仁賢天皇7年正月3日に立太子する。 同11年8月8日に仁賢天皇が崩御した後、 大臣の平群真鳥が国政をほしいままにした。 大伴金村などは、それを苦々しく思っていた。
皇太子は、物部麁鹿火の娘影媛(かげひめ)との婚約を試みるが、 影媛は既に真鳥大臣の子平群鮪(へぐりのしび)と通じていた。 海柘榴市(つばいち、現桜井市)の歌垣において鮪との歌合戦に敗れた太子は怒り、 大伴金村をして鮪を乃楽山(ならやま、現奈良市)に誅殺させ、 11月には真鳥大臣をも討伐させた。 そののち同年12月に即位して、 泊瀬列城に都を定め、大伴金村を大連とした。
なお、日本書紀は、武烈天皇の異常な行為を記している。 その部分を以下に列挙する。
なお、これら天皇による悪逆非道の記述は、『古事記』には一切見られない。
天皇には子がなかった。 御子代として小長谷部(小泊瀬舎人)を置いたという。
武烈天皇8年12月8日に後嗣なく崩御し、 仁徳天皇からの皇統は途絶えることになる。 『扶桑略記』『水鏡』などに18歳とあるが不明な点が多い。
『日本書紀』には「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず」とあるように、
非常に悪劣なる天皇として描かれている。
その一方で、厳格な裁判を行ったとするなど相矛盾する記事が併存する。
この相違の背景には、
血縁関係が薄い次代の継体天皇の即位を正当化する意図が『日本書紀』側にあり、
武烈天皇を暴君に仕立てたとする説が一般的である。
事実『古事記』には、暴君としての記述はなく、
太子がいなかったことと天皇の崩後に袁本杼命(おおどのみこと、後の継体天皇)が皇位継承者として招かれたことしか記述されていない。
また、天皇の御名小泊瀬稚鷦鷯尊は、
仁徳天皇の御名(大鷦鷯尊)と雄略天皇の御名(大泊瀬幼武尊)の一部を接合したもので、
ここには、聖帝仁徳によって開かれた王朝が、
雄略天皇の時代を経て悪逆非道の武烈で断絶し、
次の継体天皇によって新王朝が開かれるとする王朝交替の歴史観が現れているとの説もある。
『日本書紀』には、
物部麁鹿火の娘の影媛(かげひめ)をめぐって、
平群臣鮪(へぐりのおみしび)と歌垣で争ったことが記され、
それに敗れた太子は大伴金村に命じて鮪を討ち取らせたという。
ところが、この歌垣の場面は『古事記』に、
袁祁王(をけのみこ、後の顕宗天皇)が菟田首(うだのおびと)の娘の大魚(おうお)をめぐって、
志毘臣(しびのおみ、『日本書紀』の平群臣鮪に相当)と争ったこととして記されている。
つまり、歌垣に出てくる皇子も女も、全く別の設定になっているのである。
何れが原伝承かの判断は分かれるが、
少なくとも『古事記』と『日本書紀』とでは、
武烈天皇の伝承にかなりの食い違いが見られており、
武烈天皇自身が実在したかどうかについても疑問が残る。
陵(みささぎ)は、 宮内庁により奈良県香芝市今泉にある傍丘磐坏丘北陵(かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎ)に治定されている。 宮内庁上の形式は山形。
陵号は顕宗天皇の傍丘磐坏丘南陵に対応するものであるが、 『古事記』には「片岡之石坏岡」、『日本書紀』には「傍丘磐坏丘陵」とあり、本来南北の区別はない。 なお、この2陵と孝霊天皇の片丘馬坂陵は合わせて「片岡三陵」と呼ばれる。
上記とは別に、 奈良県北葛城郡広陵町大塚にある宮内庁の大塚陵墓参考地(おおつかりょうぼさんこうち)では、 武烈天皇が被葬候補者に想定されている。遺跡名は「新山古墳」。
継体天皇2年10月に奉葬された。
元禄探陵の際は香芝市平野にあった平野3・4号墳(消滅)が陵に擬定され、
幕末まで保護された。
蒲生君平の『山陵志』は大和高田市築山の築山古墳(磐園陵墓参考地)を比定したが、
安政の陵改めではこれを否定。
幕末には諸説分かれて修陵出来ず、
明治22年(1889年)現陵が治定された。
しかし、宮内庁管理下にある現陵は「古墳として造営されたものではなく、単なる自然丘」という見解が学会における一般的な見方で、
陵そのものの実在を疑う意見もある。
また皇居では、 皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。