市辺押磐皇子は押歯(八重歯)で、 『古事記』では歯の先端が3つに割れていたことから、 この名があるという。
西暦456年(安康天皇3年8月)、 安康天皇が眉輪王によって暗殺されたが、 安康天皇は生前、 押磐皇子に王位を継承させ後事を託そうとしていた。
かねてからこのことを恨んでいた大泊瀬皇子(後の雄略天皇)は、 10月に押磐皇子を近江の蚊屋野(かやの、現在の滋賀県蒲生郡日野町鎌掛付近か)へ狩猟に誘い出し、 「猪がいる」と偽って皇子を射殺した。 さらに、遺骸を抱いて嘆き悲しんだ舎人(とねり)の佐伯部仲子(さえきべのなかちこ)をも殺して、 皇子とともに同じ穴に埋め、陵を築かせなかったという。
子の億計・弘計(後の仁賢・顕宗)兄弟は難が及ぶのを恐れ、 舎人とともに丹波国を経て播磨国赤石に逃れ、 名を隠して縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に仕えた。
西暦482年(清寧天皇3年)、
億計・弘計兄弟は宮中に迎えられ、
弟の弘計王が即位した(顕宗天皇)。
顕宗天皇は置目老嫗(おきめのおみな)の案内から亡父の遺骨の所在を知り得て、
改めて陵を築いた。
この時、皇子と仲子の遺骨が頭骨を除いて区別出来なかったため、
相似せた2つの陵を造ったとされる。
現在、滋賀県東近江市市辺町に存する円墳2基(古保志塚という)がそれと伝えられ、 宮内庁の管理下にあるが、 かつては同市木村町のケンサイ塚古墳(円墳・消滅)や妙法寺町の熊の森古墳(前方後円墳)を皇子墓に比定する異説もあり、 福井県大飯郡おおい町名田庄挙原にある皇子塚も皇子の墓であるとの地元の伝承がある。