巨勢男人
こせのおひと
時代 | : | 古墳時代 |
生年 | : | 不詳 |
没年 | : | 西暦529年 |
| | 継体天皇23年9月 |
別名 | : | 氏:許勢 |
主君 | : | 継体天皇 |
氏族 | : | 巨勢氏 |
父親 | : | 巨勢河上 |
子 | : | 紗手媛、香香有媛 |
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巨勢男人(こせのおひと)は、
古墳時代の人物。氏は許勢とも記される。許勢小柄の曾孫。巨勢河上の子。
男人の出自について、
『紀氏家牒』では巨勢小柄-建彦宿禰-巨勢川辺宿禰(軽部宿禰)-巨勢川上宿禰-巨勢男人という系譜を記している。
武烈天皇崩御後の皇嗣選出にあたって男人は
大臣であったが、
大連・
大伴金村が推薦した男大迹王について、
皇統の子孫を調べると賢者は男大迹王しかいないとして、
大連・
物部麁鹿火と共に支持する。
男大迹王が皇位についた(
継体天皇)のちも、
男人は引き続き
大臣に任ぜられた。
西暦527年(
継体天皇21年)に発生した
磐井の乱に際して、
大連・
大伴金村、
大連・
物部麁鹿火と共に将軍の適任者について諮問を受け、
金村らと共に
鹿火を推薦している。
西暦529年(
継体天皇23年)9月
薨去。
西暦534年(
安閑天皇元年)
安閑天皇が
即位すると、
娘の紗手媛・香香有媛は共に妃に立てられた。
『
続日本紀』
天平勝宝3年(
西暦751年)2月己卯条には、
雀部真人が、巨勢男人は本来「雀部男人」であったのを誤って巨勢と記されたと奏上し、
時の大納言であった巨勢奈弖麻呂もその主張を支持したため、
訂正したと記されている。
なお、この記事によれば、男人は継体・安閑朝に
大臣であったと記されているが、
『
日本書紀』では
西暦529年(
継体天皇23年9月)に亡くなったと記されており、
『
日本書紀』とは異なる史料が存在していたことがわかる。