『記紀』によれば兄である20代安康天皇の死によって即位し、
反抗的な地方豪族を武力でねじ伏せてヤマト王権の力を飛躍的に拡大させ、
強力な専制君主として君臨したとされる。
『日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なること、
『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭にその名が掲げられていることから、
この天皇の時代が歴史的な画期であったと古代の人々が捉えていたことが窺える。
それまでの倭国は各地の有力豪族による連合体であったが、
雄略の登場により大王による専制支配が確立され、
大王を中心とする中央集権体制が始まったとする見方もある。
埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣や熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳(えたふなやまこふん)出土の銀象嵌鉄刀銘(ぎんぞうがんめいたち)に刻まれた「獲加多支鹵大王」を『記紀』に記された雄略の実名である「ワカタケル」と解し、
実在の証とする説が有力である。
また『宋書』・『梁書』における「倭の五王」中の武にも比定され、
以上のことから5世紀末頃に在位していた天皇と推測されている。
19代允恭天皇の第5皇子として生まれる。
20代安康天皇は同母兄。
『古事記』では、
即位前の雄略天皇に対して「大長谷王」(おおはつせのみこ)という表記が度々見られる。
通常、
即位前の天皇に「命」(みこと)の称号を用いる『古事記』に於いて、
「王」(みこ)の称号が用いられているのは異例である。
『記紀』によれば、 安康天皇3年8月9日、 安康天皇が皇后の中蒂姫命(長田大郎女)の連れ子である眉輪王(『古事記』では7歳とある)により暗殺されたとされる。
ことの起こりは、 安康天皇が叔父の大草香皇子に、 叔母の草香幡梭姫皇女を同母弟である大泊瀬皇子(即位前の雄略天皇)の妃に差し出すよう命じた際に、 仲介役の坂本臣等の祖である根臣が、 大草香皇子の「お受けする」との返答に付けた押木玉鬘(おしきのたまかつら:金銅冠とも)を横取りするために、 安閑天皇に「大草香皇子は拒否した」と偽りの讒言をした。
激怒した安康天皇は大草香皇子を殺害し、
その妃である中蒂姫命(長田大郎女)を奪って自分の皇后とした。
中蒂姫命は大草香皇子との子である眉輪王を連れており、
父を殺されたことに怨みを抱いた眉輪王が睡眠中の安康天皇を殺害した。
事件を知った大泊瀬皇子(即位前の雄略天皇)は兄たちを非難し、
まず八釣白彦皇子を斬り殺し、
次いで坂合黒彦皇子と眉輪王をも殺そうとした。
2人は葛城氏の円大臣の邸に逃げ込んだが、
大泊瀬皇子は3人共に焼き殺してしまう。
さらに従兄弟にあたる市辺押磐皇子(24代仁賢天皇 ・23代顕宗天皇兄弟の父)とその弟の御馬皇子(みまのみこ)をも謀殺し、
混乱に乗じて競争相手を一掃した大泊瀬皇子は11月に大王位に就いた。
平群真鳥を大臣に、
大伴室屋と物部目を大連に任じた大泊瀬幼武大王こと雄略天皇は、
有力豪族を自らの足下に屈服させ、
大王による強力な専制支配を確立しようとした。
かねてより大王家の外戚として権勢を振るってきた葛城氏に対しては、
上述の通り族長の円大臣を眉輪王を匿った廉で共々焼き殺し、
その勢力を政権から駆逐した。
また、
最大の地域豪族であった吉備氏に対しても雄略天皇7年に反乱鎮圧の名目で軍を送り(吉備氏の乱)、
吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)や吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)の「反乱」を討伐して吉備氏を弱体化させた。
後の雄略天皇の死の直後には、
吉備氏の血を引く星川稚宮皇子(母が吉備稚媛)が乱を起こしたが、
大伴室屋らがこれを鎮圧してヤマト王権の優位を決定的にした。
『書紀』には他に、13年8月に播磨国の文石小麻呂を、18年8月に伊勢国の朝日郎を討伐したという記事がある。
考古学的な調査からも、
雄略が在位していたとみられる5世紀末頃より、
地方豪族の首長墓から大型の前方後円墳が姿を消していることが確かめられている。
対外的関係としては、
雄略8年2月に日本府軍が高句麗を破り9年5月には新羅に攻め込んだが、
将軍の紀小弓が戦死してしまい敗走した。
20年には高句麗が倭国と友好関係にあった百済を攻め滅ぼしたが、
翌21年に雄略は任那から久麻那利の地を百済に与えて復興させたとされる。
23年4月に百済の三斤王が亡くなると、
入質していた昆支王の次子未多王に筑紫の兵500人をつけて帰国させて東城王として即位させ、
安致臣・馬飼臣らは水軍を率いて高句麗を討った。
この他、
呉国(宋)から才伎(てひと、手工業者)の漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)らを招来し、
また分散していた秦民(秦氏の後裔)の統率を強化して養蚕業を奨励するなど、
渡来人技術者を重用した。
『書紀』によれば、
独善的だった雄略が例外的に信頼して寵愛したのは史部(書記官)である渡来系の身狭村主青(むさのすぐりあお)と、
檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)であったとされる。
この二人は、8年と12年に大陸への使者として派遣されている。
雄略22年1月1日、白髪皇子(後の22代清寧天皇)を皇太子とし、翌23年8月に病いのため崩御した。
雄略23年を機械的に西暦に換算すると西暦479年となる。
『古事記』では己巳年(西暦489年?)8月9日に享年124歳で崩御したとする。
しかし、『梁書』によると武帝は西暦502年に雄略に比定される倭王武を征東将軍に進号している。
この解釈としては、西暦502年進号は梁の建国に伴う形式的なもので実際の国家間交渉とは関係がなく、
すでに武が死んでいたとしても差し支えはないという見解と、
雄略天皇の実際の没年は『記紀』による年代よりも後であったとする見解、
「雄略天皇=倭王武」の比定が誤っているとする見解の3つの説がある。
政軍共に優れた能力を発揮してヤマト王権の力を拡大させた反面、
気性の激しい暴君的な所業も多く見られた。
大王位に即くために肉親すら容赦なく殺害し、
反抗的な豪族を徹底的に誅伐するなど、
自らの権勢のためには苛烈な行いも躊躇せず、
独善的で誤って人を処刑することも多かったため、
大悪天皇(はなはだあしきすめらみこと)とも誹謗された。
『日本書紀』雄略紀2年10月条には以下のような記述がある。
また、『書紀』5年2月条にはこうした雄略の振る舞いを皇后の草香幡梭姫皇女が窘めたという逸話もある。
猪を射殺せない気弱な舎人を斬り殺そうとした雄略に、
皇后が「今猪を食したいからといって舎人を斬られますのは豺狼と何も違いません」と諌めている。
豺狼を残忍な例えとするのは『後漢書』などの漢籍にも書かれており、
話自体が後世の創作とも考えられるものの、
雄略の性格を表した一節といえる。
武烈天皇紀には「大悪天皇」の語は無いが「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず」とあることから、
両者は同一人物ではないかとの説もある。
一方で、有徳天皇(おむおむしくましますすめらみこと)という異名もある。
『書紀』4年2月条では葛城山で一言主神と邂逅した雄略が神と共に猟を楽しみ、
帰りは来米水(高取川)まで送られた。
その豪胆さに感嘆した百姓達は、口々に「有徳天皇」と讃えたという。
草香幡梭姫皇女を始めとして、
雄略の皇后・妃には実家が誅された後に決められたものが多い。
王権の強化のため、
有力皇族や豪族を征伐したのち、
その残党を納得させてヤマト王権に統合するために妃を取るということであろう。
兄である安康天皇のやり方に倣っただけではなく、
雄略の治世では、
皇族だけでなく有力豪族にも拡大適用してヤマト王権の強化を強行し、
征伐された皇族・豪族からの恨みを買って[要出典]「雄略=暴君」の記述が残されていると思われる。
文飾は『詩経』・『春秋左氏伝』の影響が指摘されている。
文には先祖代々諸国を征服して東西に勢力を拡大し(自昔祖禰,躬?甲冑,跋?山川,不遑寧處。東征毛人五十五國,西服?夷六十六國)、
海を北に渡って朝鮮半島南部にまで至った様子が述べられている(渡平海北九十五國)。
倭王達は皇帝に朝鮮半島南部の軍事的支配権を承認してくれるよう繰り返し要請してきたものの、
武による上申でも百済については認められなかった。
この理由としては、
宋が北魏を牽制するため戦略上の要衝にある百済を重視したこと、
また倭と対立する高句麗の反発を避けようとしたものと考えられる。
『南斉書』・『梁書』においても、
それぞれ南斉・梁の建国時(西暦479年・西暦502年)に武が任官されたことが記されているが、
これらの任官は王朝建国に伴う事務的なものと考えられ、
武自身が要請したものか否かは明らかではない。
武の最後の確実な遣使は西暦478年であり、
史料上確実な倭国の次の遣使は西暦600年・西暦607年の遣隋使まで途絶えることとなる。
ただし
『愛日吟盧書画続録』収録の「諸番職貢図巻」題記の記述から、
南斉への遣使を事実とする説もある。
江田船山古墳鉄剣に刻まれた「治天下大王」の称号に、
中国の冊封体制から離脱した自ら天下を治める独自の国家を志向しようとする意思を読み取る見方もある。
同様に、
稲荷山古墳鉄剣の銘文では中華皇帝の臣下としての「王賜」銘鉄剣の「王」から「大王」への飛躍が認められ、
武の上表文では珍・済の時のように吏僚の任官を求めていない。
実際、西暦478年の遣使を最後として倭王は一世紀近く続いた中国への朝貢を打ち切っている。
雄略天皇は19代允恭天皇の第5皇子。
母は15代応神天皇の孫の忍坂大中姫。
木梨軽皇子や20代安康天皇の同母弟。
皇后の草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)は叔母に当たる。
即位後、
求婚に向かう道の途中で、
志貴県主(参考:志貴県主神社)の館が鰹木を上げて皇居に似ていると難癖をつけて布を掛けた白犬を手に入れ、
それを婚礼のみやげ物にして草香幡梭姫皇女を皇后とした。
また、
吉備稚媛は吉備上道田狭の元妻で、
女房自慢を聞きつけた雄略が田狭を任那国司に飛ばし、
留守の間に奪い盗ってしまっている。
以上のように、雄略はかなり強引にその后妃を集めている。
子の白髪皇子(のちの清寧天皇)が雄略天皇の後を継いだが、
清寧天皇には子がなく、
雄略天皇の血筋は男系では途切てしまった。
しかし、皇女の春日大娘皇女が仁賢天皇の皇后となっており、
その娘の手白香皇女は継体天皇の皇后となって欽明天皇を産んでいることから、
その血筋は女系を通じて現在の皇室まで続いている。
都は、泊瀬朝倉宮。
稲荷山古墳出土金象嵌鉄剣銘に見える「斯鬼宮(しきのみや ・磯城宮)」も朝倉宮を指すと言われる(別に河内の志紀(大阪府八尾市)とする説もある)。
伝承地は奈良県桜井市黒崎(一説に岩坂)だが、
西暦1984年、同市脇本にある脇本遺跡から、
5世紀後半のものと推定される掘立柱穴が発見され、
朝倉宮の跡とされ話題を呼んだ。
これ以降一定期間、初瀬に皇居があったと唱える人もいる。
なお、『日本霊異記』によれば、磐余宮(いわれのみや)にもいたという。
陵(みささぎ)は、
宮内庁により大阪府羽曳野市島泉8丁目にある丹比高鷲原陵に治定されている。
宮内庁上の形式は円丘。
遺跡名は「島泉丸山古墳(高鷲丸山古墳)」・「島泉平塚古墳(高鷲平塚古墳)」で、
直径75メートルの円墳・一辺50メートルの方墳の2基からなる(古墳2基を合わせて治定)。
『古事記』には、
顕宗天皇の父(市辺押磐皇子)の仇討ちをすべく、
意祁命(後の仁賢天皇)が自ら雄略陵の墳丘の一部を破壊したとある。
また『日本書紀』にも、
顕宗が陵を破壊しようとしたが皇太子億計(仁賢)がこれを諌めて思い止まらせたとする。
上記とは別に、
大阪府松原市西大塚にある宮内庁の大塚陵墓参考地(おおつかりょうぼさんこうち)では、
雄略が被葬候補者に想定されている。
遺跡名は「河内大塚山古墳」で、
墳丘長335メートルの前方後円墳である。
ただし埴輪が無い等の特徴から前方後円墳終末期のものである可能性が高く、
そうであれば雄略の崩年と築造年代に数十年の開きがある。
また、 皇居では皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の御霊が祀られている。
雄略天皇の在位について、実態は明らかでない。
なお、
雄略天皇元年は、
『書紀』の年記(安康天皇元年が甲午、清寧天皇元年が庚申等)を基に西暦に換算すると西暦457年となる。
また、
雄略8年(西暦464年)2月に新羅に攻め込んだという記事が、
また、
雄略20年(西暦476年)に高句麗が百済を攻め滅ぼしたという記事が『書紀』にあるが、
前者は『三国史記』新羅本紀の西暦463年(慈悲麻立干6年)2月の記事に、
後者は『三国史記』高句麗本紀・百済本紀の475年(高句麗長壽王63年・百済蓋鹵王21年)9月の記事と対応していると仮定とすると、
『書紀』と『三国史記』とで1年のズレが生じることになる。
仮に『三国史記』が正しいとした場合、
雄略元年は西暦456年になる。
ただし当該の2つの事件について『書紀』と『三国史記』の記述は必ずしも同一事件の別視点からの記録と断定できるほどには似ておらず、
別々の事件である可能性もあり、
その場合はこの比定は無意味である。
また、
武寧王陵から発掘された墓誌から武寧王は西暦462年に生まれたことが確認されたが、これは『書紀』の雄略5年に武寧王が生まれたという記事と対応する。
これを基準に計算すれば雄略元年は西暦458年になるが、
『書紀』の雄略5年という「数字」が恣意的なものでなく古伝承であったという保証はない。