小窓
顕宗天皇/顯宗天皇(けんぞうてんのう)

作成日:2019/10/14

《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第23代天皇 顕宗天皇/顯宗天皇(けんぞうてんのう)  仁賢天皇の実の弟

[在位] 西暦485年顕宗天皇元年1月1日) - 西暦487年顕宗天皇3年4月25日)《紀》
[生没] 西暦450年允恭天皇39年) - 西暦487年顕宗天皇3年4月25日) 38歳没《紀》
[時代] 古墳時代
[先代] 清寧天皇   [次代] 仁賢天皇
[和風諡号]
[] 弘計皇子
[父親] 市辺押磐皇子   [母親] 荑媛(はえひめ)
[皇后] 難波小野王
[子女] 皇子女なし。
[皇居] 近飛鳥八釣宮《紀》近飛鳥宮《記》
[陵所] 傍丘磐坏丘南陵

年表

天皇の系譜(第10代から第26代)日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである。
西暦450年允恭天皇39年)
弘計皇子(のちの顕宗天皇)誕生
男大迹王(のちの継体天皇)誕生
眉輪王(大草香皇子の子)誕生
西暦456年安康天皇3年)
(10月)父の市辺押磐皇子大泊瀬皇子(後の雄略天皇)に殺された。
西暦481年清寧天皇2年)
(11月)億計(のちの仁賢天皇)と弘計(のちの顕宗天皇)兄弟を発見。(⇒ 市辺押磐皇子の遺児発見
西暦482年清寧天皇3年)
(1月)億計弘計を皇子と認めて宮中に迎え入れる。
(4月17日)億計王清寧天皇の皇太子として立太子される。
西暦484年清寧天皇5年)
(1月16日)清寧天皇41歳で崩御
(11月)河内坂門原陵に葬られる
西暦485年顕宗天皇元年1月1日)
(1月1日)顕宗天皇36歳で即位
(4月11日)詔「来目部小楯の功を賞し給ふの詔」を発した。
西暦487年顕宗天皇3年4月25日) 38歳没
(4月25日)顕宗天皇38歳で崩御
西暦488年仁賢天皇元年1月1日)
(1月5日)仁賢天皇40歳で即位。石上広高宮を宮とした。
西暦489年仁賢天皇2年)
(9月)顕宗天皇皇后の難波小野王が自殺した。

略歴

安康天皇3年10月1日(天皇が既に暗殺された後)父の市辺押磐皇子が大泊瀬皇子(後の雄略天皇)に殺されると、 兄の億計王(おけのみこ、後の仁賢天皇)と共に逃亡して身を隠した。
丹波国与謝郡(京都府丹後半島東半)に行き、 後に播磨国明石郡や美嚢郡の志染の石室に隠れ住む。
兄弟共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と名乗り、 縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に使役され、 長い間牛馬の飼育に携わっていた。
清寧天皇2年11月、 弘計王自ら新室の宴の席で、 歌と唱え言に託して王族の身分を明かした。
子がなかった清寧天皇はこれを喜んで迎えを遣わし、 翌年2王を宮中に迎え入れて、 4月7日(5月10日)に兄王を皇太子に、 弘計王を皇子とした。

同5年1月16日に清寧天皇が崩御した後、 皇太子の億計は身分を明かした大功を理由として弟の弘計に皇位(王位)を譲ろうとするが、 弘計はこれを拒否。
皇位の相譲が続き、 その間は飯豊青皇女が執政した(『古事記』では、2王が身分を明かして宮中に戻ったのは清寧の崩御後、飯豊王の執政中のことであるとする)。
結果的に兄の説得に折れる形で顕宗天皇元年元旦、 弘計が顕宗天皇として即位する。
引き続き億計が皇太子を務めたが、 天皇の兄が皇太子という事態は、 これ以降も例がない。
罪無くして死んだ父を弔い、 また父の雪辱を果たすべく雄略への復讐に走り意祁命にその陵の破壊を命じることもあったが、 長く辺土で苦労した経験から民衆を愛する政治を執ったと伝えられる。
同3年4月25日、崩御
『古事記』に38歳(但し治世8年という)、『一代要記』に48歳。
なお、 即位前に志毘臣(しびのおみ、平群氏)との恋争いのもつれから、 これを夜襲して誅殺したという話もある(『古事記』)。

漢風諡号である「顕宗天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。
記紀』・『播磨国風土記』にその存在が伝えられる。
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生没年不詳。記紀では第23代の天皇。 『古事記』は崩年齢を38歳とするが、『一代要記』などは48歳とし、 治世年数も『古事記』は8年とするが、 『日本書紀』は3年と異なる。 履中(りちゅう)天皇の孫とし、市辺忍歯(押磐)(いちべのおしは)皇子の子と伝える。 袁祁石巣別命(おけいわすわけのみこと)、 弘計天皇、袁奚(おけ)天皇とも書く。 宮居は近飛鳥(ちかつあすか)宮で、 その所在については河内(かわち)説と大和(やまと)説があるが、 河内飛鳥とする説が有力である。父が雄略(ゆうりゃく)天皇に殺されたので、 兄の意祁(億計)(おけ)皇子とともに丹波(たんば)に逃れ、 さらに播磨(はりま)に身を隠したが、みいだされて皇位に迎えられたという。 陵は片岡(傍丘)の石坏(盤杯)(いわつき)の岡の上にありと伝える。 奈良県香芝(かしば)市北今市の地とする。 [上田正昭]
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親族

祖父:履中天皇     祖母:葛城黒媛
父親:市辺押磐皇子   母親:荑媛(はえひめ)
兄弟:
皇后:難波小野王
顕宗天皇元年1月、顕宗天皇の即位と同月に皇后に立った。子女は無し。
顕宗天皇が崩御し、 次いで仁賢天皇が即位すると、
皇太子であった頃の仁賢天皇に行った無礼な振舞いにより誅殺されることを恐れ、
仁賢天皇2年9月に自殺した。

実在性

億計・弘計2王の発見物語は典型的な貴種流離譚であって劇的な要素が強いため、 史実性が疑問視されている。 なぜ、このような物語が旧辞に取り入れられたのかははっきりしない。

近年では、この伝承に史実性を認める説もでてきた。
兄弟が畿内周辺を彷徨し、 聖なる新室宴において唱え言をあげたことや、 弘計の別名である「来目稚子」が久米舞を継承する来目部(くめべ)を連想させること、 神楽歌における囃し言葉を「おけおけ」ということなどから、 当時に溯る民俗的背景がほのみえ、 両皇子発見譚に史実性を認めながらも、 詳細には意見は割れている。

また梁書に登場する扶桑国の国王乙祁(おけ)が、 乙が弟に通じること、 在位年代が顕宗・仁賢天皇の治世にほぼ一致することから、 両天皇の実在性を強く支えている。

また、 両皇子発見譚が史実ではなかったとしても「史実でない物語・伝説が付加された」ということにすぎず、 人物としての実在性や天皇系譜そのものを否定したことにはならないとし、 億計・弘計の両天皇の実在を主張する意見も少なくない。

陵・霊廟

陵(みささぎ)は、 宮内庁により奈良県香芝市北今市にある傍丘磐坏丘南陵治定されている。 宮内庁上の形式は前方後円。

上記とは別に、 奈良県大和高田市築山にある宮内庁の磐園陵墓参考地(いわぞのりょうぼさんこうち)では、 顕宗天皇が被葬候補者に想定されている。
遺跡名は「築山古墳」。

皇居では、 皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
また、 神戸市西区押部谷町木津には、 顕宗・仁賢両帝を祭神とする顕宗仁賢神社がある。
この神社の他にも西区内や明石市には所縁を称する神社が数多くある。


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億計皇子(おけのみこ)

仁賢天皇の諱(いみな)。

弘計皇子(顕宗天皇)は同母弟。

弘計皇子(おけのみこ)/

顕宗天皇の諱(いみな)。

億計皇子(仁賢天皇)は同母兄。

男大迹王(おほどのおおきみ)

継体天皇の別称