『日本書紀』によれば、 鸕鶿草葺不合尊が誕生した産屋は全て鸕鶿(う)の羽を草(かや)としてふいたが、 屋根の頂上部分をいまだふき合わせないうちに生まれ、 草(かや)につつまれ波瀲(なぎさ)にすてられた。
これにより、 母親の豊玉姫が「彦波瀲武鸕鶿草葺不合(ひこなぎさたけうがやふきあえず)」と名付けたという。
『日本書紀』は、鸕鶿草葺不合尊が崩御した地を「西洲の宮(にしのくにのみや)」と記す。
陵(みささぎ)は、
宮内庁により鹿児島県鹿屋市吾平町上名字吾平山にある吾平山上陵(あひらのやまのえのみささぎ)に治定されている。
宮内庁上の形式は洞穴。
埋葬地は、
日本書紀に「日向の吾平山上陵」と記載があるが、
その伝承の地は南九州各地にある。
明治7年に明治政府は、
それらの中から旧薩摩藩の学者の意見を参考に鹿児島県鹿屋市(旧 肝属郡吾平町)鵜戸山を流れる姶良川に開いた岩窟「鵜戸窟」内の2つの塚を吾平山上陵に治定した。
現在は宮内庁書陵部が管轄している(他の日向三代の神陵も鹿児島県内に治定)。
しかし日向国の人々からの反論が強く、
国学者や宮内庁の調査によって、
明治29年に鵜戸神宮背後の速日峯山上が「御陵墓伝説地 吾平山上陵」の参考地とされている。
他に宮崎県西臼杵郡高千穂町とする説もある。
『ウエツフミ』「竹内文献」『神伝上代天皇紀』などの古史古伝に記載されている神武天皇以前の鵜萱葺不合命が開いた古代王朝をウガヤフキアエズ王朝という。
一般的には古史古伝全般が偽書とみなされており、
実在したとは考えられていない。