古くは古事記にて八岐遠呂智の出身地であったり、八千矛神が高志の沼河比売のもとに妻問いに行った神話が記され、出雲国風土記にも所造天下大神が古志の八口を平定した話や、古志人が出雲に来たことが記されている。 古くから交易や交流などはあったもののヤマト王権の勢力が十分に及ばない日本海側の地域であり、紀元前の孝元天皇の第1皇子、四道将軍の大彦命に平定される前の「越」は諸豪族(豪族阿彦など)に支配されていたと推定されている。 『住吉大社神代記』によれば、「田田根足尼命」という神が、「古斯国の君に坐す」兒止移奈比女乃命を娶り、乎川女乃命、馬手乃命、口以乃命を生み、この3人は「古斯乃国君等に在」したという[7]。 『日本書紀』によれば欽明天皇5年(544年)12月、佐渡島に渡来する粛慎人のことが越から朝廷に報告され、その後573年に高麗使人が越の海岸に漂着、船が難破し多数の溺死をみたこと、翌年にも彼らの漂着が報告され、589年になると朝廷は阿倍臣を北陸道に派遣して越など諸国の境界を調べさせている[8]。 孝徳朝(645年~654年)には蝦夷との境界として647年(大化3年)に渟足柵が設けられ「越」の北端となり、その後磐舟柵、初期の出羽柵までと次第に北端は伸びていった[6]。越国守阿倍比羅夫が658年水軍180隻を率いて蝦夷を討ったと伝わるなど、一方の安定した西端と比較し、北端は蝦夷に対する侵略の最前線となった辺境地域であった。 それまで国造などの現地勢力を通じて間接的に支配されていた越国は、大化の改新によりはじめて中央政府から国司が派遣される「国」として成立した[9]。さらに689年?692年(持統3?6年)大宝律令による令制国の設置にともない、都があった近畿に近い地域から順に、越前国、越中国、越後国の3国へと分割された。この後は3国それぞれの歴史を歩むこととなるが、「越州」の呼称は分割後も三国の総称またはそれぞれの国の別称として広く用いられ、3国は越州(えっしゅう)あるいは三越(さんえつ)と呼ばれることがある。さらに、越前国から能登国が、ついで加賀国が分立され、また越後国の出羽郡が出羽国として分離されている。
現在でも北陸地方を中心に「越」「高志」「古志」にちなむ名がみられる。 地名としては新潟県中越地方にあった古志郡や山古志村が挙げられる。また、富山県下新川郡朝日町には古志神社がある。 学校名としてもよく用いられ、新潟市に高志(こうし)中等教育学校、福井市に高志高校、富山県黒部市に高志野中学校がある。 そのほか、コシヒカリ、コシサウルス、越乃寒梅、高志インテックなど。富山市に2012年7月開館した文学館は高志の国文学館と命名された。
越にかかる枕詞は「しなざかる」である。これは、「しな(信濃国)より遠ざかり越にいたる」という意味であると言われる[10]