手研耳命(たぎしみみのみこと) [生没]生年不詳 -
己卯年11月)
『
日本書紀』-手研耳命
『
古事記』 - 多芸志美美命
『
日本書紀』によれば、
神武天皇(初代天皇)の第1皇子である。
母は
吾平津媛。
異母弟の
神八井耳命(神八井命)および
神渟名川耳尊(のちの
綏靖天皇)に対する反逆(「
手研耳命の反逆」)を起こしたとされることで知られる。
妻は手研耳命の父である
神武天皇の皇后であった
媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ の みこと、伊須気余理比売命)である。
なお、この婚姻は『古事記』のみの所伝である。
『
日本書紀』によると、手研耳命は
神武東征に従っていたという。
同書によると、
神武天皇の崩御後、
手研耳命は異母弟の
神八井耳命(神八井命)・皇太子神八井耳命(かんやいみみのみこと)(のちの第2代
綏靖天皇)を害そうとした(手研耳の反逆)が、
これを知った神八井耳・神渟名川耳兄弟により、
己卯年11月に、
手研耳は片丘(奈良県北葛城郡王寺町・香芝町・上牧町付近か)の大窨(おおむろ)に臥せっていたところを襲われ、
討たれたという。
『古事記』でも同様の説話が記されるが、
多芸志美美命が殺害を計画する対象は、
日子八井命(
神八井耳命(神八井命)の同母兄)を含めた3人となっている。
また、
3人が多芸志美美命の計画を知ったのは、
3人の母親である伊須気余理比売命の歌によると記されている。
神武天皇の崩御後、神武天皇の第1皇子の手研耳命は、
二人の弟(神武天皇の第2皇子の
神八井耳命、神武天皇の第3皇子の神八井耳命(かんやいみみのみこと))を殺そうと図った。
二人の弟は手研耳命を討ち、
第3皇子の神八井耳命(かんやいみみのみこと)は第2代天皇
綏靖天皇として
即位した。
(特に記載のない場合は『
日本書紀』によって記載。)
神武天皇が紀元前585年(神武天皇76年)の崩御の後3年間は、
手研耳命の反逆のため天皇は空位となっていた。
この3年間は西暦以外で年を特定することができない。
神武天皇は既に崩御してしまっているが、
便宜上、神武天皇77年から神武天皇79年と表記している。