小窓
樟葉宮(くすはのみや)

作成日:2023/5/8

樟葉宮/楠葉宮(くすはのみや)

西暦507年3月3日(継体天皇元年2月4日)。 継体天皇が即位し、 5年にわたり営んだ宮。
「楠葉宮」とも表記される。
伝承地は大阪府枚方市楠葉丘の交野天神社付近。

継体天皇はこのあと筒城宮に遷宮。

日本書紀』によると、 25代武烈天皇の死後、 応神天皇5世の孫である男大迩王大伴金村物部麁鹿火巨勢男人らによって越前の三国(みくに)より迎えられ、 西暦507年にこの河内国樟葉で継体天皇として即位し、 5年ほど宮を営んだ。 そののち山背国筒城宮、 12年後に弟国宮に移っており、 大和国に入ったのは20年後のこととされる。

古事記崇神天皇条に、 「武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)の軍が敗走して川の渡りに殺到したとき、 逃げ落ちた兵士が糞を漏らして袴に付いた状態だった」という事から「くそばかま」と呼ばれ、 それが訛って「久須波(くすは)」になったと記載がある。 『日本書紀』にも同様のことが書かれている。 ...

遷都の経緯

継体天皇が大和王権の中枢の大和国ではなく河内国で活動を始めた理由は不明である。 しかし、樟葉は古くから川の渡場があり、 「久須波の渡り」と言われていたように古代において交易の要地であった。 また古代官道「山陽道」沿いにもあり、 畿内と九州を連結するという軍事的にも要衝の地である。 山陽道は、大和国と九州の太宰府を結ぶ幹線道として重要視され、 官道の中で唯一「大路」とされていた。 因みに、この宮の後に建てられた筒城宮、弟国宮も樟葉にほど近い場所にある。

迎えられて直ぐに大和国に入らなかったのは政治上の動乱があり、 継体天皇が不信を抱いたためであるとする説もあるが、憶測の域を出ない。 一説には、反対派の情報を得るために様子を窺うことを意図して、 知己であった河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)が住む樟葉を一時的な拠点としたものだという。

ただし、この樟葉宮以降の遷都について、『古事記』には記載がない。 そのため、樟葉宮から山城国を経由せず直接大和国に入ったとする説もある。

男大迩王(をほどのおほきみ)

継体天皇の諱(いみな)