小窓
巨勢男人(こせのおひと)

作成日:2023/5/11

巨勢男人
こせのおひと
時代  古墳時代
生年  不詳
没年  西暦529年
      継体天皇23年9月
別名  氏:許勢
主君  継体天皇
氏族  巨勢氏
父親  巨勢河上
子   紗手媛、香香有媛
 

巨勢男人(こせのおひと)は、

古墳時代の人物。氏は許勢とも記される。許勢小柄の曾孫。巨勢河上の子。

男人の出自について、 『紀氏家牒』では巨勢小柄-建彦宿禰-巨勢川辺宿禰(軽部宿禰)-巨勢川上宿禰-巨勢男人という系譜を記している。

武烈天皇崩御後の皇嗣選出にあたって男人は大臣であったが、 大連大伴金村が推薦した男大迹王について、 皇統の子孫を調べると賢者は男大迹王しかいないとして、 大連物部麁鹿火と共に支持する。 男大迹王が皇位についた(継体天皇)のちも、 男人は引き続き大臣に任ぜられた。
西暦527年継体天皇21年)に発生した磐井の乱に際して、 大連大伴金村大連物部麁鹿火と共に将軍の適任者について諮問を受け、 金村らと共に鹿火を推薦している。 西暦529年継体天皇23年)9月薨去

西暦534年安閑天皇元年)安閑天皇即位すると、 娘の紗手媛・香香有媛は共に妃に立てられた。 『続日本紀天平勝宝3年(西暦751年)2月己卯条には、 雀部真人が、巨勢男人は本来「雀部男人」であったのを誤って巨勢と記されたと奏上し、 時の大納言であった巨勢奈弖麻呂もその主張を支持したため、 訂正したと記されている。 なお、この記事によれば、男人は継体・安閑朝に大臣であったと記されているが、 『日本書紀』では西暦529年継体天皇23年9月)に亡くなったと記されており、 『日本書紀』とは異なる史料が存在していたことがわかる。