安康天皇3年10月1日(天皇が既に暗殺された後)父の市辺押磐皇子が大泊瀬皇子(後の雄略天皇)に殺されると、
兄の億計王(おけのみこ、後の仁賢天皇)と共に逃亡して身を隠した。
丹波国与謝郡(京都府丹後半島東半)に行き、
後に播磨国明石郡や美嚢郡の志染の石室に隠れ住む。
兄弟共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と名乗り、
縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に使役され、
長い間牛馬の飼育に携わっていた。
清寧天皇2年11月、
弘計王自ら新室の宴の席で、
歌と唱え言に託して王族の身分を明かした。
子がなかった清寧天皇はこれを喜んで迎えを遣わし、
翌年2王を宮中に迎え入れて、
4月7日(5月10日)に兄王を皇太子に、
弘計王を皇子とした。
同5年1月16日に清寧天皇が崩御した後、
皇太子の億計は身分を明かした大功を理由として弟の弘計に皇位(王位)を譲ろうとするが、
弘計はこれを拒否。
皇位の相譲が続き、
その間は飯豊青皇女が執政した(『古事記』では、2王が身分を明かして宮中に戻ったのは清寧の崩御後、飯豊王の執政中のことであるとする)。
結果的に兄の説得に折れる形で顕宗天皇元年元旦、
弘計が顕宗天皇として即位する。
引き続き億計が皇太子を務めたが、
天皇の兄が皇太子という事態は、
これ以降も例がない。
罪無くして死んだ父を弔い、
また父の雪辱を果たすべく雄略への復讐に走り意祁命にその陵の破壊を命じることもあったが、
長く辺土で苦労した経験から民衆を愛する政治を執ったと伝えられる。
同3年4月25日、崩御。
『古事記』に38歳(但し治世8年という)、『一代要記』に48歳。
なお、
即位前に志毘臣(しびのおみ、平群氏)との恋争いのもつれから、
これを夜襲して誅殺したという話もある(『古事記』)。
億計・弘計2王の発見物語は典型的な貴種流離譚であって劇的な要素が強いため、 史実性が疑問視されている。 なぜ、このような物語が旧辞に取り入れられたのかははっきりしない。
近年では、この伝承に史実性を認める説もでてきた。
兄弟が畿内周辺を彷徨し、
聖なる新室宴において唱え言をあげたことや、
弘計の別名である「来目稚子」が久米舞を継承する来目部(くめべ)を連想させること、
神楽歌における囃し言葉を「おけおけ」ということなどから、
当時に溯る民俗的背景がほのみえ、
両皇子発見譚に史実性を認めながらも、
詳細には意見は割れている。
また梁書に登場する扶桑国の国王乙祁(おけ)が、 乙が弟に通じること、 在位年代が顕宗・仁賢天皇の治世にほぼ一致することから、 両天皇の実在性を強く支えている。
また、 両皇子発見譚が史実ではなかったとしても「史実でない物語・伝説が付加された」ということにすぎず、 人物としての実在性や天皇系譜そのものを否定したことにはならないとし、 億計・弘計の両天皇の実在を主張する意見も少なくない。
陵(みささぎ)は、 宮内庁により奈良県香芝市北今市にある傍丘磐坏丘南陵に治定されている。 宮内庁上の形式は前方後円。
上記とは別に、
奈良県大和高田市築山にある宮内庁の磐園陵墓参考地(いわぞのりょうぼさんこうち)では、
顕宗天皇が被葬候補者に想定されている。
遺跡名は「築山古墳」。
皇居では、
皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
また、
神戸市西区押部谷町木津には、
顕宗・仁賢両帝を祭神とする顕宗仁賢神社がある。
この神社の他にも西区内や明石市には所縁を称する神社が数多くある。