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応神天皇/應神天皇(おうじんてんのう)

作成日:2019/10/3

応神天皇は、第15代とされる天皇。
日本書紀』での名は誉田天皇
記紀』によると渡来人を用いて国家を発展させたとされ、 中世以降は軍神八幡神としても信奉された。

実在したとすれば4世紀後半から5世紀初頭ごろの大王と推定されるが、 考古学上において定かでない。

《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第15代天皇 応神天皇/應神天皇(おうじんてんのう)  実在性は定かでない。

[在位] 西暦270年応神天皇元年1月1日) - 西暦310年応神天皇41年2月15日)《紀》
[生没] 西暦200年仲哀天皇9年12月14日) - 西暦310年応神天皇41年2月15日) 111歳没《紀》
[時代] 伝承の時代(古墳時代
[先代] 仲哀天皇 神功皇后摂政)   [次代] 仁徳天皇
[和風諡号] 誉田天皇
[] 誉田別尊
[父親] 仲哀天皇(第4子)   [母親] 神功皇后
[皇后] 仲姫命
[皇居] 軽島豊明宮
[陵所] 御廟山古墳

年表

天皇の系譜(第10代から第26代)
西暦200年仲哀天皇9年)
西暦203年神功皇后摂政3年)
西暦213年神功皇后摂政13年)
西暦270年応神天皇元年)
西暦271年応神天皇2年)
Wikipedia.応神天皇.年譜には「応神天皇2年(391年)」の記載があるが、西暦年の意味が不明。
120年の差は干支の2周りなのでそれを意味するのかも知れないが記載がない。
その上、西暦年が記載されているのはこの「応神天皇2年」だけである。
西暦272年応神天皇3年)
西暦274年応神天皇5年)
西暦275年応神天皇6年)
西暦276年応神天皇7年)
西暦278年応神天皇9年)
西暦280年応神天皇11年)
西暦282年応神天皇13年)
西暦283年応神天皇14年)
西暦284年応神天皇15年)
西暦285年応神天皇16年)
西暦288年応神天皇19年)
西暦289年応神天皇20年)
西暦291年応神天皇22年)
西暦297年応神天皇28年)
西暦300年応神天皇31年)
西暦306年応神天皇37年)
西暦308年応神天皇39年)
西暦309年応神天皇40年)
西暦310年応神天皇41年)

略歴

仲哀天皇の第四皇子。母は気長足姫(のちの神功皇后)。 異母兄に麛坂皇子と忍熊皇子がいる。

神功皇后三韓征伐の帰途に筑紫で生まれたとされる。
場所は、 宇瀰(神功皇后紀。うみ:福岡県糟屋郡宇美町)、 または蚊田(応神天皇紀。かだ:筑後国御井郡賀駄郷あるいは筑前国怡土郡長野村蚊田)とある。
西暦200年(仲哀天皇9年)に生まれたとされるが(若井敏明によると西暦367年に生まれた)、 これは仲哀が死去して十月十日後であるため、 仲哀天皇の実子ではないことを示唆しているとする異説もある。
応神天皇は胎中天皇とされ、 異母兄たちはこれに抵抗して叛乱を起こしたが気長足姫によって鎮圧され排除された。
摂政となった母により、神功皇后摂政3年に立太子。母が死去した翌年に即位。

即位2年、仲姫命を皇后として大鷦鷯尊(仁徳天皇)らを得た。 他にも多くの妃や皇子女がいた。
即位6年、近江へ行幸。 『古事記』によればこのとき宮主矢河枝比売を娶り菟道稚郎子と八田皇女を得たと言う。
在位中には様々な渡来人の来朝があった。 韓人には池を作らせたほか蝦夷や海人を平定して山海の部民を定めた。 名のある渡来人には弓月君、阿直岐、王仁、阿知使主といった人物がおり、 阿知使主は東漢氏の、弓月君は秦氏の祖である。
『古事記』によると和邇吉師(王仁)によって論語と千字文、 すなわち儒教と漢字が伝わったという。
また即位37年、 阿知使主と子の都加使主は縫製の女工を求めるため呉(東晋あるいは南朝宋)に派遣されたという。
即位40年、大鷦鷯尊と大山守皇子に相談の上で菟道稚郎子を立太子。
即位41年に111歳で死去。『古事記』では130歳、甲午年9月9日に死去したとされる。

漢風諡号である「応神天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。

親族

父方祖父:日本武尊   父方祖母:両道入姫命
母方祖父:息長宿禰王  母方祖母:葛城高顙媛
父親:仲哀天皇     母親:神功皇后
皇后仲姫命(なかつひめのみこと、中日売命) - 品陀真若王(五百城入彦皇子王子)女
高城入姫命(たかきのいりびめ、高木之入日売命) - 品陀真若王女、仲姫命同母姉
弟姫命(おとひめ、弟日売命) - 品陀真若王女、仲姫命同母妹
宮主宅媛(みやぬしやかひめ、宮主矢河枝比売) - 和珥日触使主女。『先代旧事本紀』には物部多遅摩連女の山無媛とある。
小甂媛(おなべひめ) - 和珥日触使主女、宮主宅媛の妹。『先代旧事本紀』には物部多遅摩連女の香室媛とある。
:息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ、弟媛) - 河派仲彦王(息長田別王子、日本武尊孫)女
:糸媛(いとひめ、糸井比売) - 桜井田部連島垂根女、男鉏妹
:日向泉長媛(ひむかのいずみのながひめ)
:迦具漏比売(かぐろひめ) - 須売伊呂大中日子(稚武彦王王子、日本武尊孫)王女
:葛城野伊呂売(かつらぎののいろめ、怒能伊呂比売?) - 武内宿禰
兄媛

宮主宅媛

宮主宅媛
みやぬしやかひめ
 
父親 日触使主(ひふれのおみ)
母親
宮主宅媛(みやぬしやかひめ)《紀》
宮主矢河枝比賣(みやぬしやかわえひめ)《記》
宮主矢阿枝比賣《記》
矢河枝比賣(やかわえひめ)《記》
配偶者 応神天皇
 
宮主宅媛(みやぬしやかひめ)は記紀にみえる応神天皇の妃。 西暦271年応神天皇2年)妃となる。
小甂媛(おなべひめ)は実の妹であり、共に、和珥(わに)氏の祖・日触使主(ひふれのおみ)の娘である。

古事記』によると、 菟道野から北上して木幡村に到った天皇は道端で美しい少女と出会った。
何者か問うと少女は和弭比布礼能意富美(わに の ひふれのおみ)の娘の宮主矢河枝比売(みやぬし やかえひめ)と名乗った。 天皇は翌日の帰り道に必ず少女の家に寄ると約束し、 少女も父に事情を報告した。
翌日、天皇は酒を注ぎながら長い歌を詠み、宮主矢河枝比売を娶った。 こうして生まれたのが皇太子となる菟道稚郎子と異母兄である仁徳天皇の皇后となる八田皇女である。

小甂媛

小甂媛
おなべひめ
 
父親 日触使主(ひふれのおみ)
母親
小甂媛(おなべひめ、をなべひめ)《紀》
袁那辨郞女/袁那弁郎女
(おなべのいらつめ, をなべのいらつめ)《記》
配偶者 応神天皇
 

小甂媛(おなべひめ)は記紀にみえる応神天皇の妃。 宮主宅媛は実の姉であり、共に、和珥(わに)氏の祖・日触使主(ひふれのおみ)の娘である。

日触使主

日触使主/日觸使主(ひふれのおみ)『日本書紀』は和珥臣(わにのおみ)の祖。
『古事記』では、丸邇之比布禮能意富美/丸邇之比布礼能意富美(わにのひふれのおおみ, わにのひふれのおほみ)。
二人の娘が応神天皇の后となる。(母親不詳) 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】 ...

ある時、天皇が近淡海国に越えて行幸する時に、宇遅野のあたりに立ち、葛野を望んで歌を詠んだ。

知婆能 加豆怒袁美禮婆 毛毛知陀 夜邇波母美由 久爾能富母美由
ちばの かづのをみれば ももちだるやにはもみゆ くにのほもみゆ

それで木幡村(こはたのむら)に着いたとき、美しい少女にその辻で出会った。
そして天皇がその少女に「お前は誰の子か」と問うと、「丸邇之比布礼能意富美の女で、名を宮主矢河枝比売と申します」と答えた。 天皇はその少女に「私は明日帰るときに、お前の家に立ち寄ろうと思う」と言った。

それで矢河枝比売は、このことを詳しく父に話した。
この父は「その方は天皇でいらっしゃる。恐れ多いことだ。我が子よ。お仕え申し上げなさい」と言って、その家を厳かに飾って待った。
翌日行幸した。

それで食事を差し出すときに、女の矢河枝比売に酒盞(さかずき)を持たせて酒を献上させた。
天皇はその大酒盞を持たせたままで歌を詠んだ。

許能迦邇夜 伊豆久能迦邇 毛毛豆多布 都奴賀能迦邇 余許佐良布 伊豆久邇伊多? 伊知遲志麻
このかにや いづくのかに ももづたふ つぬがのかに よこさらふ いづくにいたる いちぢしま

美志麻邇斗岐 美本杼理能 迦豆伎伊岐豆岐 志那陀由布 佐佐那美遲袁 須久須久登
みしまにとき みほどりの かずきいきづき しなだゆふ ささなみぢを すくすくと

和賀伊麻勢婆夜 許波多能美知邇 阿波志斯袁登賣 宇斯呂傳波 袁陀弖呂迦母 波那美波
わがいませばや こはたのみちに あはししをとめ うしろでは をだてろかも はなみは

志比比斯那須 伊知韋能 和邇佐能邇袁 波都邇波 波陀阿可良氣美 志波邇波
しひひしなす いちゐの わにさのにを はつには はだあからめに しはには

邇具漏岐由惠 美都具理能 曾能那迦都爾袁 加夫都久 麻肥邇波阿弖受 麻用賀岐許邇加岐多禮
にぐろきゆえ みつぐりの そのなかつにを かぶつく まひにはあてず まよがきこにかきたれ

阿波志斯袁美那 迦母賀登 和賀美斯古良 迦久母賀登
あはししをみな かもがと わがみしこら かくもがと

阿賀美斯古邇 宇多氣陀邇 牟迦比袁?迦母 伊蘇比袁?迦母
あがみしこに うたけだに むかひをるかも いそひをるかも


こうして結婚して生まれた御子が宇遅能和紀郎子である。 【古事記 中巻 応神天皇段】

矢田皇女

矢田皇女
やたのひめみこ
第16代仁徳天皇皇后
 
生没年 不詳
父親  応神天皇
母親  宮主宅媛
配偶者 仁徳天皇
子女  なし
同母兄 菟道稚郎子皇子
同母妹 雌鳥皇女
 
八田皇女(やたのひめみこ/やたのおうじょ、生没年不詳)は、第16代仁徳天皇の皇后。
『日本書紀』では「八田皇女」「矢田皇女」、『古事記』では「八田若郎女(やたのわきいらつめ)」と表記される。
第15代応神天皇と和珥臣祖の日触使主(ひふれのおみ、比布礼能意富美)の女の宮主宅媛(みやぬしやかひめ、宮主矢河枝比売)との間に生まれた皇女である。 同母兄妹として菟道稚郎子皇子皇子、雌鳥皇女がいる。
夫は仁徳天皇で、異母兄にあたる。子女はいない。
なお『先代旧事本紀』では、母は物部多遅摩連の女の山無媛とする。
...

『日本書紀』によれば、応神天皇の崩御後、大鷦鷯尊(仁徳天皇)と菟道稚郎子皇子は皇位を譲り合っていたが、空位のまま3年が経ち、菟道稚郎子皇子は自らの命を断った。
その際、大鷦鷯尊に妹の八田皇女を後宮に納れるよう遺言した。

大鷦鷯尊は即位して仁徳2年に磐之媛命を皇后に立てるが、 磐之媛命は嫉妬深い女性であり、 仁徳天皇(大鷦鷯尊)が八田皇女を妃とすることを許さなかった。
しかし天皇は仁徳30年に皇后の留守中に宮中へ納れ、怒った皇后は帰ることなく仁徳35年に筒城宮で亡くなった。
そして天皇は仁徳38年に八田皇女を皇后に立てたという。

その後、仁徳40年に皇后の同母妹の雌鳥皇女を妃としようとしたが、隼別皇子が皇女と通じてしまう。 天皇は皇后の言を尊重して罰しなかったが、謀反の心があるとして殺された。 この時皇后の願いにより皇女の足玉手玉は奪わぬよう追手に命じるが、その禁は破られる。 皇后の告発により、その犯人は私地を献じて死を免れたという。

『古事記』でも概ね同様の所伝を記すが、菟道稚郎子皇子の自殺や遺言の話はなく、大后(皇后)になったことも明記されてはいない。

雌鳥皇女

雌鳥皇女
めとりのひめみこ
 
別名 女鳥王《記》
父親 応神天皇
母親 宮主宅媛
生年 不詳
没年 仁徳天皇40年2月
同母兄 菟道稚郎子皇子
同母姉 矢田皇女
生年
高津姫神(『先代旧事本紀』)
配偶者 玉櫛媛、阿波咩命 等
 
雌鳥皇女(めとりのひめみこ)は、『記紀』に伝えられる古墳時代(5世紀頃)の皇族(王族)。
応神天皇の皇女。母は宮主宅媛(みやぬしやかひめ)。
菟道稚郎子皇子皇子・八田皇女の同母妹。『古事記』では女鳥王と記される。
...

『日本書紀』巻第十一によると、仁徳天皇は継室矢田皇女の妹で、異母妹である雌鳥皇女を妃にしようとして、媒酌人として二人にとって異母兄弟に当たる隼別皇子(はやぶさわけ の みこ)を遣わした(古事記では、八田若郎女は妃で、皇后は石之日売命(いわのひめ の みこと)のままである)。
しかし、隼別皇子は、密かに彼女を妻にして命令に背いた。

『古事記』では仁徳天皇の皇后の嫉妬を恐れた皇女が、以下のように発言して、自らすすんで速総別命(はやぶさわけ の みこと)の妻になったとする。

大后(おほきさき)の強(おず)きに因りて八田若郎女(やた の わきいらつめ)を治め賜はず、故(かれ)、仕へ奉(まつ)らじと思ふ。吾(あ)は汝命(いましみこと)の女(め)に為らむ

(荻原康男:訳)。
皇后のご気性が激しいので、天皇は八田若郎女を妃にお迎えになりません。 ですから私もお仕えはいたしますまいと思います。 私はあなたさまの妻になりましょう

何も知らなかった天皇は雌鳥皇女の寝所へ行ったが、皇女に仕える機織女らの歌を聴き(『古事記』では門の外の敷居に坐って、互いに歌を交わした結果)真相を知り恨んだが、皇后に気兼ねし、また兄弟としての交情を思い(二人の気持ちを慮って)一旦はこれを許した。
しかし、二人は慢心して、「鷦鷯(さざき)と隼(はやぶさ)とどちらが速いか」と皇子が尋ねた際に、皇女は「隼の方が速い」と答えた。
『古事記』では、以下の歌を女鳥王が詠んだことになっている。

雲雀(ひばり)は 天に翔(かけ)る 高行くや 速総別 鷦鷯取らさね

『書紀』によると、隼別皇子の舎人たちはこう詠んだという。

隼は 天に上(のぼ)り 飛び翔(かけ)り 斎(いつき)が上の 鷦鷯取らさね

これらの言葉は、暗に大鷦鷯尊である天皇よりも、隼別の方が魅力的で能力面でも優れている、と天皇を誹謗したものである。

このことで、天皇は激怒し、私情を国事に及ぼさぬようにしてきた鬱憤を爆発させ、また二人が自分に対して謀反を起こそうとしていると知り、二人を殺そうと思った。
隼別皇子が(罪を逃れるべく)伊勢神宮に雌鳥皇女ともども参拝しようとしているのを、天皇は自分たちから逃げたと解釈して、追っ手として、吉備品遅部雄鯽(きび の ほむちべ の おふな)・播磨佐伯直阿俄能胡(はりま の さえき の あたい あがのこ)らの軍兵を差し向けたという。
このときに八田皇后は、「雌鳥皇女は重い罪を犯したが、だからといって装飾品をとりあげるなど、辱めるようなことはしないで欲しい」と申し上げたので、天皇はその命令を雄鯽らに伝えた。

叛逆罪で逃亡した二人は、菟田の素珥山(そにのやま、現在の宇陀郡室生村の曽爾)を越えて(『古事記』では倉椅山(くらはしやま)、現在の桜井市倉橋にある音羽山)に登って歌を詠んだ。しかし、逃げ切ることは叶わず、伊勢国の蒋代野(こもしろのの)、『古事記』では宇陀の蘇邇(そに)で追いつかれて殺されてしまった。
このときに、雄鯽らは皇女の死骸の裳の中から玉を見つけた。 『古事記』では将軍の山部大楯連(やまべ の おおたて の むらじ)が女鳥王の手に巻いてある玉釧を着服して、妻に与えたことになっている。

その後、新嘗祭のあった月(11月)に、豊明節会(とよのあかりのせちえ)の宴会が開かれ、酒を五位以上の女たちに賜った。 その際に、近江山君稚守山(おうみのやま の きみ わかもりやま)の妻と采女の磐坂媛(いわさか の ひめ)の手に雌鳥皇女の所有物だった珠があった。
二人を詰問したところ、佐伯直阿俄能胡の妻から貰ったことが判明した。 阿俄能湖は自白し、殺されるところだったが、自分の土地を献上して、赦免された。 その土地は、玉代(たまて)と呼ばれた。

『古事記』では温情措置は行われず、自分の主君筋の人間の手が(死んで間もない)温かいうちに剥ぎ取るとは言語道断だとして、大楯は死刑に処せられた。

稚野毛二派皇子

稚野毛二派皇子
わかぬけふたまたのみこ
 
配偶者 記載なし《紀》
百師木伊呂弁《記》
母々恩己麻和加中比売『上宮記』
子女 忍坂大中姫命《紀》
大郎子ら7子《記》
大郎子ら4子『上宮記』
父親 応神天皇
母親 宮主宅媛
弟姫《紀》
息長真若中比売《記》
弟比売麻和加『上宮記』
 
稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ/わかぬけふたまたのおうじ)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。
『日本書紀』では「稚野毛二派皇子」のほか「稚渟毛二岐皇子」、『古事記』では「若沼毛二俣王」・「若野毛二俣王」、他文献では「稚渟毛二俣王」・「稚渟毛二派王」・「稚沼毛二俣命」などとも表記される。

『日本書紀』『古事記』とも事績の記載はない。

第15代応神天皇の第五皇子。第16代仁徳天皇の弟、第20代安康天皇と第21代雄略天皇の外祖父(母方の祖父)、さらに第26代継体天皇の高祖父とされる人物である。

今日の皇室は、稚野毛二派皇子の男系子孫にあたる。

事代主
事代主神、事代主命
 
神祇 国津神
別称 恵比寿大神
父親 大国主神
母親 神屋楯比売命(『古事記』)
高津姫神(『先代旧事本紀』)
配偶者 玉櫛媛、阿波咩命 等
 

高城入姫命仲姫命弟姫命は同母3姉妹であり、いずれも応神天皇の皇后・妃となっている。

日本書紀』では即位後の遷都記事がなく、 神功皇后磐余若桜宮をそのまま使っていたことになる。
行宮としては難波大隅宮(なにわのおおすみのみや。現在の大阪市東淀川区大隅、一説に同市中央区)がある。
崩御した地は大隅宮とも明宮ともされる。
古事記』では軽島之明宮を皇居としている。
現在は応神天皇の皇居として軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや、現在の奈良県橿原市大軽町)が比定されている。

陵・霊廟

陵(みささぎ)の名は惠我藻伏崗陵(恵我藻伏岡陵:えがのもふしのおかのみささぎ)。宮内庁により大阪府羽曳野市誉田6丁目にある遺跡名「誉田御廟山古墳」に治定されている。 墳丘長約420メートルの前方後円墳である。 宮内庁上の形式は前方後円。

日本書紀』には陵名の記載はないが、 雄略紀に「蓬蔂丘(いちびこのおか)の誉田陵」とある。 『古事記』には「御陵は川内の恵賀(えが)の裳伏(もふし)岡にあり」とある。 『延喜式(諸陵寮)』には「惠我藻伏崗山陵」として「兆域東西五町、南北五町、陵戸二烟、守戸三烟」と見える。 誉田御廟山古墳は大仙陵古墳(仁徳天皇陵)に次ぐ(第2位の規模)5世紀初造営ともいわれる大前方後円墳である。 ただし考古学の絶対年代はよほど強力な史料などが出ない限り、常に浮動的であることに注意する必要がある。 西暦2011年宮内庁により考古学者らの立ち入り調査が認められた。

上記とは別に、 大阪府堺市北区百舌鳥本町にある遺跡名「御廟山古墳」が宮内庁により百舌鳥陵墓参考地(もずりょうぼさんこうち)として治定されており、 応神天皇が被葬候補者に想定されている。

また皇居では、 皇霊殿(宮中三殿の一つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

伝承

※ 史料は、特記のない限り『日本書紀』に拠る[5]。
誕生

応神天皇こと誉田別尊の誕生は神秘に彩られている。

出生前の西暦199年仲哀天皇8年)、 母の気長足姫神功皇后)は筑紫橿日宮で神託を行い「海を渡り金銀財宝のある新羅を攻めるべし」という託宣を受けた。 父・仲哀天皇はこれに背いたため天神地祇は皇后のお腹の中にいた皇子に三韓を与えることにした。 まもなく父・仲哀天皇は死去し、 神功皇后は託宣を現実のものとするため新羅遠征を行い成功させた。 神功皇后は遠征と出産が重ならぬよう月延石鎮懐石と呼ばれる石をお腹に当てて出産を遅らせた。 父帝が崩御してちょうど十月十日後に筑紫で誕生した皇子は誉田別尊(ほむたわけのみこと)と名付けられた。その腕の肉が弓具の鞆(ほむた)のように盛り上がっていた事に由来し「ほむた」の音に「譽田」の字をあてたものだという。母の神功皇后の胎内にあったときから皇位に就く宿命にあったので「胎中天皇」とも称された。

誉田別尊を君主と認めない異母兄の?坂王・忍熊王の策謀は皇后と武内宿禰らに平定され、皇太后となった母の摂政のもと誉田別尊は三歳(計算上は四歳)で太子となった。71歳での即位まで母の神功皇后が摂政したという。そうであれば西暦367年-437年は天皇不在となる(神功皇后は女帝と認められていないため)。

氣比神宮参詣
神功皇后摂政13年2月8日、14歳の誉田別尊は武内宿禰に連れられ禊のため角鹿(敦賀)の笥飯大神に参詣した。角鹿は父帝が笥飯宮を設け母后が熊襲征伐と新羅遠征へ出発した地であり、太子の角鹿参詣によって一連の出征が終わったと解釈できる。このとき太子の誉田別尊と大神の去来紗別尊(いざさわけのみこと)が互いの名を交換したという説話がある。『書紀』は分注に一伝として「誉田別尊の元の名は去来紗別尊といい氣比神宮の笥飯大神と名前を交換して誉田別尊の名を得たのであろうが、他に所見なく未詳」としている。『古事記』でも同様の説話があるが、さらにその続きとして「魚(な)と名(な)の交換」の説話がある。「名の交換」とはこれの誤伝とする説が有力である。詳しくは「氣比神宮」参照。17日、太子が角鹿から戻ると母后は大殿で宴を開き、祝いの酒を飲み交わして歌を詠んだ。 此の酒は 我が御酒ならず 神酒の神 常世に坐す いはたたす 少名御神の 豊寿ぎ 寿ぎもとほし 神寿ぎ 寿ぎくるほし 祭り来し 御酒ぞ 乾さず 飮せ 酒 これに対し武内宿禰が太子に代わって返歌をした。 此の御酒を 釀みけむ人は 其の鼓 臼に立てて 歌ひつつ 釀みけめかも 此の御酒の あやに 歌樂し 酒

考証

信仰


仲哀天皇 [← 前へ]  [次へ →] 仁徳天皇

誉田別尊/誉田別命(ほむたわけのみこと)

応神天皇の諱(いみな)

仲哀天皇の第4子。母は神功皇后。

異母兄の麛坂皇子(かごさかのみこ、香坂王)と忍熊皇子(おしくまのみこ)がいる。
この二人の異母兄は、 正妃(皇后)の子である誉田別尊(応神天皇)の即位を阻もうと兵を起こしたが失敗した。

誉田天皇(ほむたのすめらみこと)

応神天皇の和風諡号。

大濱宿禰(おおはまのすくね)/ 阿曇大浜(あずみのおおはま) 生没年未詳

『日本書紀』などに伝わる古代日本の豪族。 『古事記』には彼に関する記載は存在しない。

発祥の地は『和名類聚抄』によると、 筑前国糟屋郡志珂郷から阿曇郷にかけての一帯(現在の福岡市東区志賀島から糟屋郡新宮町)といわれており、 大和政権に帰属した段階で、 摂津国に拠点を移している。

『古事記』・『日本書紀』の伊邪那岐命の黃泉の国から帰った禊ぎの場面で生まれた綿津見神の神を始祖としている(『日本書紀』一書には伊弉冉神が出産したとなっている)。

新撰姓氏録』には、「海神綿積豊玉彦神子穂高見命之後也」と記されている。

葉田葦守宮(はだのあしもりのみや)

応神天皇の行宮。
所在地:岡山県岡山市北区下足守