継体天皇が大和王権の中枢の大和国ではなく河内国で活動を始めた理由は不明である。 しかし、樟葉は古くから川の渡場があり、 「久須波の渡り」と言われていたように古代において交易の要地であった。 また古代官道「山陽道」沿いにもあり、 畿内と九州を連結するという軍事的にも要衝の地である。 山陽道は、大和国と九州の太宰府を結ぶ幹線道として重要視され、 官道の中で唯一「大路」とされていた。 因みに、この宮の後に建てられた筒城宮、弟国宮も樟葉にほど近い場所にある。
迎えられて直ぐに大和国に入らなかったのは政治上の動乱があり、 継体天皇が不信を抱いたためであるとする説もあるが、憶測の域を出ない。 一説には、反対派の情報を得るために様子を窺うことを意図して、 知己であった河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)が住む樟葉を一時的な拠点としたものだという。
ただし、この樟葉宮以降の遷都について、『古事記』には記載がない。 そのため、樟葉宮から山城国を経由せず直接大和国に入ったとする説もある。