『日本書紀』では即位後の遷都記事がなく、反正天皇の丹比柴籬宮(たじひのしばかきのみや、大阪府松原市上田)をそのまま使っていたことになる。
『古事記』によると都は遠飛鳥宮。
飛鳥の地に宮を設けた初めての天皇ということになる。
陵(みささぎ)の名は惠我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)。
宮内庁により大阪府藤井寺市国府1丁目にある遺跡名「市ノ山古墳(市野山古墳)」に治定されている。
宮内庁上の形式は前方後円で、墳丘長228メートルの前方後円墳である。
上記とは別に、大阪府藤井寺市津堂にある遺跡名「津堂城山古墳」は宮内庁指定の藤井寺陵墓参考地(ふじいでらりょうぼさんこうち)として允恭天皇が被葬候補者に想定されている。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
中国の歴史書『宋書』・『梁書』に記される倭の五王中の倭王済に比定されている。