が繁栄をきわめていた頃、
磐余彦(後の神武天皇)が日向の高千穂から東へ進行を続け(神武東征)、
やがて河内に上陸し孔舎衛坂で長髄彦と対峙した。
戦いに敗れた磐余彦は紀伊方面に退却、
紀伊半島を迂回し再び長髄彦と対峙する。
この頃、 既に饒速日尊は亡くなり、 代わって鳥見の長となっていたのは宇摩志麻遅命だった。
宇摩志麻遅命は「天羽々矢」と歩靫を、
日の御子である証として磐余彦に差し出した。
すると磐余彦からも同じものが示され天孫であることが明らかになった。
宇摩志麻遅命は長髄彦に磐余彦への帰順をさとし自らも一族を率いて磐余彦に忠誠を誓い、 広大な稲作地や所領のすべてと天照大御神から授かった『十種の瑞宝』を磐余彦に捧げた。
こうして大和の統一が成し遂げられ磐余彦は始馭天下之天皇(神武天皇)に即位した。
『先代旧事本紀』では天照大御神の孫天忍穂耳尊と高皇産霊尊子栲幡千千姫(萬幡豊秋津師比売命)との子である天火明命と同一神とされ、『伊福部氏系図』では大己貴命の子五十研丹穂命の5世孫である荒木臣命(荒根使主命)の子としている。また天香語山命の娘を母とする系図もあり、『亀井家譜』では中臣氏祖の武乳速命の娘を母と伝える。 子には天道日女命(あめのみちひめ)との間に生まれた天香語山命と、那賀須泥毘古の妹の登美夜須毘売との間に生まれた宇摩志麻遅命がいるとされるが、天香語山命の娘を母とする系図と矛盾する。 娘の熟穂屋姫命は高倉下の妻となった。
邇芸速日命(宇摩志麻遅命)を祖とする氏族に物部氏がある。穂積氏、熊野国造和田氏も同祖とされる。弓削氏は物部氏と関連が深い。 籠神社の社家、海部氏に伝わる系図については国宝の指定を受けている[注釈 1]。海部氏は尾張氏と同じく天之火明命の子孫であり、邇芸速日命の子孫ではないが、『先代旧事本紀』の火明命=饒速日命同一神説を前提とした場合は同祖となる。 また伊福部氏は大己貴命を始祖とする系譜に饒速日命を組み込んだ系図を持つが、これは婿養子を表した系図とされる。