応神天皇/應神天皇(おうじんてんのう)
作成日:2019/10/3
応神天皇は、第15代とされる天皇。
『
日本書紀』での名は
誉田天皇。
『
記紀』によると渡来人を用いて国家を発展させたとされ、
中世以降は軍神八幡神としても信奉された。
実在したとすれば
4世紀後半から
5世紀初頭ごろの
大王と推定されるが、
考古学上において定かでない。
年表
- 西暦200年(仲哀天皇9年)
-
- 西暦203年(神功皇后摂政3年)
-
- (1月)誉田別尊(のちの応神天皇)皇太子に立てられる。
- 西暦213年(神功皇后摂政13年)
-
- 西暦270年(応神天皇元年)
-
- 西暦271年(応神天皇2年)
-
Wikipedia.応神天皇.年譜には「応神天皇2年(391年)」の記載があるが、西暦年の意味が不明。
120年の差は干支の2周りなのでそれを意味するのかも知れないが記載がない。
その上、西暦年が記載されているのはこの「応神天皇2年」だけである。
-
- 西暦272年(応神天皇3年)
-
- (10月)蝦夷に厩坂道を作らせる。
- (11月)阿曇連の祖の大濱宿禰に海人を平定させる。
- 西暦274年(応神天皇5年)
-
- (8月)海人部と山守部を定める。
- (10月)伊豆国に長さ十丈の船を造らせ、これを枯野と名付ける。
- 西暦275年(応神天皇6年)
-
- 西暦276年(応神天皇7年)
-
- 西暦278年(応神天皇9年)
-
-
(4月)武内宿禰を監察に筑紫に遣わした。
-
その際、弟の甘美内宿禰が兄を廃そうとして天皇に讒言した。
それは
武内宿禰が筑紫と三韓を率いて天下を奪おうとしているという内容だった。
武内宿禰は神功皇后の
新羅出兵や天皇の即位に尽力した功臣である。
しかし天皇は甘美内宿禰を疑わず
武内宿禰を誅殺するため使いを出した。
驚き嘆いた
武内宿禰だったが、
壱岐真根子(壱伎直祖)という者が自ら進み出て身代わりとなって死んだ。
武内宿禰はひとり悲しみながらも南海を通って帰国し天皇の前で甘美内宿禰と抗弁して争った。
判断がつかなかった天皇は磯城川のほとりに出て探湯で二人を戦わせることにした。
武内宿禰が勝ち、敗れた甘美内宿禰は兄に殺されそうになった。
命だけは天皇の勅によって救われたが、
その身は紀直らの祖に隷属民として授けられたという。
- 西暦280年(応神天皇11年)
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-
(10月)武内宿禰に命じて「剣池・軽池(かるのいけ)・鹿垣池(ししかきのいけ)・厩坂池(うまやさかのいけ)を作る」
-
剣池は奈良県橿原市石川町の石川池という。
『古事記』にも同様の国土開発記事が見え、
「この御世に、海部(あまべ)、山部、山守部、伊勢部を定めたまひき。
また、剣池(つるぎのいけ)を作りき。
また
新羅人参渡(まいわた)り来つ。
ここをもちて建内宿禰命引い率て、堤池に役ちて、
百済池(くだらのいけ)を作りき」
とある。
- 西暦282年(応神天皇13年)
-
- (3月)美人と名高い日向の髪長媛を呼び寄せる。
- (9月)来朝した髪長媛を大鷦鷯尊に譲る。
- 西暦283年(応神天皇14年)
-
- (2月)百済が「真毛津」(まけつ)という名前の縫衣工女(きぬぬいのおみな)を貢上し、これが来目衣縫の祖となった。(絹衣工女を献上)
-
(この年)弓月君が百済から来朝して窮状を上奏し援軍を求めたため、葛城襲津彦を派遣。以後、三年帰国せず
-
弓月君(秦氏の先祖)は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが
新羅の妨害によって叶わず、
その民は加羅に留まっていた。
そこで
葛城襲津彦を派遣したが三年経っても弓月君の民を連れて帰還することはなかった。
- 西暦284年(応神天皇15年)
-
-
(8月)
百済の阿花王(阿莘王)が良馬二頭を阿直岐に付けて献上した。
この阿直岐は阿直岐史の祖であり、
経典が読めたので菟道稚郎子皇子の師となった。
- 西暦285年(応神天皇16年)
-
-
(2月)阿直岐の紹介で王仁が来朝。数々の典籍を伝え、阿直岐と共に菟道稚郎子皇子(後に皇太子となる)の師となる。
-
天皇はさらに優れた人物を望み、
阿直岐から推薦された
王仁を呼び寄せた。
王仁は書首(ふみのおびと)の祖である。
『
古事記』にも同様の記事が見えるが、
百済の王は照古王(近肖古王)とされ、
阿知吉師(阿直岐)は牡馬と牝馬を献上し、
阿直史らの祖となったとある。
また天皇が「もし賢人しき人あらば貢上れ」と仰せになったので
命を受けて貢上れる人、名は和邇吉師(わにきし)。
すなわち論語十巻、千字文一巻、併せて十一巻をこの人に付けてすなわち貢進りき。
この和爾吉師は文首等の祖。
また手人韓鍛(てひとからかぬち)名は卓素(たくそ)また呉服(くれはとり)の西素(さいそ)二人を貢上りき
とある。
この論語と千字文の貢進がそれぞれ
儒教と漢字の伝来とされている。
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(8月)平群木菟と的戸田を派遣、弓月君を来朝させ葛城襲津彦を連れ戻す
-
新羅の妨害を防いで弓月君の民の渡来させるため平群木菟宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が派遣され
新羅国境に軍を展開した。
新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。
- 西暦288年(応神天皇19年)
-
- 西暦289年(応神天皇20年)
-
- 百済へ使者を送る。百済の直支王(腆支王)は恭しく歓待した。応神天皇は直支王へ太陽光を当てると暗闇でも光る夜明珠を下賜した。
-
倭漢直の祖・阿知使主、
その子都加使主、
並びに己が党類十七県を率いて渡来。
- 西暦291年(応神天皇22年)
-
- (3月5日)難波の大隅宮へ行幸。
-
(3月14日)妃の兄媛の里帰りを許す。
応神天皇は高台に登り遠望した。
その時、妃の
兄媛が西の方を望んで嘆いた。
「何をそんなに歎いているのだ」と問うと、
「この頃私は父母が恋しく、西の方を眺めていましたら、自然と悲しくなったのでございます。」
と答えた。
天皇は兄媛が親を思う心が篤いことを愛でて、「お前は両親を見ないで多くの年が経っている。帰って見舞いたいと思うのは当然だ」と兄媛の里帰りの希望を許し、
淡路の御原の海人八十人を水手(かこ)として集めた。
- (4月)大津から吉備へ向かう妃の兄媛を見送った。
- (9月6日)難波から淡路島へ向かい、狩りをした。
-
(10月10日)小豆島を経て吉備の葉田葦守宮に至った。
そのとき
兄媛の兄の
御友別が出迎えて一族総出で食事を奉った。
天皇は
御友別の謹惶(かしこまり)を喜び、
その子孫たちに
吉備国を割いて封じることにした。
彼らが吉備上道臣、下道臣祖などの祖となった。
また織部(はとりべ)が
兄媛に与えられた。
『
古事記』では対応する伝承が応神記ではなく仁徳記にあり、
兄媛は黒日売という名で登場する。
御友別にあたる人物は登場せず、
黒日売が自ら大御飯(おおみけ、おほみけ)を献上する。
- 西暦297年(応神天皇28年)
-
- (9月)高麗から遣使。漢文を読める菟道稚郎子皇子が表書きの無礼を理解して怒る。
- 西暦300年(応神天皇31年)
-
-
(8月)武庫水門で新羅人の過失により枯野船が炎上。焼け残りの木で塩と琴を作る。
武庫水門に停泊していた
新羅の使者の失火により多くの船が失われてしまった。
これらは即位5年10月に
伊豆国へ命じて造らせた長さ十丈の「枯野」という船が老朽化したため、
その代わりとして建造されたものだった。
「枯野」とは船が軽く速く進む様子から名付けられたというが、
それなら「軽野」と呼ぶはずであり後代に訛ったのではないかと『
日本書紀』では推察されている。
老朽化した「枯野」は塩を作るための薪にされ、
塩は諸国に配られ、
それを資金源として作られた新たな五百艘の船が武庫水門に集っていたというわけである。
新羅王は船を燃やしてしまった謝罪として技術者を献上した。
技術者たちは猪名部(いなべ)の祖先とされる。
焼け残りの材木は琴にされ、
その音が遠くまでよく音が聞こえたので天皇は歌を詠んだ。
枯野を 塩に焼き 其が余り 琴に造り 掻き彈くや 由良の門の 門中の海石に 觸れ立つ なづの木の さやさや
『
古事記』では、
対応する伝承が応神記ではなく仁徳記にあり、
河内の菟寸河にあった大木を「枯野」にしたと書かれている。
この木の影は朝には淡路島を、夕方には高安山を隠すほど巨大で、
船になってからは淡路島の寒泉(しみず)を飲料水として運ぶ役目を担ったと言われており、
この船、破れ壊れ、以ちて塩を焼き、其の焼け残れる木を取りて琴を作るに、其の音、七里に響きき
とある。
新たな造船と続く失火については記載がない。
- 西暦306年(応神天皇37年)
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-
(2月)阿知使主と都加使主は縫製女工(きぬぬいおみな。絹衣工女)を求めるため呉(東晋あるいは南朝宋)へ派遣された。
これは倭王讃の
朝貢にも比定される。
またこれらは神功皇后紀における『魏志』と『晋起居注』(現存せず)の引用を除けば『
日本書紀』における中国関連最初の記事である。
- 西暦308年(応神天皇39年)
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- 百済王(久尓辛王)が、直支王妹の新斉都媛と7人の女性を遣わす。
- 西暦309年(応神天皇40年)
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(1月24日)菟道稚郎子皇子を立太子。
1月8日。天皇は大山守命と
大鷦鷯尊を呼び寄せ「お前たち、子どもは愛おしいか?」と尋ねた。
二人が肯定すると次に「年長と年少ではどちらがより愛おしいか?」と尋ねた。
大山守命が年長だと答えると天皇は不機嫌になった。
そこで
大鷦鷯尊が空気を読んで「年長は多く年月を経て既に成熟しており心配ありません。
しかし年少は未だ未熟であり大変心配で愛おしいものです」と答えた。
天皇は「その通りだ」と大変喜んだ。
天皇はかねてから年少の
菟道稚郎子皇子を立太子しようと思っていたので、
年長の二皇子の気持ちも知りたいと思いこの問いをしたのだった。
1月24日。天皇は
菟道稚郎子皇子を皇太子とし、
大鷦鷯尊には太子の補佐役として国事を仕切らせ、
大山守命には山川林野を任せた。
大山守命はこれを不服に思い、
翌年に天皇が死去すると反乱を起こすこととなる。
また
菟道稚郎子皇子は即位を拒否し、
大鷦鷯尊との譲り合いの末に自決した。
結局、皇位を継いだのは
大鷦鷯尊(仁徳天皇)だった。
- 西暦310年(応神天皇41年)
-
-
(2月)応神天皇 崩御。『日本書紀』では111歳、『古事記』では130歳
応神天皇は後に男系断絶した
仁徳天皇皇統と現在まで続く
継体天皇皇統の共通の男系祖先である。
そのため後世に皇祖神として奉られることになった。
早くから神仏習合がなり八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され、
神社内に神宮寺が作られ各地の八幡宮に祭られた。
平安時代後期以降は清和源氏や桓武平氏など皇別氏族の武家が武功を立てる際に氏神として大いに神威を発揮したことで武神「弓矢八幡」として崇敬を集めた。
- (2月)阿知使主・都加使主が絹衣工女を連れて帰国。
略歴
仲哀天皇の第四皇子。母は気長足姫(のちの神功皇后)。
異母兄に麛坂皇子と忍熊皇子がいる。
神功皇后の三韓征伐の帰途に筑紫で生まれたとされる。
場所は、
宇瀰(神功皇后紀。うみ:福岡県糟屋郡宇美町)、
または蚊田(応神天皇紀。かだ:筑後国御井郡賀駄郷あるいは筑前国怡土郡長野村蚊田)とある。
西暦200年(仲哀天皇9年)に生まれたとされるが(若井敏明によると西暦367年に生まれた)、
これは仲哀が死去して十月十日後であるため、
仲哀天皇の実子ではないことを示唆しているとする異説もある。
応神天皇は胎中天皇とされ、
異母兄たちはこれに抵抗して叛乱を起こしたが気長足姫によって鎮圧され排除された。
摂政となった母により、神功皇后摂政3年に立太子。母が死去した翌年に即位。
即位2年、仲姫命を皇后として大鷦鷯尊(仁徳天皇)らを得た。
他にも多くの妃や皇子女がいた。
即位6年、近江へ行幸。
『古事記』によればこのとき宮主矢河枝比売を娶り菟道稚郎子と八田皇女を得たと言う。
在位中には様々な渡来人の来朝があった。
韓人には池を作らせたほか蝦夷や海人を平定して山海の部民を定めた。
名のある渡来人には弓月君、阿直岐、王仁、阿知使主といった人物がおり、
阿知使主は東漢氏の、弓月君は秦氏の祖である。
『古事記』によると和邇吉師(王仁)によって論語と千字文、
すなわち儒教と漢字が伝わったという。
また即位37年、
阿知使主と子の都加使主は縫製の女工を求めるため呉(東晋あるいは南朝宋)に派遣されたという。
即位40年、大鷦鷯尊と大山守皇子に相談の上で菟道稚郎子を立太子。
即位41年に111歳で死去。『古事記』では130歳、甲午年9月9日に死去したとされる。
名
- 誉田天皇(ほむたのすめらみこと) - 『日本書紀』、和風諡号
- 誉田別尊(ほむたわけのみこと)- 『日本書紀』
- 胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)- 『日本書紀』
- 品陀和氣命(ほむだわけのみこと) - 『古事記』
- 大鞆和気命(おおともわけのみこと) - 『古事記』
- 品太天皇(ほむだのすめらみこと)- 『播磨国風土記』
- 凡牟都和希王(ほむつわけのみこ/ほむたわけのみこ)- 『上宮記』逸文。
漢風諡号である「応神天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。
親族
-
父方祖父:日本武尊
父方祖母:両道入姫命
-
母方祖父:息長宿禰王
母方祖母:葛城高顙媛
-
父親:仲哀天皇
母親:神功皇后
- 皇后:仲姫命(なかつひめのみこと、中日売命) - 品陀真若王(五百城入彦皇子王子)女
-
- 荒田皇女(あらたのひめみこ、木之荒田郎女)
- 大鷦鷯尊(仁徳天皇)
- 根鳥皇子(ねとりのみこ) - 大田君祖
- 妃:高城入姫命(たかきのいりびめ、高木之入日売命) - 品陀真若王女、仲姫命同母姉
-
- 額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)
- 大山守皇子(おおやまもりのみこ) - 土形君・榛原君祖
- 去来真稚皇子(いざのまわかのみこ、伊奢之真若命) - 深河別祖
- 大原皇女(おおはらのひめみこ) - 『先代旧事本紀』は弟姫命の所生とする。
- 澇来田皇女(こむくたのひめみこ、高目郎女)
- 妃:弟姫命(おとひめ、弟日売命) - 品陀真若王女、仲姫命同母妹
-
- 阿倍皇女(あへのひめみこ)
- 淡路御原皇女(あわじのみはらのひめみこ、阿具知能三腹郎女) - 根鳥皇子妃
- 紀菟野皇女(きのうののひめみこ、木之菟野郎女)
- 滋原皇女(しげはらのひめみこ) - 『記紀』に見えず、『先代旧事本紀』より補う。
- 三野郎女(みののいらつめ)
- 妃:宮主宅媛(みやぬしやかひめ、宮主矢河枝比売) - 和珥日触使主女。『先代旧事本紀』には物部多遅摩連女の山無媛とある。
-
- 菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ、宇遅能和紀郎子) - 応神天皇皇太子
- 矢田皇女(やたのひめみこ、八田皇女・八田若郎女) - 仁徳天皇皇后(仁徳は異母兄)
- 雌鳥皇女(めとりのひめみこ、女鳥王) - 隼総別皇子妃(隼総別は異母弟)。仁徳に求婚されたが隼総別と結婚し、のちに仁徳に反逆したことにより夫婦とも殺害される。
- 妃:小甂媛(おなべひめ) - 和珥日触使主女、宮主宅媛の妹。『先代旧事本紀』には物部多遅摩連女の香室媛とある。
-
- 菟道稚郎女皇女(うじのわきいらつめのひめみこ、宇遅能若郎女) - 仁徳天皇妃(仁徳は異母兄)
- 妃:息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ、弟媛) - 河派仲彦王(息長田別王子、日本武尊孫)女
-
- 稚野毛二派皇子(わかぬけのふたまたのみこ、若沼毛二俣王) - 息長君等祖、継体天皇高祖父、忍坂大中姫・衣通姫父
- 妃:糸媛(いとひめ、糸井比売) - 桜井田部連島垂根女、男鉏妹
-
- 隼総別皇子(はやぶさわけのみこ、隼別皇子、速総別命)
- 妃:日向泉長媛(ひむかのいずみのながひめ)
-
- 大葉枝皇子(おおはえのみこ、大羽江王)
- 小葉枝皇子(おはえのみこ、小羽江王)
- 幡日之若郎女(はたびのわかいらつめ) - 履中天皇皇后
- 妃:迦具漏比売(かぐろひめ) - 須売伊呂大中日子(稚武彦王王子、日本武尊孫)王女
-
- 川原田郎女(かわらたのいらつめ)
- 玉郎女(たまのいらつめ)
- (忍坂大中比売) - 以下の2皇女は稚野毛二派皇子女であろう。
- (登富志郎女)
- 迦多遅王(かたじのみこ、堅石王)
- 妃:葛城野伊呂売(かつらぎののいろめ、怒能伊呂比売?) - 武内宿禰女
-
- 妃:兄媛
宮主宅媛
宮主宅媛
みやぬしやかひめ
| | |
父親 | : | 日触使主(ひふれのおみ) |
母親 | : | |
名 | : | 宮主宅媛(みやぬしやかひめ)《紀》 |
| | 宮主矢河枝比賣(みやぬしやかわえひめ)《記》 |
| | 宮主矢阿枝比賣《記》 |
| | 矢河枝比賣(やかわえひめ)《記》 |
配偶者 | : | 応神天皇 |
| | |
宮主宅媛(みやぬしやかひめ)は
記紀にみえる応神天皇の妃。
西暦271年(
応神天皇2年)妃となる。
小甂媛(おなべひめ)は実の妹であり、共に、和珥(わに)氏の祖・日触使主(ひふれのおみ)の娘である。
『
古事記』によると、
菟道野から北上して
木幡村に到った天皇は道端で美しい少女と出会った。
何者か問うと少女は
和弭比布礼能意富美(わに の ひふれのおみ)の娘の宮主矢河枝比売(みやぬし やかえひめ)と名乗った。
天皇は翌日の帰り道に必ず少女の家に寄ると約束し、
少女も父に事情を報告した。
翌日、天皇は酒を注ぎながら長い歌を詠み、宮主矢河枝比売を娶った。
こうして生まれたのが皇太子となる
菟道稚郎子と異母兄である
仁徳天皇の皇后となる
八田皇女である。
小甂媛
小甂媛
おなべひめ
| | |
父親 | : | 日触使主(ひふれのおみ) |
母親 | : | |
名 | : | 小甂媛(おなべひめ、をなべひめ)《紀》 |
| | 袁那辨郞女/袁那弁郎女 (おなべのいらつめ, をなべのいらつめ)《記》 |
配偶者 | : | 応神天皇 |
| | |
あ
小甂媛(おなべひめ)は
記紀にみえる応神天皇の妃。
宮主宅媛は実の姉であり、共に、和珥(わに)氏の祖・日触使主(ひふれのおみ)の娘である。
日触使主
日触使主/日觸使主(ひふれのおみ)『日本書紀』は和珥臣(わにのおみ)の祖。
『古事記』では、丸邇之比布禮能意富美/丸邇之比布礼能意富美(わにのひふれのおおみ, わにのひふれのおほみ)。
二人の娘が応神天皇の后となる。(母親不詳)
【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】
...
ある時、天皇が近淡海国に越えて行幸する時に、宇遅野のあたりに立ち、葛野を望んで歌を詠んだ。
知婆能 加豆怒袁美禮婆 毛毛知陀 夜邇波母美由 久爾能富母美由
ちばの かづのをみれば ももちだるやにはもみゆ くにのほもみゆ
それで木幡村(こはたのむら)に着いたとき、美しい少女にその辻で出会った。
そして天皇がその少女に「お前は誰の子か」と問うと、「丸邇之比布礼能意富美の女で、名を宮主矢河枝比売と申します」と答えた。
天皇はその少女に「私は明日帰るときに、お前の家に立ち寄ろうと思う」と言った。
それで矢河枝比売は、このことを詳しく父に話した。
この父は「その方は天皇でいらっしゃる。恐れ多いことだ。我が子よ。お仕え申し上げなさい」と言って、その家を厳かに飾って待った。
翌日行幸した。
それで食事を差し出すときに、女の矢河枝比売に酒盞(さかずき)を持たせて酒を献上させた。
天皇はその大酒盞を持たせたままで歌を詠んだ。
許能迦邇夜 伊豆久能迦邇 毛毛豆多布 都奴賀能迦邇 余許佐良布 伊豆久邇伊多? 伊知遲志麻
このかにや いづくのかに ももづたふ つぬがのかに よこさらふ いづくにいたる いちぢしま
美志麻邇斗岐 美本杼理能 迦豆伎伊岐豆岐 志那陀由布 佐佐那美遲袁 須久須久登
みしまにとき みほどりの かずきいきづき しなだゆふ ささなみぢを すくすくと
和賀伊麻勢婆夜 許波多能美知邇 阿波志斯袁登賣 宇斯呂傳波 袁陀弖呂迦母 波那美波
わがいませばや こはたのみちに あはししをとめ うしろでは をだてろかも はなみは
志比比斯那須 伊知韋能 和邇佐能邇袁 波都邇波 波陀阿可良氣美 志波邇波
しひひしなす いちゐの わにさのにを はつには はだあからめに しはには
邇具漏岐由惠 美都具理能 曾能那迦都爾袁 加夫都久 麻肥邇波阿弖受 麻用賀岐許邇加岐多禮
にぐろきゆえ みつぐりの そのなかつにを かぶつく まひにはあてず まよがきこにかきたれ
阿波志斯袁美那 迦母賀登 和賀美斯古良 迦久母賀登
あはししをみな かもがと わがみしこら かくもがと
阿賀美斯古邇 宇多氣陀邇 牟迦比袁?迦母 伊蘇比袁?迦母
あがみしこに うたけだに むかひをるかも いそひをるかも
こうして結婚して生まれた御子が宇遅能和紀郎子である。
【古事記 中巻 応神天皇段】
矢田皇女
八田皇女(やたのひめみこ/やたのおうじょ、生没年不詳)は、第16代仁徳天皇の皇后。
『日本書紀』では「八田皇女」「矢田皇女」、『古事記』では「八田若郎女(やたのわきいらつめ)」と表記される。
第15代応神天皇と和珥臣祖の日触使主(ひふれのおみ、比布礼能意富美)の女の宮主宅媛(みやぬしやかひめ、宮主矢河枝比売)との間に生まれた皇女である。
同母兄妹として
菟道稚郎子皇子皇子、雌鳥皇女がいる。
夫は仁徳天皇で、異母兄にあたる。子女はいない。
なお『
先代旧事本紀』では、母は物部多遅摩連の女の山無媛とする。
...
『日本書紀』によれば、応神天皇の崩御後、大鷦鷯尊(仁徳天皇)と菟道稚郎子皇子は皇位を譲り合っていたが、空位のまま3年が経ち、菟道稚郎子皇子は自らの命を断った。
その際、大鷦鷯尊に妹の八田皇女を後宮に納れるよう遺言した。
大鷦鷯尊は即位して仁徳2年に磐之媛命を皇后に立てるが、
磐之媛命は嫉妬深い女性であり、
仁徳天皇(大鷦鷯尊)が八田皇女を妃とすることを許さなかった。
しかし天皇は仁徳30年に皇后の留守中に宮中へ納れ、怒った皇后は帰ることなく仁徳35年に筒城宮で亡くなった。
そして天皇は仁徳38年に八田皇女を皇后に立てたという。
その後、仁徳40年に皇后の同母妹の雌鳥皇女を妃としようとしたが、隼別皇子が皇女と通じてしまう。
天皇は皇后の言を尊重して罰しなかったが、謀反の心があるとして殺された。
この時皇后の願いにより皇女の足玉手玉は奪わぬよう追手に命じるが、その禁は破られる。
皇后の告発により、その犯人は私地を献じて死を免れたという。
『古事記』でも概ね同様の所伝を記すが、菟道稚郎子皇子の自殺や遺言の話はなく、大后(皇后)になったことも明記されてはいない。
雌鳥皇女
雌鳥皇女(めとりのひめみこ)は、『記紀』に伝えられる古墳時代(5世紀頃)の皇族(王族)。
応神天皇の皇女。母は宮主宅媛(みやぬしやかひめ)。
菟道稚郎子皇子皇子・八田皇女の同母妹。『古事記』では女鳥王と記される。
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『日本書紀』巻第十一によると、仁徳天皇は継室矢田皇女の妹で、異母妹である雌鳥皇女を妃にしようとして、媒酌人として二人にとって異母兄弟に当たる隼別皇子(はやぶさわけ の みこ)を遣わした(古事記では、八田若郎女は妃で、皇后は石之日売命(いわのひめ の みこと)のままである)。
しかし、隼別皇子は、密かに彼女を妻にして命令に背いた。
『古事記』では仁徳天皇の皇后の嫉妬を恐れた皇女が、以下のように発言して、自らすすんで速総別命(はやぶさわけ の みこと)の妻になったとする。
大后(おほきさき)の強(おず)きに因りて八田若郎女(やた の わきいらつめ)を治め賜はず、故(かれ)、仕へ奉(まつ)らじと思ふ。吾(あ)は汝命(いましみこと)の女(め)に為らむ
(荻原康男:訳)。
皇后のご気性が激しいので、天皇は八田若郎女を妃にお迎えになりません。
ですから私もお仕えはいたしますまいと思います。
私はあなたさまの妻になりましょう
何も知らなかった天皇は雌鳥皇女の寝所へ行ったが、皇女に仕える機織女らの歌を聴き(『古事記』では門の外の敷居に坐って、互いに歌を交わした結果)真相を知り恨んだが、皇后に気兼ねし、また兄弟としての交情を思い(二人の気持ちを慮って)一旦はこれを許した。
しかし、二人は慢心して、「鷦鷯(さざき)と隼(はやぶさ)とどちらが速いか」と皇子が尋ねた際に、皇女は「隼の方が速い」と答えた。
『古事記』では、以下の歌を女鳥王が詠んだことになっている。
雲雀(ひばり)は 天に翔(かけ)る 高行くや 速総別 鷦鷯取らさね
『書紀』によると、隼別皇子の舎人たちはこう詠んだという。
隼は 天に上(のぼ)り 飛び翔(かけ)り 斎(いつき)が上の 鷦鷯取らさね
これらの言葉は、暗に大鷦鷯尊である天皇よりも、隼別の方が魅力的で能力面でも優れている、と天皇を誹謗したものである。
このことで、天皇は激怒し、私情を国事に及ぼさぬようにしてきた鬱憤を爆発させ、また二人が自分に対して謀反を起こそうとしていると知り、二人を殺そうと思った。
隼別皇子が(罪を逃れるべく)伊勢神宮に雌鳥皇女ともども参拝しようとしているのを、天皇は自分たちから逃げたと解釈して、追っ手として、吉備品遅部雄鯽(きび の ほむちべ の おふな)・播磨佐伯直阿俄能胡(はりま の さえき の あたい あがのこ)らの軍兵を差し向けたという。
このときに八田皇后は、「雌鳥皇女は重い罪を犯したが、だからといって装飾品をとりあげるなど、辱めるようなことはしないで欲しい」と申し上げたので、天皇はその命令を雄鯽らに伝えた。
叛逆罪で逃亡した二人は、菟田の素珥山(そにのやま、現在の宇陀郡室生村の曽爾)を越えて(『古事記』では倉椅山(くらはしやま)、現在の桜井市倉橋にある音羽山)に登って歌を詠んだ。しかし、逃げ切ることは叶わず、伊勢国の蒋代野(こもしろのの)、『古事記』では宇陀の蘇邇(そに)で追いつかれて殺されてしまった。
このときに、雄鯽らは皇女の死骸の裳の中から玉を見つけた。
『古事記』では将軍の山部大楯連(やまべ の おおたて の むらじ)が女鳥王の手に巻いてある玉釧を着服して、妻に与えたことになっている。
その後、新嘗祭のあった月(11月)に、豊明節会(とよのあかりのせちえ)の宴会が開かれ、酒を五位以上の女たちに賜った。
その際に、近江山君稚守山(おうみのやま の きみ わかもりやま)の妻と采女の磐坂媛(いわさか の ひめ)の手に雌鳥皇女の所有物だった珠があった。
二人を詰問したところ、佐伯直阿俄能胡の妻から貰ったことが判明した。
阿俄能湖は自白し、殺されるところだったが、自分の土地を献上して、赦免された。
その土地は、玉代(たまて)と呼ばれた。
『古事記』では温情措置は行われず、自分の主君筋の人間の手が(死んで間もない)温かいうちに剥ぎ取るとは言語道断だとして、大楯は死刑に処せられた。
稚野毛二派皇子
稚野毛二派皇子
わかぬけふたまたのみこ
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配偶者 | : | 記載なし《紀》 |
| | 百師木伊呂弁《記》 |
| | 母々恩己麻和加中比売『上宮記』 |
子女 | : | 忍坂大中姫命《紀》 |
| | 大郎子ら7子《記》 |
| | 大郎子ら4子『上宮記』 |
父親 | : | 応神天皇 |
母親 | : | 宮主宅媛 |
| | 弟姫《紀》 |
| | 息長真若中比売《記》 |
| | 弟比売麻和加『上宮記』 |
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稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ/わかぬけふたまたのおうじ)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。
『日本書紀』では「稚野毛二派皇子」のほか「稚渟毛二岐皇子」、『古事記』では「若沼毛二俣王」・「若野毛二俣王」、他文献では「稚渟毛二俣王」・「稚渟毛二派王」・「稚沼毛二俣命」などとも表記される。
『日本書紀』『古事記』とも事績の記載はない。
第15代応神天皇の第五皇子。第16代仁徳天皇の弟、第20代安康天皇と第21代雄略天皇の外祖父(母方の祖父)、さらに第26代継体天皇の高祖父とされる人物である。
今日の皇室は、稚野毛二派皇子の男系子孫にあたる。
妃
事代主
事代主神、事代主命
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神祇 | : | 国津神 |
別称 | : | 恵比寿大神 |
父親 | : | 大国主神 |
母親 | : | 神屋楯比売命(『古事記』) |
| | 高津姫神(『先代旧事本紀』) |
配偶者 | : | 玉櫛媛、阿波咩命 等 |
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高城入姫命、
仲姫命、
弟姫命は同母3姉妹であり、いずれも応神天皇の皇后・妃となっている。
宮
『日本書紀』では即位後の遷都記事がなく、
神功皇后の磐余若桜宮をそのまま使っていたことになる。
行宮としては難波大隅宮(なにわのおおすみのみや。現在の大阪市東淀川区大隅、一説に同市中央区)がある。
崩御した地は大隅宮とも明宮ともされる。
『古事記』では軽島之明宮を皇居としている。
現在は応神天皇の皇居として軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや、現在の奈良県橿原市大軽町)が比定されている。
陵・霊廟
陵(みささぎ)の名は惠我藻伏崗陵(恵我藻伏岡陵:えがのもふしのおかのみささぎ)。宮内庁により大阪府羽曳野市誉田6丁目にある遺跡名「誉田御廟山古墳」に治定されている。
墳丘長約420メートルの前方後円墳である。
宮内庁上の形式は前方後円。
『
日本書紀』には陵名の記載はないが、
雄略紀に「蓬蔂丘(いちびこのおか)の誉田陵」とある。
『
古事記』には「御陵は川内の恵賀(えが)の裳伏(もふし)岡にあり」とある。
『
延喜式(諸陵寮)』には「惠我藻伏崗山陵」として「兆域東西五町、南北五町、陵戸二烟、守戸三烟」と見える。
誉田御廟山古墳は大仙陵古墳(仁徳天皇陵)に次ぐ(第2位の規模)
5世紀初造営ともいわれる大前方後円墳である。
ただし考古学の絶対年代はよほど強力な史料などが出ない限り、常に浮動的であることに注意する必要がある。
西暦2011年宮内庁により考古学者らの立ち入り調査が認められた。
上記とは別に、
大阪府堺市北区百舌鳥本町にある遺跡名「御廟山古墳」が宮内庁により百舌鳥陵墓参考地(もずりょうぼさんこうち)として治定されており、
応神天皇が被葬候補者に想定されている。
また皇居では、
皇霊殿(宮中三殿の一つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
伝承
※ 史料は、特記のない限り『日本書紀』に拠る[5]。
誕生
応神天皇こと
誉田別尊の誕生は神秘に彩られている。
出生前の西暦199年(仲哀天皇8年)、
母の気長足姫(神功皇后)は筑紫橿日宮で神託を行い「海を渡り金銀財宝のある新羅を攻めるべし」という託宣を受けた。
父・仲哀天皇はこれに背いたため天神地祇は皇后のお腹の中にいた皇子に三韓を与えることにした。
まもなく父・仲哀天皇は死去し、
神功皇后は託宣を現実のものとするため新羅遠征を行い成功させた。
神功皇后は遠征と出産が重ならぬよう月延石や鎮懐石と呼ばれる石をお腹に当てて出産を遅らせた。
父帝が崩御してちょうど十月十日後に筑紫で誕生した皇子は誉田別尊(ほむたわけのみこと)と名付けられた。その腕の肉が弓具の鞆(ほむた)のように盛り上がっていた事に由来し「ほむた」の音に「譽田」の字をあてたものだという。母の神功皇后の胎内にあったときから皇位に就く宿命にあったので「胎中天皇」とも称された。
誉田別尊を君主と認めない異母兄の?坂王・忍熊王の策謀は皇后と武内宿禰らに平定され、皇太后となった母の摂政のもと誉田別尊は三歳(計算上は四歳)で太子となった。71歳での即位まで母の神功皇后が摂政したという。そうであれば西暦367年-437年は天皇不在となる(神功皇后は女帝と認められていないため)。
氣比神宮参詣
神功皇后摂政13年2月8日、14歳の
誉田別尊は武内宿禰に連れられ禊のため
角鹿(敦賀)の笥飯大神に参詣した。
角鹿は父帝が
笥飯宮を設け母后が熊襲征伐と
新羅遠征へ出発した地であり、太子の
角鹿参詣によって一連の出征が終わったと解釈できる。このとき太子の
誉田別尊と大神の去来紗別尊(いざさわけのみこと)が互いの名を交換したという説話がある。『書紀』は分注に一伝として「
誉田別尊の元の名は去来紗別尊といい氣比神宮の笥飯大神と名前を交換して
誉田別尊の名を得たのであろうが、他に所見なく未詳」としている。『古事記』でも同様の説話があるが、さらにその続きとして「魚(な)と名(な)の交換」の説話がある。「名の交換」とはこれの誤伝とする説が有力である。詳しくは「氣比神宮」参照。17日、太子が
角鹿から戻ると母后は大殿で宴を開き、祝いの酒を飲み交わして歌を詠んだ。
此の酒は 我が御酒ならず 神酒の神
常世に坐す いはたたす 少名御神の 豊寿ぎ 寿ぎもとほし 神寿ぎ 寿ぎくるほし 祭り来し 御酒ぞ 乾さず 飮せ 酒
これに対し武内宿禰が太子に代わって返歌をした。
此の御酒を 釀みけむ人は 其の鼓 臼に立てて 歌ひつつ 釀みけめかも 此の御酒の あやに 歌樂し 酒
考証
信仰
誉田別尊/誉田別命(ほむたわけのみこと)
応神天皇の諱(いみな)
仲哀天皇の第4子。母は神功皇后。
異母兄の麛坂皇子(かごさかのみこ、香坂王)と忍熊皇子(おしくまのみこ)がいる。
この二人の異母兄は、
正妃(皇后)の子である誉田別尊(応神天皇)の即位を阻もうと兵を起こしたが失敗した。
誉田天皇(ほむたのすめらみこと)
応神天皇の和風諡号。
大濱宿禰(おおはまのすくね)/ 阿曇大浜(あずみのおおはま) 生没年未詳
『日本書紀』などに伝わる古代日本の豪族。
『古事記』には彼に関する記載は存在しない。
発祥の地は『和名類聚抄』によると、
筑前国糟屋郡志珂郷から阿曇郷にかけての一帯(現在の福岡市東区志賀島から糟屋郡新宮町)といわれており、
大和政権に帰属した段階で、
摂津国に拠点を移している。
『古事記』・『日本書紀』の伊邪那岐命の黃泉の国から帰った禊ぎの場面で生まれた綿津見神の神を始祖としている(『日本書紀』一書には伊弉冉神が出産したとなっている)。
『
新撰姓氏録』には、「海神綿積豊玉彦神子穂高見命之後也」と記されている。
葉田葦守宮(はだのあしもりのみや)
応神天皇の行宮。
所在地:岡山県岡山市北区下足守