小窓
允恭天皇(いんぎょうてんのう)

作成日:2019/10/12

  《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第19代天皇 允恭天皇(いんぎょうてんのう)

[在位] 西暦412年允恭天皇元年12月) - 西暦453年允恭天皇42年1月14日)《紀》
[生没] 西暦376年仁徳天皇64年)? - 西暦453年允恭天皇42年1月14日) 78歳没《紀》
[時代] 伝承の時代(古墳時代
[先代] 反正天皇   [次代] 安康天皇
[和風諡号] 雄朝津間稚子宿禰天皇
[] 雄朝津間稚子宿禰皇子
[父親] 仁徳天皇(第4子)   [母親] 葛城磐之媛
[皇后] 忍坂大中姫
[皇居] 遠飛鳥宮
[陵所] 恵我長野北陵

年表

天皇の系譜(第10代から第26代)日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである。
西暦376年仁徳天皇64年)
雄朝津間稚子宿禰皇子(のちの允恭天皇)誕生
西暦410年反正天皇5年)
(1月23日)皇太子を立てないまま反正天皇75歳で崩御
西暦412年允恭天皇元年)
(12月)允恭天皇 即位
西暦414年允恭天皇3年)
(1月)新羅に腕の良い医者を求めた。
(8月)新羅から医者を招聘、天皇の病気を治療
西暦415年允恭天皇4年)
(9月)諸氏族の氏姓の乱れを正すため、飛鳥甘樫丘にて盟神探湯(くがたち)を実施。
西暦416年允恭天皇5年)
(7月)葛城玉田宿禰葛城襲津彦の孫)を、先帝の殯宮での役目を怠ったとして討った。
西暦418年允恭天皇7年)
(12月)忍坂大中姫皇后の妹の弟姫(衣通郎姫)が入内、藤原宮に住まわせる。皇后の不興を買う。
西暦419年允恭天皇8年)
(2月)衣通郎姫が茅渟宮へ移る
西暦420年允恭天皇9年)
茅渟宮へ頻繁に行幸
西暦421年允恭天皇10年)
皇后に諌められ、茅渟行幸が稀になる
西暦434年允恭天皇23年)
(3月)木梨軽皇子を立太子
西暦435年允恭天皇24年)
(6月)木梨軽皇子と同母妹の軽大娘皇女の近親相姦が発覚
西暦453年允恭天皇42年)
2月8日(1月14日)允恭天皇78歳で崩御
(10月)河内長野原陵に葬られる
(11月)新羅王から弔使が送られる
西暦454年允恭天皇42年)
(12月14日)安康天皇 即位

漢風諡号である「允恭天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。

事績

衣通郎姫
即位7年、天皇は皇后の妹の弟姫を妃にしようとした。
弟姫はその美しさが衣服を通り抜けて光っている程だという意味で衣通郎姫と呼ばれていた。
しかし皇后は妹の入内に不快感を示し、衣通郎姫自身も姉を慮って入内を拒否した。
天皇は烏賊津使主(いかつのおみ)を送って衣通郎姫を説得させた。 烏賊津使主は庭に伏せ、懐に隠した糒を食べて飢えを凌ぎながら七日七晩動かなかった。
とうとう折れた衣通郎姫は入内を承諾したが、宮中とは別に藤原宮に住まった。

翌年2月、衣通郎姫は皇后の嫉妬を理由にさらに遠方の茅渟宮(ちぬのみや、大阪府泉佐野市)へ移った。
天皇は遊猟にかこつけて衣通郎姫の許に行幸を続けた。
即位10年に皇后に諌められ、その後の茅渟行幸は稀になった。

以上が『日本書紀』の記す衣通姫伝説であるが『古事記』には記載がない。
『古事記』は天皇の娘の軽大娘皇女を衣通姫としている。
木梨軽皇子の悲恋
即位23年、木梨軽皇子を立太子。
しかし翌年に太子は同母妹の軽大娘皇女との道ならぬ恋に落ちてしまった。
同母兄妹の恋となると当時でもさすがに禁忌であった。
即位42年、天皇は崩御
しかし暴虐を行い女色に溺れたと見なされた太子から人心は離れ、弟の穴穂皇子へと移っていった。
穴穂皇子を恐れた太子は密かに挙兵しようとしたが失敗し、物部大前宿禰の館に逃げ込んだ。
そこへ穴穂皇子が軍を率いて現れ、館を取り囲んだ。
大前宿禰はあっさりと太子を裏切り、最期を悟った太子は自害した。
あるいは伊予に配流されたとも言われる。

『古事記』に拠れば、太子は伊予の湯(道後温泉)に流されたという。
遺された軽大娘皇女はなお想いがつのるばかりで、ついに伊予へと向かってしまった。
再開した兄妹は喜びに浸りながら自害して果てたという。
この兄妹の悲恋が『古事記』における衣通姫伝説であり、允恭記の大半を占める歌物語となっている。

親族

祖父:応神天皇        祖母:仲姫命
父親:仁徳天皇(第4子)   母親:葛城磐之媛
皇后:忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ。稚渟毛二派皇子の女)
妃:弟姫(おとひめ、衣通郎姫(そとおりのいらつめ)、皇后の妹)

皇居

『日本書紀』では即位後の遷都記事がなく、反正天皇の丹比柴籬宮(たじひのしばかきのみや、大阪府松原市上田)をそのまま使っていたことになる。
『古事記』によると都は遠飛鳥宮
飛鳥の地に宮を設けた初めての天皇ということになる。

陵・霊廟

陵(みささぎ)の名は惠我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)。
宮内庁により大阪府藤井寺市国府1丁目にある遺跡名「市ノ山古墳(市野山古墳)」に治定されている。
宮内庁上の形式は前方後円で、墳丘長228メートルの前方後円墳である。

上記とは別に、大阪府藤井寺市津堂にある遺跡名「津堂城山古墳」は宮内庁指定の藤井寺陵墓参考地(ふじいでらりょうぼさんこうち)として允恭天皇が被葬候補者に想定されている。

また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

考証

中国の歴史書『宋書』・『梁書』に記される倭の五王中の倭王済に比定されている。


反正天皇 [← 前へ]  [次へ →] 安康天皇

雄朝津間稚子宿禰皇子(おあさづまわくごのすくねのみこ)

允恭天皇の諱(いみな)