終期は
後醍醐天皇の命により、
新田義貞によって鎌倉幕府が滅ぼされた西暦1333年を終期とする。
鎌倉時代は武士が政権を獲得した時代と一般には認識されているが、
依然として京都は鎌倉を凌ぐ経済の中心地であり、
朝廷や公家、寺社の勢力も強力だった。
武家と公家・寺家は支配者としての共通面、相互補完的な側面、対立する面があった。
よって朝廷の支配との二元的支配から承久の乱を通して、
次第に幕府を中心とする武士に実権が移っていった時代とみるのが適切であろう。
鎌倉幕府は当初、
将軍(実際には「鎌倉殿」。征夷大将軍職は必須ではない)を中心としていた。
源氏(河内源氏の源頼朝系)直系の将軍は3代で絶え、
将軍は公家(摂家将軍)、
後には皇族(皇族将軍)を置く傀儡の座となり、
実権は将軍から、
十三人の合議制へ移る。
さらに和田合戦、宝治合戦、平禅門の乱などにより北条氏以外の他氏族を幕府から排除すると、
権力を北条氏に集中させる動きも強まった。
そうして実権は、
頼朝の妻である北条政子を経て、
執権であった北条氏へ移っていった。
更に執権北条時頼が執権引退後も執政を行ったことから、
幕府権力は執権の地位よりも北条泰時を祖とする北条氏本家(得宗家)に集中するようになり、
執権在職者も幕府最高権力者というわけではなく、
宮騒動、二月騒動などで得宗家に反抗する名越北条家などの傍流や御家人は排除された(得宗専制)。
北条氏の功績としては御成敗式目の制定が挙げられる。
これは今までの公家法からの武家社会の離脱であり、
法制上も公武が分離したことを示す。
先の北条氏による他氏排斥に伴い、
諸国の守護職などは大半が北条氏に占められるようになり、
さらに北条氏の家臣である御内人が厚遇され、
御家人や地方の武士たちの不満を招くことになった。
執権北条時宗の代に2度に渡る元寇があり、
鎌倉幕府はこれを撃退したが、
他国との戦役であり新たに領土を得たわけではなかったため、
十分な恩賞を与えることができず、
これもまた武士たちの不満を強めさせた。
北条貞時の代になると御内人の権力は増長し、
得宗の権威すら凌ぐようになり、
貞時は平禅門の乱で平頼綱を討ち得宗へ権力を戻そうとするも、
末期には政治への無関心から再び御内人が実権を握った。
また、貨幣経済が浸透して、市場がある市場町が誕生した。
多くの御家人が経済的に没落して、
凡下(庶民階級・非御家人層)の商人から借財を重ねた。
西暦1284年に弘安徳政、
さらに西暦1297年に永仁の徳政令を実施して没落する御家人の救済を図ったが、
恩賞不足や商人が御家人への金銭貸し出しを渋るなど、
かえって御家人の不満と混乱を招く結果に終わった。
後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒は、
この武士たちの不満を利用する形で行われることになる。
一般的には、 征夷大将軍の地位は「鎌倉殿(鎌倉幕府の長)の地位を公的に担保するもの」、 と考えられている。
だが征夷大将軍はもとは源頼朝が鎮守府将軍である奥州藤原氏を凌駕する官職として望んだもので、
鎌倉殿の本質的属性ではなかった。
実際、
2代目鎌倉殿となった源頼家が征夷大将軍職に就いたのは家督相続から3年後であり、
源実朝の死後に鎌倉殿となった藤原頼経も征夷大将軍職に就いたのは鎌倉下向から7年後であって(鎌倉幕府公式記録「吾妻鏡」では実朝死去後から北条政子が6年間鎌倉殿だったとしている)、
その間は征夷大将軍職が空席であったが、
「鎌倉殿」であることは変わらず、特に問題とされなかった。
源実朝が暗殺されたあと頼朝の子孫(源氏将軍)が絶え、
京都の朝廷に対抗し、
有力御家人たちを抑えられるだけの高貴な血統の出身者が必要とされたことから、
初めは摂関家の子弟を将軍職に就けたが(摂家将軍)、
北条氏に離反した。
このため、
北条氏は摂家将軍を廃して皇族(宮将軍・親王将軍)を京都から迎え将軍職に就けた。
その結果、
実権が北条氏に握られることとなり、
将軍は名目的存在となったが、
形の上では将軍はあくまでも幕府の長であり、
全ての御家人の主君であることから、
御家人たちに対して一定の求心力を持ち続けた。
これを警戒した北条氏は、 幼少の将軍を迎えては成人すると解任して京都に送還するということを幕末まで繰り返した。
北条氏が幕府内では将軍を遥かに凌駕する権力を握り、
また朝廷に対しては将軍職任命を容易に強要できるだけの実力を持ちながら自らは将軍にならなかったのは、
北条氏を支持する御家人たちが北条氏の将軍職就任を推したが「朝廷が拒絶した」とする説が有力である。
また、
北条氏の出自が一介の地方豪族でしかなかったことから、
仮に将軍職に就いても有力御家人たちの心服を得ることができなかったため、
将軍職就任を断念せざるを得なかった、
とする説も存在する。
代 | 将軍氏名 | 将軍官位 | 在職(自) | 在職(至) | 在職期間 | 享年 | 執権 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 源頼朝 | 正二位 権大納言 |
建久3年7月12日 (西暦1192年) |
建久10年1月13日 (西暦1199年) |
6年 6ケ月 |
53歳 | |
2 | 源頼家 | 正二位 左衛門督 |
建仁2年7月22日 (西暦1202年) |
建仁3年9月7日 (西暦1203年) |
1年 2ケ月 |
23歳 | 北条時政 |
3 | 源実朝 | 正二位 右大臣 |
建仁3年9月7日 (西暦1203年) |
健保7年1月27日 (西暦1219年) |
15年 4ケ月 |
28歳 | 北条義時 |
4 | 藤原頼経 | 正二位 権大納言 |
嘉禄2年1月27日 (西暦1226年) |
寛元2年4月28日 (西暦1244年) |
18年 3ケ月 |
39歳 |
北条義時 北条泰時 北条経時 |
5 | 藤原頼嗣 | 正三位 左近衛中将 |
寛元2年4月28日 (西暦1244年) |
建長4年2月20日 (西暦1252年) |
7年10ケ月 |
18歳 | 北条時頼 |
6 | 宗尊親王 | 一品 中務卿 |
建長4年4月1日 (西暦1252年) |
文永3年7月20日 (西暦1266年) |
14年 3ケ月 |
33歳 |
北条時頼 北条長時 北条政村 |
7 | 惟康親王 | 正二位 中納言右近衛大将 |
文永3年7月24日 (西暦1266年) |
正応2年9月14日 (西暦1289年) |
23年 2ケ月 |
63歳 |
北条時宗 北条貞時 |
8 | 久明親王 | 一品 式部卿 |
正応2年10月9日 (西暦1289年) |
徳治3年8月4日 (西暦1308年) |
18年10ケ月 |
53歳 |
北条貞時 北条師時 |
9 | 守邦親王 | 二品 | 延慶元年8月10日 (西暦1308年) |
元弘3年5月22日 (西暦1333年) |
24年 9ケ月 |
33歳 |
北条師時 北条宗宣 北条煕時 北条基時 北条高時 北条貞顕 北条守時 北条貞将 |