小窓
手研耳命 / 多芸志美美命 (たぎしみみのみこと)

作成日:2022/3/2

手研耳命
たぎしみみのみこと
生年 不詳
没年 紀元前582年己卯年11月)
片丘の大窨(おおむろ)
配偶者 比売多多良伊須気余理比売《記》
父親 神武天皇
母親 吾平津媛
 
手研耳命(たぎしみみのみこと) [生没]生年不詳 - 己卯年11月)
日本書紀』-手研耳命   『古事記』 - 多芸志美美命

日本書紀』によれば、 神武天皇(初代天皇)の第1皇子である。 母は吾平津媛。 異母弟の神八井耳命(神八井命)および神渟名川耳尊(のちの綏靖天皇)に対する反逆(「手研耳命の反逆」)を起こしたとされることで知られる。

妻は手研耳命の父である神武天皇の皇后であった媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ の みこと、伊須気余理比売命)である。 なお、この婚姻は『古事記』のみの所伝である。

日本書紀』によると、手研耳命は神武東征に従っていたという。
同書によると、 神武天皇の崩御後、 手研耳命は異母弟の神八井耳命(神八井命)・皇太子神八井耳命(かんやいみみのみこと)(のちの第2代綏靖天皇)を害そうとした(手研耳の反逆)が、 これを知った神八井耳・神渟名川耳兄弟により、 己卯年11月に、 手研耳は片丘(奈良県北葛城郡王寺町・香芝町・上牧町付近か)の大窨(おおむろ)に臥せっていたところを襲われ、 討たれたという。

『古事記』でも同様の説話が記されるが、 多芸志美美命が殺害を計画する対象は、 日子八井命神八井耳命(神八井命)の同母兄)を含めた3人となっている。
また、 3人が多芸志美美命の計画を知ったのは、 3人の母親である伊須気余理比売命の歌によると記されている。

手研耳命の反逆

神武天皇の崩御後、神武天皇の第1皇子の手研耳命は、 二人の弟(神武天皇の第2皇子の神八井耳命、神武天皇の第3皇子の神八井耳命(かんやいみみのみこと))を殺そうと図った。
二人の弟は手研耳命を討ち、 第3皇子の神八井耳命(かんやいみみのみこと)は第2代天皇綏靖天皇として即位した。
(特に記載のない場合は『日本書紀』によって記載。)
三皇子の誕生
神日本磐余彦尊(神武天皇の別名)は、 神武東征以前に日向国吾田邑の吾平津媛をめとり、 子・手研耳命を得ていた。
しかし東征後に事代主神の娘・媛蹈鞴五十鈴媛命を新たにめとり正妃とした。
磐余彦尊が即位して神武天皇(初代天皇)となると媛蹈鞴五十鈴媛命は皇后とされ、 二人の間には、神八井耳命神渟名川耳尊の二皇子が生まれた。
このことにより、吾平津媛の子・手研耳命は庶子の子となる。
紀元前619年神武天皇42年)に神渟名川耳尊は立太子されて皇太子となった。
手研耳命の計画
神武天皇は、 紀元前585年神武天皇76年)に崩御し、 翌年の紀元前584年(神武天皇77年9月12日(年号は便宜上の表記))に畝傍山東北陵に葬られた。
神八井耳命は特に心を喪葬の事に留めていた。
その庶兄である手研耳命は長くにわたる政務経験があったが仁義にそむいており、 神武天皇諒闇中に二人の弟を害することをはかった。
これは神武天皇崩御より3年後の紀元前582年(神武天皇79年(年号は便宜上の表記)))のことである。
手研耳命の暗殺
この年紀元前582年(神武天皇79年(年号は便宜上の表記)))の11月、 神渟名川耳尊とその兄の神八井耳命はひそかに(『古事記』によれば母の歌により)手研耳命の志を知って、 これを防いだ。 すなわち、山陵の事が終わるに至って、 弓部稚彦(弓削部稚彦)には弓を、 倭鍜部天津真浦には真麛を、 矢部には箭をつくらせた。 弓矢が完成するに及んで、 神八井耳命(かんやいみみのみこと)は手研耳命を射殺そうと思った。 二人は手研耳命が片丘の大窨(おおむろ)の中に有り、 ひとり大床に臥せっているのに行き合った。 この時神渟名川耳尊は、兄の神八井耳命(神八井命)に
今適(たまたま)其時なり。 夫れ言(こと)密を尊び、 言は宜(よろ)しく慎むべし。 故(かれ)我の陰謀本より預者無し。 今日の事は、唯吾爾(いまし)と自(み)行いたまはくのみ。 吾当(まさ)に先ず窨(むろ)の戸を開けむ。 爾其れ射よ。
と言い、手研耳命を射殺す役目を兄に与えた。 二人は窨(むろ)に進入し、神八井耳命(かんやいみみのみこと)はその戸を突き開けた。 しかし神八井耳命(神八井命)は手脚が戦慄し、矢をいることができなかった。 この時、神渟名川耳尊は兄の所持していた弓矢を掣(ひ)き取り、 手研耳命を射た。 一発目は胸に中(あ)たり、 二発目は背に中たってついに殺した。
神渟名川耳尊の即位
神八井耳命(神八井命)ははじて弟の神八井耳命(かんやいみみのみこと)にしたがって皇位を譲り、
吾(やつがれ)是乃(いまし)の兄(このかみ)なれども、 懦弱にして不能致果(いしきなし)。 今汝(いましみこと)特に神武に挺し、 自元悪(みあだ)を誅(つみな)う。 宜(うべ)なるかな。 汝の天位に光(て)り臨(のぞ)み以て皇祖の業(つぎて)を承(う)けむこと。 吾は当(まさ)に汝の輔(たすけ)と為して神祇を奉典せむ。
と言って、皇位を継がず祭祀を行う意志を明らかにしたという。
翌年(紀元前581年)1月8日、 神渟名川耳尊綏靖天皇(第2代天皇)として即位し、 この年を綏靖天皇元年とした。
神八井耳命の子孫
神八井耳命紀元前578年綏靖天皇4年4月)に薨じ、 畝傍山の北に葬られた。 多氏(姓は臣)はその子孫とされる。
神八井耳命(かんやいみみのみこと)/ 神八井命

神武天皇の第2皇子

ちなみに、神武天皇の皇子は
長男:手研耳命(たぎしみみのみこと)
三男:神渟名川耳尊(かんぬなかわみみのみこと)。のちの綏靖天皇。

神武天皇が紀元前585年(神武天皇76年)の崩御の後3年間は、 手研耳命の反逆のため天皇は空位となっていた。

この3年間は西暦以外で年を特定することができない。

神武天皇は既に崩御してしまっているが、 便宜上、神武天皇77年から神武天皇79年と表記している。