磐井の乱は、
6世紀の初めに起こった
筑紫国造の反乱。
『
日本書紀』の記すところでは、
西暦527年(
継体天皇21年6月)に近江毛野が6万の軍を率い、
任那に赴き新羅に破られた南加羅・
㖨己呑を復興しようとしたとき、
かねて反乱の機をうかがっていた
筑紫国造の磐井が、
新羅の貨賂をうけ火・豊2国に勢力を張って毛野の軍を遮断したので、
天皇は大伴金村、物部麁鹿火、許勢男人らに征討を命じた。
翌年11月に至って、
大将軍の麁鹿火がみずから磐井と
筑紫の御井郡で交戦し、
ついにこれを斬ることをえた。
12月。磐井の子葛子は父の罪により誅せられることを恐れて、
糟屋屯倉を献じ贖罪を請うたとある。
西暦529年毛野は、
ようやく安羅に渡ったが、
目的の
任那復興に成功しなかったという。
この
西暦527年から
西暦529年にかけての対外関係記事は《百済本記》などの記録によったものと考えられる。
『
日本書紀』編者は、
近江毛野による
任那復興の不成功を、
1年有半にも及んだとする磐井の乱と結びつけて説明するために、
『
古事記』が記すような事件を核心として、
多くの潤色を施していると思われる。
『
釈日本紀』所引の《筑後国風土記》の記す事件も基本は『
古事記』と変わらないが、
磐井が
豊前国上膳(かみつみけ)県に逃げ、
その山中で終わったこと、
そのため怒った官軍が磐井の生前に造っていた墓の石人石馬を破壊した話をも伝えている。
《筑後国風土記》によれば、
磐井の墓は上妻県(八女郡)の南2里にあり、
墓の北東角には衙頭と称した一別区の存在したことがわかる。
これらの点は福岡県八女市の岩戸山古墳の状況と合致しており、
《筑後国風土記》のいう磐井の墓が岩戸山古墳を指すことはまちがいない。