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縄文時代(じょうもん じだい)

作成日:2019/9/25

縄文時代(じょうもん じだい) 期間:紀元前16,000年 - 紀元前1,000年

縄文時代とは、 最古の旧石器時代に続く、 日本列島の歴史における時代区分の一つであり、 弥生時代古墳時代へと続く。
世界史では中石器時代ないしは、新石器時代に相当する時代である。
始期と終期については多くの議論があるが、 まず始期に関しては一般的に16,000±100年前と考えられている。
終期は概ね約3,000年前 とされる(諸説あり)。

旧石器時代と縄文時代の違いは、 土器と弓矢の発明、 定住化と竪穴式住居の普及、 貝塚の形成などが挙げられる。

地質時代区分では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、 終期について地域差が大きいものの、 定型的な水田耕作や金属器の使用を特徴とする弥生文化の登場を契機とする。
その年代については、 紀元前数世紀から紀元前10世紀頃までで、多くの議論がある。

沖縄県では貝塚時代前期に区分される。 次の時代は同地域では貝塚時代後期となり、貝塚文化と呼ばれる。

東北北部から北海道では他地域に弥生文化が登場した後も縄文時代の生活様式が継承されたため、 縄文時代の次の時代を続縄文時代と呼ぶ。

年表

紀元前9050年
富士山(新富士火山)噴火
紀元前7000年
温暖化が進み、海水面は現代とほぼ同じとなる(縄文海進
北海道函館市垣ノ島遺跡の縄文時代早期の土壙墓に世界最古級の漆の装飾品が副葬
新潟県糸魚川市田海大角地遺跡の世界最古級の翡率製の敲石はこの時代のもの
紀元前7000年 - 紀元前6700年頃の神奈川県夏島貝塚で最古の犬の化石
紀元前5300年
鬼界カルデラで巨大噴火が起きた

概要

明治時代に始まる日本の先史時代の研究は、 当初は石器時代という概念で先史時代を捉えており、 その中で縄文土器を使用した時期と、 弥生土器を使用した時期が存在したという叙述が行われていた。

また19世紀中は、 日本列島の先史時代の住民をアイヌコロボックルと考える説も有力であり、 これらの説が退けられたのは西暦1920年代である。
だがこの時期には記紀神話を日本列島の先史時代の歴史とする歴史叙述が力を持ち、 考古学の知見に基づく日本列島の先史時代像が学界を超えて形成され始めたのは第二次世界大戦後となる。

戦後に編纂された歴史教科書では日本列島の先史時代に弥生文化と縄文文化の二つの文化の存在を示していたが、 登呂遺跡岩宿遺跡の発掘など考古学上の大きな事件が続いたことも影響し、 西暦1959年から翌年にかけて日本考古学協会から刊行された『世界考古学大系』1巻および2巻において、 学界における「縄文時代」「弥生時代」の区分が確立された。

縄文時代は、 縄文土器が使用された時代を示す呼称であったが、 次第に生活内容を加えた特徴の説明が為されるようになり、 磨製石器を造る技術、土器の使用、農耕狩猟採集経済、定住化した社会ととらえられるようになった。

縄文時代の主なできごと

時期区分主なできごと

草創期

約1万3千年前
  - 約1万年前
気候 この期の初め頃は日本列島が大陸から離れる直前であったと推測されている。
氷期の気候は、短期間に寒・暖がおこり、厳しい環境変化であった。
温暖化が進行し、氷河が溶けて海水面が上昇し、海が陸地に進入してきた。
「海進」という。
生活 環境の変化に伴い貝類や魚類が新しい食糧資源になった。
狩猟の獲物は、ゾウや野牛の大型哺乳動物からシカやイノシシの中・小哺乳動物に変わっていった。
竪穴住居址からサケの顎骨発見。小型の骨製U字型釣針。
石器 局部磨製石斧が作られる。
槍・弓矢の製作・使用。
土器 豆粒文土器・隆起線文系土器・爪形文系土器・押縄文系土器(多縄文系土器)女性像を線刻した小礫が作られる。
貝塚

早期

約1万年前
  - 6千年前
気候
  • 日本列島が完全に大陸から離れて島国となっていた。
    そして、初めの頃は、現在よりも気温2度ほど低く、海水面も30メートルほど低かった。
    その後、海水面の高さが戻る。
    鬼界カルデラの噴火で西日本一帯に火山灰が積もる。
生活 数個の竪穴住居で一集落を構成する。
組み合わせ式釣り針。
ドングリやクルミなどの堅果類を植林栽培する初歩的農法が確立し、食糧資源となっていた。
狩猟では、大型の哺乳動物に変わって、シカやイノシシなどの中・小型哺乳動物が中心となった。
狩猟道具として弓矢が急速に普及した。
石器 網用の土錘・石錘。ヤス、銛。堅果植物を叩いたり、砕いたり、すり潰したりするための石皿や磨製の石なども使用されていた。
土器 圧煮炊き用の土器の出現が旧石器時代の生活を変えた。
縄文・撚糸文の尖底土器が作られた。
夏島貝塚から撚糸文系土器、貝殻沈線文系土器、貝殻条痕文系土器という早期から終末までの土器が層位的に出土した。
小型の土偶が作られる。
貝塚
  • 貝塚は、この時期の前半には、海が進入して出来た海岸地域に作られていた。
    貝塚はヤマトシジミが主体であった。
    狩猟とともに漁労が活発化した。
    最古級の神奈川県横須賀市夏島貝塚、 千葉県香取郡神崎町の西之城貝塚。
    押型文土器期に属する愛知県知多郡南知多町の先苅貝塚は海面下13メートルの深さから発見された。
    人口2万100人。
    縄文犬を人と一緒に埋葬。
    屈葬

前期

約6千年
  - 5千年前
環境 気候温暖で海面・気温上昇(縄文海進、海水面4 - 5メートル高くなる)のため、 現在の内陸部に貝塚が作られる。
亜熱帯性の常緑広葉樹林、乾季に適応した落葉広葉樹林からなる植物帯の形成。
生活 日本で陸稲稲作が始まっていた。
岡山県総社市の南溝手遺跡で、熱帯ジャポニカのプラント・オパールが見つかっている。
この頃すでに日本で陸稲稲作が始まっていたと思われる。
住居
  • 竪穴住居が広場を囲んで集落を作る。
    湖沼の発達により丸木船が作られる。
    漁労活動開始。
石器
  • 木器・土器・櫛・黒曜石などに漆を塗ることが始まる。
    環状列石が作られる。
土器 この期を境に土器の数量は一気に増加し、形や機能も多様化し、平底土器が一般化する。
土器は羽状縄文を施した繊維土器が盛んに作られる(→関山式、黒浜式)。
遺跡 耳飾り・勾玉・管玉などの装身具が作られる。
立石列環状石籬
貝塚。
人口10万5500人。

中期

約5千年
  - 4千年前
環境
生活 集落の規模が大きくなる。
植林農法の種類もドングリより食べやすいクリに変わり大規模化する。
石器 海岸線は、ほぼ現在に近くなる。
大型貝塚形成。
土器 石棒・土偶などの呪物が盛んに作られる。
石柱祭壇。
抜歯の風習が始まる。
気温低下始める。
立体的文様のある大型土器が流行する。
遺跡 貝塚。
人口26万1300人。

後期

約4千年
  - 3千年前
環境
生活 型貝塚。
内陸地域にも貝塚が出来ていた。
製塩専業集団、 塩媒介集団、塩消費集団。
伸展葬
交易目的の漁労民発生。
石器
土器 村の一角に土器塚が出来る。
土器を使った製塩の痕。
遺跡 ウッドサークル(巨大木柱遺跡)。
敷石住居址。
人口16万300人。

晩期

約3千年
  - 2300年前
環境 気温2度前後低下。
海面も低下。
漁労活動に壊滅的な打撃。
生活 木製の太刀。
頭部外科手術か?
漁労の網。
東北の太平洋側に銛漁開花。
石器 北九州・近畿でも縄文水田。
土器
遺跡 貝塚。
人口7万5800人。

時期区分

縄文土器の多様性は、時代差や地域差を識別する基準として有効である。
土器型式上の区分から、縄文時代は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分けられる。
研究当初は、前・中・後の三期区分だったが、資料の増加や研究の進展によって早期、晩期が加わり、最後に草創期が加えられた。
そうした土器研究上の経緯を反映した時期区分であるため、 中期が縄文時代の中頃というわけでもなく、 生業や文化内容から見た時代区分としても再考の余地があるものの、 慣用化した時期区分として定着している。

また先に示した土器編年による区分の他、縄文時代を文化形式の側面から見て幾つかの時期に分類する方法も存在している。
縄文時代の文化史的区分については研究者によって幾つかの方法があり、現在のところ学界に定説が確立されているわけではない。
岡村道雄の区分
考古学者の岡村道雄は、 定住化の程度で時期区分すると草創期から早期半ば頃までは、 住居とゴミ捨て場が設置されるが、 住居を持たなかったり、 季節によって移動生活を送るなどの半定住段階であると想定している。
この段階は縄文時代の約半分の時間に相当する。
次いで早期末から 前期初頭には、 定住が確立し集落の周りに貝塚が形成され、 大規模な捨て場が形成される。
中期後半には、 東日本では地域色が顕著になるとともに、 大規模な集落が出現して遺跡数もピークに達する。
一方西日本では遺跡数が少なく定住生活が前期には既に後退している可能性すらある。
後期になると東北から中部山岳地帯の遺跡は、 少数で小規模になり分散する。
関東は大規模貝塚を営み、 西日本も徐々に定住生活が復活する。
後期後半には近畿から九州まで定住集落が散見されるようになる。
この傾向は晩期前半まで続き、 後半はさらに定住化が進み、 瀬戸内地方から九州北部は水田稲作農耕を導入後、弥生時代早期へと移ってゆく。
佐々木高明による区分
文化人類学者の佐々木高明は縄文土器編年区分のうち、 草創期を旧石器時代から新石器時代への移行期として縄文I期、 土器編年の縄文早期を縄文文化が完成に向かう時期として縄文II期、 土器編年の縄文前期から晩期までを完成した縄文文化が保持された時期として縄文III期に分類した。
泉拓良による区分
泉拓良も佐々木高明による区分に近く、縄文草創期を「模索期」、縄文早期を「実験期」、縄文前期から晩期までを「安定期」としている。

旧石器時代から縄文時代へ

最終氷期の約2万年前の最盛期が過ぎると地球規模で温暖化に向かった。
最後の氷期である晩氷期と呼ばれる約1万3000年前から1万年前の気候は、 数百年で寒冷期と温暖期が入れ替わるほどで、 急激な厳しい環境変化が短期間のうちに起こった。

それまでは、 針葉樹林が列島を覆っていたが、 西南日本から太平洋沿岸伝いに落葉広葉樹林が増加し拡がっていき、 北海道を除いて列島の多くが落葉広葉樹林と照葉樹林で覆われた。
コナラ亜属やブナ属、クリ属など堅果類が繁茂するようになった。
北海道はツンドラが内陸中央部の山地まで後退し、 亜寒帯針葉樹林が進出してきた。

そして、 日本海側と南部の渡島半島では、 針葉樹と広葉樹の混合林が共存するようになる。

また、 温暖化による植生の変化は、 マンモスやトナカイ、 あるいはナウマンゾウやオオツノジカなどの大型哺乳動物の生息環境を悪化させ、 約1万年前までには、 日本列島からこれらの大型哺乳動物がほぼ絶滅してしまった。

この草創期の特徴は以下のように指摘されている。

縄文時代早期

日本列島の旧石器時代の人々は、 大型哺乳動物(ヘラジカ、ヤギュウ、オーロックス、ナウマンゾウ、オオツノシカなど)や中・小型哺乳動物(ニホンジカ、イノシシ、アナグマ、ノウサギなど)を狩猟対象としていた。
大型の哺乳動物は季節によって広範囲に移動を繰り返すので、 それを追って旧石器時代人もキャンプ生活を営みながら、 頻繁に移動を繰り返していた。
キル・サイトやブロック、礫群、炭の粒の集中するところなどは日本列島内で数千ヶ所も発見されているが、竪穴住居などの施設を伴う遺跡はほとんど発見されていない。

旧石器時代の人々は、更新世の末まで、キャンプ生活・遊動生活を営みながら頻繁に移動生活を繰り返してきた。
旧石器時代から縄文時代への移行期である草創期には一時的に特定の場所で生活する半定住生活を送るようになっていた。
縄文早期になると定住生活が出現する。
鹿児島市にある加栗山遺跡(縄文時代早期初頭)では、 16棟の竪穴住居跡、33基の煙道つき炉穴、17基の集石などが検出されている。
この遺跡は草創期の掃除山遺跡や前田遺跡の場合と違って、 竪穴住居跡の数の大幅な増加、住居の拡張、重複した住居跡、これらの住居跡やその他の遺構が中央広場を囲むように配置されている。

加栗山遺跡とほぼ同時期の鹿児島県霧島市にある上野原遺跡では46棟の竪穴住居をはじめ多数の遺構が検出されている。
このうち13棟は、桜島起源の火山灰P-13に覆われていることから、同じ時に存在したものと推定できる。
この13棟は半環状に配置されていることから、早期初頭には、既に相当な規模の定住集落を形成していたと推定される[誰によって?]。

縄文早期前半には、関東地方に竪穴住居がもっとも顕著に普及する。
現在まで、竪穴住居が検出された遺跡は65ヶ所、その数は300棟を超えている。
そのうちで最も規模の大きな東京都府中市武蔵台遺跡では24棟の竪穴住居と多数の土坑が半環状に配置されて検出されている。

南関東や南九州の早期前半の遺跡では、植物質食料調理器具である石皿、磨石、敲石、加熱処理具の土器も大型化、出土個体数も増加する。
定住生活には、植物質食料、特に堅果類が食料の中心になっていたと想像されている。
南関東の定住集落の形成には、植物採集活動だけでなく、漁労活動も重要な役割を果たしていたと考えられている[誰によって?]。

一方、 北に目を転じれば、 北海道函館市中野B遺跡からは縄文早期中頃の500棟以上の竪穴住居跡、 多数の竪穴住居跡、 土壙墓、 落とし穴、 多数の土器、 石皿、 磨石、 敲石、 石錘が出土して、 その数は40万点にも上っている。
津軽海峡に面した台地上に立地するこの遺跡では、漁労活動が盛んに行われ、長期にわたる定住生活を営むことが出来たと考えられる。
また、東海地方の早期の定住集落、静岡県富士宮市若宮遺跡は28棟の竪穴住居をはじめとする多数の遺構群とともに、土器と石器が18,000点ほど出土している。
この遺跡が他の早期の遺跡と大いに違う点は、 狩猟で使用する石鏃2,168点も出土したことである。
富士山麓にあるこの遺跡では、小谷が多く形成され、舌状台地が連続する地形こそ、哺乳動物の生息に適した場であった。
つまり、若宮遺跡では、環境に恵まれ、獲物にも恵まれて定住生活を営む上での条件が揃っていたと推定される[誰によって?]。

移動生活から定住的な生活への変化は、もう一つの大きな変化をもたらした。
その変化はプラント・オパール分析の結果から判明した。
一時的に居住する半定住的な生活の仕方では、周辺地域の開拓までに至らなかったが、定住的な生活をするようになった縄文時代人は居住する周辺の照葉樹林や落葉樹林を切り開いたことにより、そこにクリやクルミなどの二次林(二次植生)の環境を提供することとなった。
定住化によって、縄文人は、集落の周辺に林床植物と呼ばれる、いわゆる下草にも影響を与えた。
ワラビ、ゼンマイ、フキ、クズ、ヤマイモ、ノビルなどの縄文人の主要で安定した食料資源となった有用植物が繁茂しやすい二次林的な環境、つまり雑木林という新しい環境を創造したことになる。
縄文時代の建築材や燃料材はクリが大半であることは遺跡出土の遺物から分かっている。
西暦2013年、福井県鳥浜貝塚から世界最古級(約11000 - 15000年前)の調理土器が発見された。
これにより、サケなどの魚を調理していた可能性が判明した。

縄文文化の歴史的変遷

縄文文化の分布範囲
縄文文化の定義は一様ではないため、縄文文化が地理的にどのような範囲に分布していたかを一義に決定することはできない。
縄文土器の分布を目安とした場合、 北は樺太南部と千島列島、 南は沖縄本島を限界とし、 宮古島や八重山諸島には分布しない(八重山諸島は台湾島の土器と同系統のもの)。すなわち、現在の日本国の国境線とは微妙にズレた範囲が縄文土器の分布域である。
気候の変化と縄文文化の発展
縄文時代は1万年という長い期間にわたり、大規模な気候変動も経験している。
また日本列島は南北に極めて長く、地形も変化に富んでおり、現在と同じように縄文時代においても気候や植生の地域差は大きかった。
結果として、縄文時代の文化形式は歴史的にも地域的にも一様ではなく、多様な形式を持つものとなった。

約2万年前に最終氷期が終わってから6000年前頃までは、地球の気温は徐々に温暖化していった時期である。
この間に日本列島は100m以上もの海面上昇を経験している。
縄文土器編年区分においてはこれは縄文草創期から縄文前期に相当する(13000年前-6000年前)。
また、約6000年前には海面が現在より4m - 5m高く縄文海進と呼ばれており、海岸部の遺跡の分布を考える上で参考になる。

縄文草創期当時の日本列島の植生は冷涼で乾燥した草原が中心であったが、落葉樹の森林も一部で出現していた。
また地学的に見ても、北海道と樺太は繋がっており、津軽海峡は冬には結氷して北海道と現在の本州が繋がっていた。
瀬戸内海はまだ存在しておらず、本州、四国、九州、種子島、屋久島、対馬は一つの大きな島となっていた。
この大きな島と朝鮮半島の間は幅15キロメートル程度の水路であった。
その後、温暖化により海面が上昇した結果、先に述べた対馬・朝鮮半島間の水路の幅が広がって朝鮮海峡となり、対馬暖流が日本海に流れ込むこととなった。
これにより日本列島の日本海側に豪雪地帯が出現し、その豊富な雪解け水によって日本海側にはブナなどの森林が形成されるようになった。

縄文早期には定住集落が登場した他、本格的な漁業の開始、関東における外洋航行の開始など新たな文化要素が付け加わった。
最も古い定住集落が発見されているのが九州南部の上野原遺跡や金峰町の遺跡で、 およそ1万1000年前に季節的な定住が始まり、 1万年ほど前に通年の定住も開始されたと推測されている。
定住が開始された理由としては、 それまで縄文人集団が定住を避けていた理由、 すなわち食料の確保や廃棄物問題、 死生観上の要請などが定住によっても解決出来るようになったためではないかと見られる。
この時期の土器は北東アジア系、華北・華中系、華南系の3系統に分けられており、 分布面から見ると北東アジア系は北海道から東日本に、 華北・華中系は西日本、華南系は南日本から出土している。
植生面から見ると、 縄文早期前半は照葉樹林帯は九州や四国の沿岸部および関東以西の太平洋沿岸部に限られており、 それ以外の地域では落葉樹が優勢であった。

縄文前期から中期にかけては最も典型的な縄文文化が栄えた時期であり、 現在は三内丸山遺跡と呼ばれる場所に起居した縄文人たちが保持していたのも、 主にこの時期の文化形式である。
この時期には日本列島に大きく分けて9つの文化圏が成立していたと考えられている(後述)。
海水面は縄文前期の中頃には現在より3mほど高くなり、気候も現在よりなお温暖であった。
この時期のいわゆる縄文海進によって沿岸部には好漁場が増え、 海産物の入手も容易になったと林謙作は指摘している。
植生面では関ヶ原より西は概ね照葉樹林帯となった。

縄文後期に入ると気温は再び寒冷化に向かい、弥生海退と呼ばれる海水面の低下がおきる。
関東では従来の貝類の好漁場であった干潟が一気に縮小し、貝塚も消えていくこととなった。
一方、西日本や東北では新たに低湿地が増加したため、低湿地に適した文化形式が発達していった。
中部や関東では主に取れる堅果類がクリからトチノキに急激に変化した。
その他にも、青森県の亀ヶ岡石器時代遺跡では花粉の分析により、トチノキからソバへと栽培の中心が変化したことが明らかになっている。
その結果、食料生産も低下し、縄文人の人口も停滞あるいは減少に転じる。
文化圏は9つから4つに集約され、 この4つの文化圏の枠組みは弥生時代にも引き継がれ、 「東日本」・「九州を除く西日本」・「九州」・「沖縄」という現代に至る日本文化の地域的枠組みの基層をなしている。
縄文文化の地域性
縄文文化は日本列島のどの地域でも同質のものだったのではなく、多様な地域性を備えた文化群であったことが指摘されている。
土偶の分布に見る地域性
縄文人が製作した土偶は、 縄文時代の全期間を通して日本列島各地で満遍なく使われていたのではなく、 時期と地域の両面で限定されたものであった。
すなわち、縄文早期の更に前半期に関東地方の東部で集中的に使用された後、縄文中期に土偶の使用は一旦消滅している。
その後、縄文後期の前半に東日本で再び土偶が使用されるようになる。
一方、それまで土偶の使用が見られなかった九州においては、縄文後期になって九州北部および中部で土偶が登場している。

こうした土偶の使用の地域性について藤尾は、 ブナ、ナラ、クリ、トチノキなどの落葉性堅果類を主食とした地域(つまりこれら落葉樹林に覆われていた地域)と、 西日本を中心とした照葉樹林帯との生業形態の差異と関連づけて説明している。
落葉性堅果類、 すなわちクリやいわゆるドングリは秋の一時期に集中的に収穫され、 比較的大きな集落による労働集約的な作業が必要となるため、 土偶を用いた祭祀を行うことで社会集団を統合していたのではないかという考え方である。
縄文時代の文化圏
前述のように、縄文前期には日本列島内に九つの文化圏が成立していたと考えられている。
石狩低地以東の北海道
エゾマツやトドマツといった針葉樹が優勢な地域。
トチノキやクリが分布していない点も他地域との大きな違いである。
トド、アザラシ、オットセイという寒流系の海獣が豊富であり、それらを捕獲する為の回転式離頭銛が発達した。
北海道西南部および東北北部
石狩低地以東と異なり、植生が落葉樹林帯である。
ミズナラ、コナラ、クルミ、クリ、トチノキといった堅果類の採集が盛んに行われた。
回転式離頭銛による海獣捕獲も行われたが、カモシカやイノシシなどの陸上のほ乳類の狩猟も行った点に、石狩以東との違いがある。
東北南部
動物性の食料としては陸上のニホンジカ、イノシシ、海からはカツオ、マグロ、サメ、イルカを主に利用した。
前2者とは異なり、この文化圏の沖合は暖流が優越する為、寒流系の海獣狩猟は行われなかった。
関東
照葉樹林帯の植物性食料と内湾性の漁労がこの文化圏の特徴で、 特に貝塚については日本列島全体の貝塚のうちおよそ6割がこの文化圏のものである。
陸上の動物性食料としてはシカとイノシシが中心。
海からはハマグリ、アサリを採取した他、スズキやクロダイも多く食した。
これらの海産物は内湾で捕獲されるものであり、土器を錘とした網による漁業を行っていた。
北陸
シカ、イノシシ、ツキノワグマが主な狩猟対象であった。
植生は落葉広葉樹(トチノキ、ナラ)で、豪雪地帯である為に家屋は大型化した。
東海・甲信
狩猟対象はシカとイノシシで、植生は落葉広葉樹であるが、ヤマノイモやユリの根なども食用とした。
打製石斧の使用も特徴の一つである。
北陸・近畿・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後
狩猟対象はシカとイノシシで、植生は落葉広葉樹に照葉樹(シイ、カシ)も加わる。
漁業面では切目石錘(石を加工して作った網用の錘)の使用が特徴であるが、 これは関東の土器片による錘の技術が伝播して出現したと考えられている。
九州(豊前・豊後を除く)
狩猟対象はシカとイノシシ。
植生は照葉樹林帯。
最大の特徴は九州島と朝鮮半島の間に広がる多島海を舞台とした外洋性の漁労活動で、 西北九州型結合釣り針や石鋸が特徴的な漁具である。
結合釣り針とは複数の部材を縛り合わせた大型の釣り針で、 同じ発想のものは古代ポリネシアでも用いられていたが、 この文化圏のそれは朝鮮半島東岸のオサンリ型結合釣り針と一部分布域が重なっている。
九州南部は縄文早期末に鬼界カルデラの大噴火があり、ほぼ全滅と考えられる壊滅的な被害を受けた。
トカラ列島以南
植生は照葉樹林帯である。
動物性タンパク質としてはウミガメやジュゴンを食用とする。
珊瑚礁内での漁労も特徴であり、漁具としてはシャコガイやタカラガイなどの貝殻を網漁の錘に用いた。
九州文化圏との交流もあった。
の9つである。

これら9つの文化圏の間の関係であるが、 縄文文化という一つの文化圏内での差異というよりは、 「発展の方向を同じくする別個の地域文化」と見るべきであるとの渡辺誠による指摘がある。
つまり、 これら全ての文化圏のいずれもが共通の、 しかし細部が若干異なる文化要素のセットを保持していたのではなく、 それぞれの文化圏が地域ごとの環境条件に適合した幾つかの文化要素を選択保持しており、 ある文化圏には存在したが別の文化圏には存在しなかった文化要素も当然ながら見られるのである。

縄文後期に入ると、 これら9つの文化圏のうち、 「北海道西南部および東北北部」「東北南部」「関東」「北陸」「東海・甲信」の5つがまとまって単一の文化圏(照葉樹林文化論における「ナラ林文化」)を構成するようになり、 また「北陸・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後」「九州(豊前・豊後を除く)」がまとまって単一の文化圏(照葉樹林文化論における照葉樹林文化)を構成するようになる。
その結果、縄文後期・晩期には文化圏の数は4つに減少する。

勾玉からみる地域交流
遅くとも縄文中期(BC5,000年)頃にはヒスイ製勾玉が作られていたことが判明しており、 特に新潟県糸魚川の「長者ケ原遺跡」からはヒスイ製勾玉とともにヒスイの工房が発見されている。
蛍光X線分析によると青森県の「三内丸山遺跡」や北海道南部で出土されるヒスイは糸魚川産であることが分かっており、 このことから縄文人が広い範囲でお互いに交易をしていたと考えられている。
後年には日本製勾玉は朝鮮半島へも伝播している。

植物栽培

縄文農耕論は、明治時代以来の長い研究史があり、農耕存否の論争は現在も続いている。
縄文時代に植物栽培が行われていたことは確実であると考えられている。
福井県の鳥浜貝塚の前期の層から栽培植物(アズキ、エゴマ、ウリ、ヒョウタン、ゴボウなど。)が、 早期の層からヒョウタンが検出されている。
一方、北部九州の後・晩期遺跡の遺物で焼畑農耕が行われていた可能性が高いと考えられている。
福岡県下の後・晩期遺跡の花粉分析、 熊本市の遺跡でイネ、 オオムギ、 大分県遺跡でイネなどが検出されており、 東日本からも、 同じく後・晩期の10個所を超える遺跡からソバの花粉が検出されている。
これらも焼畑農耕による栽培であると推定されている。

現在ではプラント・オパールの研究により、縄文時代後期から晩期にかけては熱帯ジャポニカの焼畑稲作が行われていたことが判明している。

イネ(Oryza sativa)には、 ジャポニカ(日本型)とインディカ(インド型)などの亜種があり、 ジャポニカはさらに、 温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカ(ジャバニカ米)に分かれる。
温帯ジャポニカは、中国の長江北側から、日本列島というごく限られた地域に水稲農耕と密接に結びついて分布している。
弥生時代以降の水稲も温帯ジャポニカであるとされている。

列島へは、まず熱帯ジャポニカが南西諸島を通って列島に伝播した。
縄文時代のイネは、 炭化米が後期後半の熊本県や鹿児島県の上野原遺跡などから検出されており、 籾跡土器の胎土から検出されたイネのプラント・オパールは、 後期後半の西日本各地の遺跡から発見されている。
熊本県下の上南部(かんなべ)遺跡の土壌と土器胎土からイネのプラント・オパールが見出され、 岡山県総社市の南溝手(みなみみぞて)遺跡で岡山県古代吉備文化財センターが発掘した土器6点の中の4点からイネのプラント・オパールが見出された。
うち2点は、縄文時代後期中頃、およそ3500年前(炭素14年代)に属している。
同センターは、穂を摘み取るのに使われたと推定される石器(穂摘み具)や、打製土掘り具と見られる石器を発見した。

晩期の突帯文土器を伴う岡山市北区津島の津島江道遺跡は水田遺構として最も古いもので、3メートル×5メートル前後の小区画水田である。

このため、後期後半の日本列島でイネが栽培されていたことは間違いない。
ただ、イネが単独で栽培されていたわけでなく、オオムギ、ヒエ、キビ、アワ、ソバなどの雑穀類の栽培やアズキ、大豆なども混作されていた。

遺跡

大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)

大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)は、 秋田県鹿角市十和田大湯字野中堂字万座にある縄文時代後期の大型の配石遺跡。 国の特別史跡に指定されている。
環状石籬(かんじょうせきり)やストーンサークルとも呼ばれる。

西暦1931年(昭和6年)に発見され、 約130メートルの距離をおいて東西に対峙する野中堂環状列石と万座環状列石で構成されている、 縄文時代後期(約4,000年前)の遺跡である。

野中堂環状列石、万座環状列石は、 石を様々な形に組み合わせた配石遺構が二重の環状を形成しているのが特徴。 「日時計状組石」は、各々の環状列石の中心から見て北西側にあり、 外帯と内帯の間に位置している。

野中堂環状列石の規模は最大径44メートル、 万座環状列石は最大径52メートル。 2つの環状列石に使われている川原石の6割は「石英閃緑玢岩」とよばれるもので、 環状列石から約2~4km離れた大湯川から運ばれてきたものであることがわかっていまる。 これまでの発掘調査により、 環状列石を構成する配石遺構は「配石墓」であり、 その集合体である環状列石は「集団墓」である可能性が高いと考えられている。

環状列石隣接地の発掘調査も行われ、 各々の環状列石を取り囲むように掘立柱建物、土坑、貯蔵穴、 遺物集中域(遺物が集中的に発見された場所)が同心円状に広がっていることがわかった。
また、環状列石周辺や台地縁の発掘調査も進んでおり、 万座環状列石の北東・北西側台地縁からは竪穴住居、 北東50メートル地点からは環状配置の掘立柱建物群、 野中堂環状列石南側30メートル地点からは配石遺構群が発見されている。 ...

夏島貝塚

夏島貝塚(なつしまかいづか)は、 神奈川県横須賀市夏島町にある縄文時代早期・初期の貝塚。 第一貝塚と第二貝塚に分かれている。 国の史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されている。
出土した土器は、西暦1959年(昭和34年)に年代測定依頼先のミシガン大学から報告があり、 出土した貝殻の放射性炭素年代測定では、9450±400年前、 木炭では9240±500年前という年代が得られ、 日本最古の土器として注目された。
これはそれまでの考えより縄文時代の開始年代が5000年近く遡ることを意味し、 大きな論争になった。 なお、今日では青森県大平山元I遺跡出土の土器の較正年代が16,500年前と発表され、 縄文時代の開始が一万年を超えることがはっきりしてきている。

夏島第一貝塚は、 3つの貝層が貝殻をほとんど含まない黒土の層をはさんで整然と堆積し、 それぞれの層から縄文早期の土器が出土した。 下の層から順に撚糸文系土器、貝殻沈線文系土器、 貝殻条痕文系土器が出土しており、 これらは早期初頭から終末までの土器である。 特に最下層の褐色土層からは、 厚いところで15センチメートル 、 長さ約2メートル程のヤマトシジミやマガキを主体とした土混じりの貝層(混土貝層)が検出された。 この層の撚糸文系土器は単純な文様で底が尖っており、 特に夏島式土器と呼ばれる。 第二貝塚からは縄文早期後葉の土器が出土している。 ...



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