小窓
市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)

作成日:2023/5/1

市辺押磐皇子
いちのへのおしはのみこ
生年  不詳
没年  西暦456年
      (安康天皇3年10月)
別名  磐坂皇子
      磐坂市辺押羽皇子
      天万国万押磐尊
      市辺之忍歯王/市辺忍歯別王
      市辺天皇命
父親  履中天皇(第1皇子)
母親  葛城黒媛
配偶者 荑媛
子女  居夏姫顕宗天皇
      仁賢天皇飯豊青皇女
      橘王
 
市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)
  ? - 西暦456年安康天皇3年10月)

市辺押磐皇子は、 『記紀』・『風土記』に伝えられる5世紀頃の皇族(王族)。

履中天皇の第1皇子で、 母は葛城葦田宿禰(あしたのすくね)の女・黒媛である。 また、顕宗天皇仁賢天皇飯豊青皇女の父、 安康天皇雄略天皇の従兄弟に当たる。

西暦456年安康天皇3年10月)、 大泊瀬皇子(後の雄略天皇)に殺された。 子の億計弘計針間国へ逃げて身を隠した。

後に清寧天皇に見つけ出されて宮中に迎え入れられ、弟の弘計顕宗天皇に、 兄の億計仁賢天皇として即位した。

概要

市辺押磐皇子は押歯(八重歯)で、 『古事記』では歯の先端が3つに割れていたことから、 この名があるという。

西暦456年安康天皇3年8月)、 安康天皇眉輪王によって暗殺されたが、 安康天皇は生前、 押磐皇子に王位を継承させ後事を託そうとしていた。

かねてからこのことを恨んでいた大泊瀬皇子(後の雄略天皇)は、 10月に押磐皇子を近江の蚊屋野(かやの、現在の滋賀県蒲生郡日野町鎌掛付近か)へ狩猟に誘い出し、 「猪がいる」と偽って皇子を射殺した。 さらに、遺骸を抱いて嘆き悲しんだ舎人(とねり)の佐伯部仲子(さえきべのなかちこ)をも殺して、 皇子とともに同じ穴に埋め、陵を築かせなかったという。

子の億計弘計(後の仁賢・顕宗)兄弟は難が及ぶのを恐れ、 舎人とともに丹波国を経て播磨国赤石に逃れ、 名を隠して縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に仕えた。

西暦482年清寧天皇3年)、 億計弘計兄弟は宮中に迎えられ、 弟の弘計王が即位した(顕宗天皇)。
顕宗天皇は置目老嫗(おきめのおみな)の案内から亡父の遺骨の所在を知り得て、 改めて陵を築いた。
この時、皇子と仲子の遺骨が頭骨を除いて区別出来なかったため、 相似せた2つの陵を造ったとされる。

現在、滋賀県東近江市市辺町に存する円墳2基(古保志塚という)がそれと伝えられ、 宮内庁の管理下にあるが、 かつては同市木村町のケンサイ塚古墳(円墳・消滅)や妙法寺町の熊の森古墳(前方後円墳)を皇子墓に比定する異説もあり、 福井県大飯郡おおい町名田庄挙原にある皇子塚も皇子の墓であるとの地元の伝承がある。

億計皇子(おけのみこ)

仁賢天皇の諱(いみな)。

弘計皇子(顕宗天皇)は同母弟。

弘計皇子(おけのみこ)/

顕宗天皇の諱(いみな)。

億計皇子(仁賢天皇)は同母兄。