小窓
崇神天皇/崇神天皇(すじんてんのう)

作成日:2019/9/29

《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第10代天皇 崇神天皇/崇神天皇(すじんてんのう)  実在した可能性のある最初の天皇である。

[在位] 紀元前97年崇神天皇元年1月13日) - 紀元前30年崇神天皇68年12月5日)《紀》
[生没] 紀元前148年開化天皇10年) - 紀元前30年崇神天皇68年12月5日) 120歳没《紀》
[次代] 伝承の次代(古墳時代
[先代] 開化天皇   [次代] 垂仁天皇
[和風諡号] 御間城入彦五十瓊殖天皇
[] 御間城入彦五十瓊殖尊
[父親] 開化天皇   [母親] 伊香色謎命
[皇后] 御間城姫
[皇居] 磯城瑞籬宮
[陵墓] 山邊道勾岡上陵
[子女] 垂仁天皇 ほか

年表

天皇の系譜(第10代から第26代)
紀元前148年開化天皇10年)
御間城入彦五十瓊殖尊(のちの崇神天皇)誕生。
紀元前130年開化天皇28年)
(1月)御間城入彦五十瓊殖尊(のちの崇神天皇)皇太子に立てられる。
紀元前97年崇神天皇元年)
(1月)崇神天皇 即位
御間城姫立后
紀元前95年崇神天皇3年)
(9月)磯城瑞籬宮遷都
紀元前93年崇神天皇5年)
疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。
紀元前92年崇神天皇6年)
疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。
紀元前91年崇神天皇7年)
(2月)大物主神が倭迹迹日百襲姫命に託宣。
(8月)倭迹速神浅茅原目妙姫・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の3人がともに同じ託宣を受ける。
(11月)夢の通りに大田田根子を大物主神の神主とし、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神の神主としたところ、疫病は終息し五穀豊穣となる。
紀元前90年崇神天皇8年)
(4月)高橋邑の活日を大神の掌酒にした。
(12月)大物主の祭祀を事視して神酒を捧げる。
紀元前89年崇神天皇9年)
(4月)墨坂神と大坂神を祀る。
紀元前88年崇神天皇10年)
(9月)四道将軍派遣、武埴安彦の叛乱
(10月)畿内は平穏となり、四道将軍が再び出発。
紀元前87年崇神天皇11年)
(4月)四道将軍が戎夷を従わせて帰参、その様を奏上した。
紀元前86年崇神天皇12年)
(9月)戸口を調査し、課役を科す。天下平穏となり、天皇は御肇国天皇と称えられる。
紀元前81年崇神天皇17年)
(10月)献上品を運ばせるための船を作った。
紀元前50年崇神天皇48年)
(4月)活目命(のちの垂仁天皇)を皇太子とした。
紀元前38年崇神天皇60年)
(7月)飯入根(いいいりね)が出雲の神宝を献上。兄の出雲振根が飯入根を謀殺するが皇軍に誅殺される。
紀元前36年崇神天皇62年)
(10月)依網池を造成。
(11月)苅坂池と反折池を造成。
紀元前33年崇神天皇65年)
(7月)任那国が蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わして朝貢した。
紀元前30年崇神天皇68年)
(12月)崇神天皇120歳で崩御。『古事記』では戊寅年12月に享年168才で崩御。
紀元前29年垂仁天皇元年)
(10月)山邊道勾岡上陵に葬られた。
紀元前28年垂仁天皇2年)
蘇那曷叱知が任那に帰国。新羅に下賜品を奪われる。

略歴

開化天皇の第二皇子。
母は伊香色謎命で後の物部氏の系譜に連なる。
異父兄に彦太忍信命(磐之媛の祖)。
異母弟に彦坐王神功皇后の祖)。
19才で皇太子となる。

父帝が崩御した翌年の1月13日に即位。
2月16日に従妹の御間城姫を皇后とし、 活目命(後の垂仁天皇)や倭彦命らを得た。
即位5年から7年にかけて疫病が流行したが、 大物主神を祀ることで治めた。 即位10年、武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)の反乱を鎮め、 四道将軍を各地に派遣した。
即位12年に戸口を調査して初めて課役を科したことで御肇国天皇と称えられている。
即位65年、任那から朝貢があった。
即位68年、崩御。

3世紀後半ごろに実在した大王と推定されるが、定かではない。

漢風諡号である「崇神天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。

事績

疫病と祭祀
即位3年、三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に都を移した。即位4年、詔を発して万世一系を謳った。
即位5年、疫病が流行して人口の半ばが失われた。
祭祀で疫病を治めようとした天皇は翌年に天照大御神と倭大国魂神を宮中の外に出すことにした。

天照大御神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせた。
倭大国魂神は渟名城入媛命に託し長岡岬に祀らせた。
しかし渟名城入媛は身体が痩せ細って倭大国魂神を祀ることが出来なかった。

即位7年、倭迹迹日百襲姫命に大物主神が乗り移って自分を祀るよう託宣した。
続いて倭迹速神浅茅原目妙姫・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の三人がともに同じ夢を見て、 大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子と市磯長尾市にせよという神託を受けた。

そこで大物主神の子とも子孫とも言われる大田田根子が探し出されて大物主神を祭る神主となった。
三輪山を御神体とする大神神社の始まりである。
市磯長尾市(いちしのながおち)も倭大国魂神を祭る神主となった。
すると疫病は終息して五穀豊穣となった。

即位8年、活日(いくひ)という者を大神の掌酒(さかびと)とした。
そして活日が神酒を捧げて歌を詠み、続けて諸大夫(役人)と天皇もそれぞれ歌を詠んだ。
此の神酒は 我が神酒ならず 日本成す 大物主の 釀みし神酒 幾久 幾久(活日)
味酒 三輪の殿の 朝門にも 出でて行かな 三輪の殿門を(諸大夫)
味酒 三輪の殿の 朝門にも 押し開かね 三輪の殿門を(崇神天皇)
四道将軍
即位9年、天皇は神が夢に現れたと称し大和国の東口に座す墨坂神と西口に座す大坂神を盾と矛をもって祀った。
そして即位10年、四道将軍を派遣して全国を教化すると宣言した。
大彦命を北陸道に、 武渟川別を東海道に、 吉備津彦を西道に、丹波道主命丹波(山陰道)に将軍として遣わし従わないものを討伐させることとなった。
しかし北陸へ出発した大彦命和珥坂で現れた不思議な童女から不吉な歌を聴くことになる。
御真木入日子はや 己が命を 殺せむと 竊まく知らに 姫遊すも
大城戸より 窺ひて 殺さむと すらくを知らに 姫遊すも

引き返して報告したところ、 倭迹迹日百襲姫命がさらに詳細な予言を行った。
その結果、武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)が謀反を起こそうとしていることがわかった。
叛乱が露見した武埴安彦は山背から、 妻の吾田媛は大坂からともに都を襲撃しようとした。
天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)を遣わして吾田媛勢を迎え討ち、 一方の武埴安彦勢には大彦命と彦国葺(ひこくにぶく、和珥氏の祖)を差し向かわせて打ち破った。
叛乱終息後に四道将軍は再出発し、翌年に帰還して戎夷を従わせたことを報告した。
また北陸道を進んだ大彦命と東海道を進んだ武渟川別の親子が合流した土地を相津(会津)という。
御肇国天皇
即位12年、戸口を調査して初めて課役を科した。
この偉業をもって御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられている。
『古事記』には天下を統一して平和で人民が豊かで幸せに暮らすことが出来るようになり、 その御世を称えて初めて国を治めた御真木天皇「所知初国之御真木天皇」と謂う、 とある。
即位17年、献上品を運び込むための船を作らせた。
即位48年、豊城命と活目尊を呼んで夢占いを行い弟の活目尊を皇太子とした。
兄の豊城命には東国を治めさせた。
即位62年、 灌漑事業を行って依網池(よさみのいけ、大阪市住吉区)や軽(奈良県高市郡)の酒折(さかをり)池などを開き大いに農業の便を図ったと伝えられる。
即位65年、任那が使者として蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わしてきた。
素戔嗚尊新羅に天降ったという異伝を除けば『日本書紀』において初めての朝鮮半島関連の記録である。
即位68年、崩御。
蘇那曷叱知は活目尊(垂仁天皇)の即位2年に任那へ帰国したが、 その際に天皇からの下賜品を新羅に奪われてしまった。
『日本書紀』における任那新羅の抗争はここから始まる。

親族

祖父:孝元天皇   祖母:欝色謎命
父親:開化天皇   母親:伊香色謎命
皇后:御間城姫(みまきひめ、御真津比売命) - 大彦命(孝元天皇の皇子)女
妃:遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ) - 紀伊国荒河戸畔女
妃:尾張大海媛(おわりのおおあまひめ、意富阿麻比売・葛木高名姫命) - 建宇那比命女(『先代旧事本紀』天孫本紀)

宮(皇居)の名称は、 『日本書紀』では磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)、 『古事記』では師木水垣宮(しきのみずかきのみや)。
伝承地は奈良県桜井市金屋の志貴御県坐神社。

陵・霊廟

陵(みささぎ)の名は山邊道勾岡上陵(山辺道勾岡上陵:やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)。
宮内庁により奈良県天理市柳本町にある遺跡名「行燈山古墳」に治定されている。
墳丘長242メートルの前方後円墳である。
宮内庁上の形式は前方後円。

『古事記』に「山邊道勾(まがり)之岡上」。『延喜式(諸陵寮)』では「山邊道上陵」として兆域は東西2町・南北2町、守戸1烟で遠陵としている。
行燈山古墳は、 形状が帆立貝形古墳(初期の前方後円墳。前方部が小さく造られている)のようになっているが、 これは江戸時代の改修工事によるものとも言われている。
なお行燈山古墳より少し前に造られた西殿塚古墳(前方後円墳、全長220m)を真陵とする考え方もある。
また江戸時代には渋谷向山古墳(現・景行陵)が陵墓とされていた。

また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

伝承

※ 史料は、特記のない限り『日本書紀』に拠る。
箸墓伝説(はしはかでんせつ)
大物主を祀ることで疫病が収まった後、 倭迹々日百襲姫命(やまとととそももそひめ)は大物主神の妻となった。
大物主神は夜しか現れなかったので、 姫はもっとよく御姿を見たいと言った。
そこで大物主神は朝に姫の櫛籠に入るから姿を見ても驚かないでほしいと言った。
果たして姫が箱の中を見てみると綺麗で小さい蛇がいた。姫は驚いて叫んだ。
大物主神は大いに恥じてすぐに人の形に戻り姫を呪った。
大物主神が去った後に姫が腰を抜かして座ったところ、 箸で陰部を突いてしまいそのまま亡くなった。
姫は大市に葬られ墓は箸墓と名付けられた。
この墓は昼は人が作り、夜は神が作ったと言われる。
墓を作るため人々は列を作ってリレー形式で石を運んだと伝えられ、この様子が歌に詠まれた。
大坂に 継ぎ登れる 石群を たごしに越せば 越しがてむかも

なお、倭迹々日百襲姫命は薨去時には少なくとも127才を超える老婆であった。
出雲振根(いずもの ふるね)
崇神天皇は出雲の宮に治められている神宝を見たいと使者を送った。
神宝を管理する出雲振根は筑紫国に行って留守だったが、弟の飯入根が代わりに神宝を献上した。
筑紫から帰ってきた出雲振根はなぜあっさりと神宝を渡してしまったのかと怒った。
年月を経ても出雲振根の怒りは増すばかりだった。
出雲振根は果し合いをするべく飯入根を淵に呼び出した。
出雲振根は「水がきれいだ。まず体を清めよう」と言い、二人は服と刀を脱いで水に入った。
出雲振根は先に上がって密かに作った真剣そっくりの木刀と弟の真剣をすり替えた。
そして果し合いが始まったが飯入根が剣を抜こうとしても抜けない。剣の形をしただけの木なのだから当然である。
出雲振根は容赦なく弟を斬り殺した。
そこで世の人たちは歌を詠んだ。
「や雲立つ 出雲梟帥が 佩ける太刀 黒葛多巻き さ身無しに あはれ」

なお、この話は『古事記』で倭建命が出雲建を討つ話と酷似している。
都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)
都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)とは『日本書紀』で垂仁天皇2年条の分注に記載される人物である。
説話の時期・内容の類似性から上述の蘇那曷叱知と同一視する説がある。
船で穴門から出雲国を経て笥飯浦に来着した都怒我阿羅斯等の額には角が生えていたと言い「角鹿(つぬが)」という地名の語源と言われる(角鹿からのちに敦賀に転訛)。
また垂仁天皇の時の帰国の際、 天皇は阿羅斯等に先帝の名である(御間城<みまき>天皇)の「みまき」を国名にするよう詔し、 これが任那(弥摩那)の語源とされている。

考証

実在性
初代神武天皇とそれに次ぐ欠史八代の天皇達の実在性が希薄であることから、 この崇神天皇をヤマト王権の初の天皇と考える説が存在し、 また『記紀』に記された事績の類似と諡号の共通性(後述)から、 神武天皇と同一人物とする説もある。
井上光貞は御名に後世的な作為が窺えず、 欠史八代と違って旧辞も備わっていることから、 崇神を実在の可能性のある最初の天皇としている。

ただし、 井上は崇神に次ぐ系譜と15代応神天皇以降の系譜との繋がりには懐疑的であり、 直木孝次郎も同様の理由から応神以前に大和地方に存在した別王朝の首長と考えており、 このように後代の天皇達との連続性を疑う「王朝交替説」も存在する。
一方で神武と欠史八代の実在を支持する立場からは、 『日本書紀』の記述では神武の即位後しばらくは畿内周辺の狭い領域の記述しか出てこず、 崇神の代になって初めて他地方にまで渡る記述が出てくること(四道将軍の派遣など)から、 神武から9代開化天皇までは畿内にしか力の及ばなかったヤマト王権が、 崇神の代になって初めて全国規模の政権になったと考える説もある。

『古事記』は崇神の没年を干支により戊寅年と記載しているので(崩年干支または没年干支という)、 これを信用して318年(または258年)没と推測する説も見られる。
258年没説を採った場合、 崇神の治世は中国の文献に記載されている邪馬台国の時代の後半と重なることになる。
崇神をヤマト王権の礎を築いた存在とした場合、 邪馬台国と崇神のかかわりをどう考えるかが問題となってくる。

邪馬台国畿内説からは、 邪馬台国とヤマト王権は同一であるという認識の下、 水野正好は崇神を「卑弥呼の後継の女王であった台与の摂政だった」とする説、 西川寿勝は「『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の男弟だった」という説などを提唱している。

邪馬台国九州説からは、 「北九州にあった邪馬台国はヤマト王権とは別個の国であって、 この邪馬台国を滅ぼしたのが大和地方を統一した崇神天皇である」とする田中卓武光誠などの説や「崇神天皇の同時代に大和に卑弥呼のような女王はいないことからも邪馬台国畿内説は誤りである」とする古田武彦などの説も存在する。
称号
崇神天皇は奈良盆地南東の三輪山麓を根拠地として宗教的・軍事的方法によって国内の統一を進めており、 後世これを「はつくにしらす」と追称しているのは彼が原初的な小国家を統一してヤマト王権を確立したことを示すものと考えられる。
また『日本書紀』における神武天皇の称号『始馭天下之天皇』と崇神天皇の称号である『御肇國天皇』はどちらも「はつくにしらすすめらみこと」と読める。
「初めて国を治めた天皇」と解釈するならば、 初めて国を治めた天皇が二人存在することになる。
これについては、 神武の称号にみえる「天下」という抽象的な語は崇神の称号の「国」という具体的な語より形而上的な概念であるため、 本来は崇神が初代天皇であったが後代になって神武とそれに続く八代の系譜が付け加えられたという考える説がある(『常陸風土記』にも「初國所知美麻貴天皇」とある)。
安本美典は上述の神武と崇神の称号に関する訓み方は鎌倉・室町時代(あるいは平安末期)の訓み方であり、 『書紀』編纂時のものとは異なっていた可能性があると主張している。
どちらも同じ意味であるならばわざわざ漢字の綴りを変える理由が解らず、 また「高天原」などの用語と照応するならば神武の「天下」は「天界の下の地上世界」といったニュアンスと捉えるべきであり、 神武の『始馭天下之天皇』とは「はじめてあまのしたしらすすめらみこと」などと読んで天の下の世界を初めて治めた王朝の創始者と解し、 崇神の『御肇國天皇』はその治世にヤマト王権の支配が初めて全国規模にまで広まったことを称讃したものと解釈すれば上手く説明がつくとしている。

崇神の和風諡号の「みまきいりひこ」と次の垂仁天皇の和風諡号の「いくめいりひこ」は、 共に「いりひこ」(入彦)が共通している。
「いりひこ」・「いりひめ」は当時の大王・王族名に現れる特定呼称である。
「いり」が後世の創作とは考えにくいことから、 これらの大王・王族は実在した可能性が高く、 崇神天皇を始祖とする「イリ王朝」「三輪王朝」説なども提唱されている。
崇神・垂仁の二帝の名は和風諡号ではなく実名(諱)をそのまま『記紀』に記載した、とする説も存在する。

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御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりびこいにえのみこと)

崇神天皇の諱(いみな)。

開化天皇の第2皇子。母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)。