神武天皇の第三皇子。
母は事代主神の娘・媛蹈鞴五十鈴媛命。『日本書紀』
同母兄に神八井耳命(多臣等諸氏族の祖)、
『古事記』では加えて同母長兄に日子八井命(日本書紀なし、茨田連・手嶋連の祖)の名を挙げる。
神武天皇42年1月3日に立太子。
父帝が崩御した3年後の11月、
異母兄の手研耳命を誅殺。
翌年の1月に即位して葛城高丘宮(かずらきのたかおかのみや)に都を移す。
同年7月、
事代主神の娘で天皇本人の叔母(母の妹)にあたる五十鈴依媛命を皇后として磯城津彦玉手看尊(後の安寧天皇)を得た。
即位33年、崩御。
神武天皇76年3月11日に父天皇が崩御した際、
朝政の経験に長けていた庶兄の手研耳命は、
皇位に就くため弟の神八井耳命・神渟名川耳尊を害そうとした(タギシミミの反逆)。
己卯年11月、
この陰謀を知った神八井耳・神渟名川耳兄弟は、
神武天皇の山陵を築造し終えると、
弓部稚彦に弓を、
倭鍛部の天津真浦に鏃を、
矢部に箭を作らせた。
そして片丘(奈良県北葛城郡王寺町・香芝町・上牧町付近か)の大室に臥せっていた手研耳命を襲い、
これを討った。
この際、
神八井耳は手足が震えて矢を射ることができず、
代わりに神渟名川耳が射て殺したという。
神八井耳はこの失態を深く恥じたため、
神渟名川耳が皇位に就き、
神八井耳は天皇を助けて神祇を掌ることとなった。
即位後の事績は『日本書紀』・『古事記』とも無く欠史八代の1人に数えられる。
宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では葛城高丘宮(かずらきのたかおかのみや)、 『古事記』では葛城高岡宮。
宮の伝説地は『和名類聚抄』に見える大和国葛上郡高宮郷と見られ、
『大和志』以来現在の奈良県御所市森脇周辺と推定される。
同地には「葛城高丘宮阯」碑が建てられている。
陵(みささぎ)の名は桃花鳥田丘上陵。
宮内庁により奈良県橿原市四条町の遺跡名・俗称「塚山」「塚根山」に治定されている。
宮内庁上の形式は円丘。直径30メートルの円墳と推測される。
陵について『日本書紀』では前述のように「桃花鳥田丘上陵」、
『古事記』では「衝田岡(つきだのおか)」の所在とあるほか、
『延喜式』では「桃花鳥田丘上陵」として兆域は東西1町・南北1町、守戸5烟で遠陵としている。
しかし中世には荒廃して所在が失われた。
元禄の探陵の際に諸説が生じ、
慈明寺町のスイセン塚古墳(前方後円墳、墳丘長55m)に綏靖天皇陵が、
現陵に神武天皇陵が比定されていた。
しかし幕末修陵に際して改められ、
明治11年(西暦1878年)に現陵が綏靖天皇陵に治定された。
円墳状であるものの古墳であるかは従来明らかでなかったが、
平成29年度(西暦2017年度)に初めて実施された考古・歴史学会代表者の立ち入り調査によれば、
古墳の可能性が高いと推測される。
陵のある橿原市四条町周辺では、
昭和62年(西暦1987年)以降の調査において藤原京造営時に削平された四条古墳群の存在が明らかとなっており、
この古墳群と神武陵・綏靖陵との関連が指摘される。
また皇居では、
宮中三殿の1つの皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに綏靖天皇の霊が祀られている。
そのほか、
阿蘇神社では「金凝神」として十二宮に祀られている。