戦国時代の始期と終期については、いくつかの概念がある。室町時代末期から安土桃山時代にかけて、政権に因む時代区分と平行して「戦国時代」と呼称される。
始期は以下の2つの有力な説がある。 応仁元年(1467年) - 応仁の乱勃発 明応2年(1493年) - 明応の政変 従来は、1467年に始まった応仁の乱を戦国時代の始期とする見解が有力とされていたが、その後の室町幕府は衰退しつつも依然中央政権として機能していた。幕府・守護体制が揺らぎ始めた時期は1490年前後であり、明応の政変により中央政権としての機能が決定的に失われた事が始まりであるとするのが、鈴木良一が提唱して近年に有力になった説である[3]。 終期には以下の3つの有力な説がある。 天正15年(1587年) - 豊臣秀吉が関東・奥羽に惣無事令を発布 天正18年(1590年) - 秀吉が小田原征伐で後北条氏を滅亡させ全国統一の軍事活動が終了 天正19年(1591年) - 九戸政実の乱を鎮圧し奥州仕置が完成 上記の3説の他にも、織田信長が安土へ進出して「天下人」へと飛躍した天正4年(1576年)、あるいはさらに後世に進み、関ヶ原の戦いが起こった慶長5年(1600年)、大坂の陣が終結した慶長20年(1615年 / 元和偃武)、最後の大規模な戦闘である島原の乱が終結した寛永15年(1638年)を終期とする考え方なども存在する。 また、戦国時代と江戸時代の間に位置づけられる安土桃山時代(織豊時代)は、戦国時代の末期として含まれるという見方が多い。安土桃山時代の始期は一般に永禄11年(1568年 / 織田信長の上洛)または元亀4年(1573年 / 信長による足利義昭追放)とされるが、これ以降にも長篠の戦いや小牧・長久手の戦いなど大規模な戦闘が多数あったためである。
戦国時代の始期と終期は地域ごとに異なるとする見解も有力である。この場合、終期は各地域が統一政権の支配下に入った年代を終期とする[4]ため全国一律の終期とほぼ同様になるが、始期は地域ごとに大きく異なっている。 畿内では明応2年(1493年)の明応の政変を戦国時代の始期とし[5]、永禄11年(1568年)の足利義昭と織田信長の上洛を終期とする。 また、関東地方では、享徳3年(1455年)に勃発した享徳の乱によって、利根川を境界に古河公方足利氏と関東管領上杉氏によって東西二分化されて戦国時代が始まり[6]、天正18年(1590年)の豊臣氏による小田原征伐によって戦国時代が終わったとされている。 東北地方では、永享の乱によって陸奥・出羽両国が鎌倉府の支配から離れた永享10年(1438年)が戦国時代の始まりとされ[7]、豊臣氏による天正18年(1590年)の奥羽仕置が戦国時代の終焉とされている。 一方で、中国・四国・九州の西国地域のように具体的な始期を検出できない地域も存在する[8]。
慢性的な紛争状態が続いた時代だが、 毎日が戦争状態にあったわけではない。 室町幕府によって保証されていた古い権威が否定され、 守護の支配下にあった者や新興の実力者などが新しい権力階級にのし上がり領国を統治していくこととなった。 中には家臣が盟主を追放して下剋上により地位を手に入れた者もおり、 様々な経歴の戦国大名が登場する。 畿内中央から、 全国各地の地域に及ぶそれぞれの実力者同士の利害衝突に端を発する衝突が広く日本各地で行われ、 旧来の上位権力による制御が困難となった。 このような永続的な衝突を可能にする背景は貨幣経済の浸透と充実により国衙や荘園の統治機構や畿内中央の首都経済の需要のみには依存しない地域経済が急速に質量ともに発達していき、 それまでの無名の庶民が様々な形で成功を収めることができる経済成長期であったことにあり、 在地の経済や文化の発展が時代を支えていた。 社会構造が急速かつ大幅に変質していき、 従前の社会体制の荘園公領制を支えていた職の体系が崩壊すると、 それに伴って荘園公領制もこの時期にほぼ形骸化した。 経済の急成長に伴い大量に発生した新興地主や新興商人が紛争の絶えない時代に開墾や内外の通商を通じて発展して貨幣経済をさらに拡大する中で自らの実力にふさわしい発言力を社会に対して要求した時代でもあった(豊臣秀吉は「針売り」が出世の始めという伝説がある)。 こうした経済発展と頻発する武力紛争に対応して都市部では町、 農村部などでは惣村という重武装した新興の自治共同体が、 それぞれ町人身分と百姓身分の一揆契約に基づく団体として自生・発展を続け、 武家領主たちの統治単位も旧来の国衙領や荘園を単位にしたものから、 これらの町村へと移行する。 戦国大名の領国もこの町村を背景にしたものとして組織されたものであり、 後の幕藩体制や近代の地方自治体もこの時誕生した町村を基盤とすることとなる。