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鎌倉時代(かまくらじだい)

作成日:2019/10/9

鎌倉時代(かまくらじだい)(西暦1185年頃 - 西暦1333年)

日本史で幕府が鎌倉(現神奈川県鎌倉市)に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。
朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこのように呼ぶ。
本格的な武家政権による統治が開始した時代である。

始期については、いくつかの説がある。 西暦1185年が定説となっている。

後醍醐天皇の命により、 新田義貞によって鎌倉幕府が滅ぼされた西暦1333年を終期とする。

年表

西暦1179年(治承3年)
西暦1180年(治承4年)
西暦1181年()
西暦1182年()
西暦1183年(寿永2年)
寿永二年十月宣旨
西暦1185年(文治元年)
11月、文治の勅許に基づき守護・地頭を設置
西暦1189年(文治5年)
奥州合戦
西暦1192年(建久3年)
源頼朝、征夷大将軍任命
西暦1199年(建久10年)
1月、頼朝の死、源頼家が家督を継ぐ
西暦1200年(正治2年)
十三人の合議制開始。梶原景時の変
西暦1201年(建仁元年)
建仁の乱
西暦1202年(建仁2年)
建仁の乱
西暦1203年(建仁3年)
比企能員の変 、頼家が幽閉され源実朝が将軍に就任
西暦1204年(元久元年)
西暦1205年(元久2年)
畠山重忠の乱
西暦1210年(承元4年)
畠山重忠の乱 、牧氏事件
西暦1213年(建暦3年)
西暦1219年(建保7年)
西暦1221年(承久3年)
承久の乱、六波羅探題の設置
西暦1222年(承久4年、貞応元年4月13日 -)
西暦1223年(貞応2年)
西暦1224年(貞応3年、元仁元年11月20日)
西暦1225年(元仁2年、嘉禄元年4月20日 -)
評定衆の設置
西暦1226年(嘉禄2年)
九条頼経が将軍に就任 (摂家将軍の開始)
西暦1227年(嘉禄3年)
西暦1228年(嘉禄3年11月23日 - 12月9日、安貞元年12月10日 - 2年12月4日)
西暦1229年(安貞3年、寛喜元年3月5日 -)
西暦1230年(寛喜2年)
西暦1231年(寛喜3年)
西暦1232年(寛喜4年、貞永元年4月2日 -)
西暦1233年(貞永2年、天福元年4月15日 -)
西暦1235年(文暦2年、嘉禎元年9月19日 -)
西暦1246年(寛元4年)
宮騒動
西暦1247年(寛元5年、宝治元年2月28日 -)
宝治合戦
西暦1249年(建長元年)
引付衆の設置
西暦1252年(建長4年)
将軍頼嗣を京へ送還、宗尊親王が将軍に就任(宮将軍の開始)
西暦1254年(建長6年)
西暦1257年(康元2年、正嘉元年3月14日 -)
西暦1264年(弘長4年、文永元年2月28日 -)
西暦1268年(文永5年)
西暦1271年(文永8年)
西暦1272年(文永9年)
二月騒動
西暦1273年(文永10年)
西暦1274年(文永11年)
文永の役
西暦1275年(文永12年、建治元年4月25日 -)
西暦1279年(弘安2年)
西暦1281年(弘安4年)
弘安の役
西暦1285年(弘安8年)
西暦1293年(正応6年)
鎌倉大地震及び地震の混乱に乗じた平禅門の乱
西暦1297年(永仁5年)
永仁の徳政令
西暦1298年(永仁6年)
西暦1299年(永仁7年、正安元年4月25日 -)
西暦1301年(正安3年)
西暦1305年(嘉元3年)
嘉元の乱
西暦1316年(正和5年)
西暦1317年(文保元年)
文保の和談
西暦1318年(文保2年)
西暦1319年(文保3年、元応元年4月28日 -)
西暦1324年(正中元年)
正中の変
西暦1326年(正中3年→嘉暦元年)
嘉暦の騒動
西暦1328年(嘉暦3年)
西暦1331年(元弘元年、元徳3年)
後醍醐天皇 : 元徳3年、元弘元年8月9日 - 光厳天皇 : 元徳3年9月20日 -
元弘の乱
西暦1333年(元弘3年、正慶2年)
鎌倉幕府滅亡
日本ではこの年に後醍醐天皇が隠岐を脱出し、足利高氏や新田義貞が挙兵して最終的に鎌倉幕府が滅亡に至っており(元弘の乱)、歴史上の大きな転換点となった年である。 4月9日(正慶2年/元弘3年閏2月24日) - 後醍醐天皇が配流先の隠岐を脱出して京へ向かう。 5月11日(正慶2年/元弘3年3月27日) - 名越高家・足利高氏、鎌倉から京都へ向けて出立。 5月30日(正慶2年/元弘3年4月16日) - 足利高氏、京都着。 6月10日(正慶2年/元弘3年4月27日) - 名越高家、赤松則村との合戦で敗死。 6月12日(正慶2年/元弘3年4月29日) - 足利高氏、丹波国篠村八幡宮にて旗揚げ。鎌倉幕府に反旗を翻す。 6月19日(正慶2年/元弘3年5月7日) - 六波羅探題、足利高氏・赤松則村・千種忠顕の軍勢に滅ぼされる。六波羅探題北方北条仲時、光厳天皇を擁して都落ち。 6月20日(正慶2年/元弘3年5月8日) - 新田義貞、上野国新田荘で挙兵。 6月21日(正慶2年/元弘3年5月9日) - 北条仲時、近江国番場(現在の滋賀県米原市番場)蓮華寺で自刃。大仏高直ら、千早城の包囲を解き、奈良興福寺に立てこもる。 6月23日(正慶2年/元弘3年5月11日) - 新田義貞、小手指原で幕府の軍勢を破る。(小手指原の戦い) 6月24日(正慶2年/元弘3年5月12日) - 新田義貞、久米川で幕府の軍勢を破る。(久米川の戦い) 6月27日(正慶2年/元弘3年5月15日) - 新田義貞、分倍河原で北条泰家の軍勢を破る。(分倍河原の戦い) 6月30日(正慶2年/元弘3年5月18日) - 鎌倉攻防戦(鎌倉の戦い)始まる。北条守時、洲崎で自刃。 7月4日(正慶2年/元弘3年5月22日) - 北条高時・金沢貞顕・長崎円喜ら北条一門、鎌倉東勝寺で火を放った後に自刃。鎌倉幕府滅亡。(東勝寺合戦) 7月7日(正慶2年/元弘3年5月25日) - 鎮西探題北条英時、少弐貞経・大友貞宗・島津貞久らに攻められて博多で自刃。 7月8日(元弘3年5月26日) - 長門探題北条時直、降伏。 7月16日(元弘3年6月4日) - 後醍醐天皇、京都東寺に帰還。 8月4日(元弘3年6月23日) - 護良親王、征夷大将軍に任じられる。 9月14日(元弘3年8月5日) - 足利高氏、後醍醐天皇から一字を与えられ、名を尊氏と改める。 元弘3年9月 - 雑訴決断所設置 元弘3年10月 - 天皇側近の北畠親房、親房の子で鎮守府将軍・陸奥守に任命された北畠顕家が義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥国へ派遣されて陸奥将軍府が成立 元弘3年12月 - 足利直義が後醍醐天皇皇子の成良親王を奉じて鎌倉へ派遣され、鎌倉将軍府が成立。
西暦1334年()

始期と終期

始期
始期については、いくつかの説がある。
  • 頼朝が鎌倉に侍所を設置し、東国支配権を樹立した西暦1180年(治承4年)
  • 朝廷から、東国支配権の承認をする寿永二年の宣旨が下された西暦1183年(寿永2年)
  • 公文所及び問注所を開設した西暦1184年(元暦元年)
  • 守護・地頭の任免権を認めた文治の勅許が下された西暦1185年(文治元年)
  • 日本国総守護地頭に任命された西暦1190年(建久元年)
  • 源頼朝が征夷大将軍に任命された西暦1192年(建久3年)
  • 承久の乱に勝利し、後に全国の支配権を得た西暦1221年
西暦2021年時点では、始期は西暦1185年(文治元年)が定説となっている。
21世紀に入って学校教育の場で、 鎌倉幕府の成立年が建久3年(西暦1192年)から文治元年(西暦1185年)に変更されるようになり、 報道の中にはあたかも「新説」が採用されたかのように報じられているものがあるが、 第二次世界大戦前に通説扱いされていたのは文治元年(西暦1185年)説であり、 『大日本史料』や『史料綜覧』も同年以降が「鎌倉幕府の成立=鎌倉時代の始まり」とみなされ、 『平安遺文』と『鎌倉遺文』の区切りも同年が採用されている。
その一方で、 文治の勅許が守護・地頭の任命を許可したものとする見方を否定する研究者もおり、 その立場からは同勅許を前提とした文治元年(西暦1185年)説は成立しないとされている。
同様に他の説に関しても異論が出されている(日本国総守護地頭の実在性など)。
歴史学者の川合康は、 鎌倉幕府は東国における反乱軍勢力から、 朝廷に承認されて平家一門や同族との内乱に勝利して日本全国に勢力を広げ、 やがて鎌倉殿を頂点とした独自の権力機構を確立するまで少なくても3段階の過程を経て成立したもので、 それを特定の1つの時点を切り取って「鎌倉幕府の成立」としてを論じることは困難であると指摘している。
これらの議論を踏まえ、 帝国書院などの検定教科書においては、 鎌倉幕府の成立は段階を踏んで整えられ、 成立年についても「名実ともに『完成した』」という表記を採用している。

終期は
後醍醐天皇の命により、 新田義貞によって鎌倉幕府が滅ぼされた西暦1333年を終期とする。

始期と終期

鎌倉幕府の設立
12世紀末に、 源頼朝が鎌倉殿として武士の頂点に立ち、 全国に守護を置いて、 鎌倉幕府を開いた。
京都の朝廷と地方の荘園・公領はそのままで、 地方支配に地頭等の形で武士が割り込む二元的な支配構造ができあがった。

幕府は頼朝(「鎌倉殿」)の私的家政機関として設立されており、 公的機関ではない。
したがって基本的に鎌倉幕府が支配下に置いたのは鎌倉殿の知行国および主従関係を結んだ武士(御家人)であり、 守護の設置などで諸国の治安維持等を担当したものの、 全国の武士を完全な支配下に治めたわけではない。

平氏政権が朝廷に入り込み、 朝廷を通じて支配を試みたのとは対照的である。

それでも、 元寇以降は全国の武士に軍事動員をかける権限などを手にすると、 全国支配が強化されることとなった。 鎌倉幕府がそれ以前の武家政権である平氏政権と最も異なる点は、 「問注所」と呼ばれる訴訟受付機関を設置したことで、 これまでは地所の支配権をめぐる争いは、 当事者同士の武力闘争に容易に発展していたものを、 これにより実質的に禁止することになった。
武士の、 つまり全国各地の騒乱のほぼ全ての原因が土地支配に関するものであり、 頼朝の新統治理論はこの後永く幕藩体制の根幹を成すものになった。
源頼朝の死
源頼朝の死後、 平氏である北条家が台頭し幕府の実権を掌握。
北条氏による執権制度が創設された。
頼朝の血統が絶えても鎌倉幕府体制は永続するように制度整備がなされ、 その裏打ちとして御成敗式目という初の武家法が制定され、 その後の中世社会の基本法典となった。
また将軍権力は形骸化していく一方で、 北条氏惣領の得宗に権力が集中する得宗専制の体制になっていき、 それに仕える御内人も台頭するようになった。
鎌倉幕府の支配体制
後鳥羽上皇らが政治の実権を取り戻すため起こした承久の乱は、 幕府が朝廷に勝利した。
朝廷に対する幕府の政治的優位性の確立という画期的な事件となった。
これにより、 多くの御家人が西国に恩賞を得、 東国に偏重して西国に弱かった幕府の支配が、 西国にも強く及ぶようになる。

承久の乱後、 幕府は守貞親王(後高倉院)を治天の君に擁立し、 その系統が断絶すると後嵯峨天皇を即位させて朝幕関係の安定化を図った。
朝廷も幕府も社会と自らの政治的基盤の安定を図るために徳政の興行を推進し、 治天の君(上皇)と執権が評定衆を主導して訴訟の解決を図る態勢が構築された。
これは天皇や将軍が直接裁許に加わることで敗訴となった側の怨恨を受け、 特に所領問題の場合には(主君による従者保護の責務に反したとして)敗訴となった側の主従関係の解消につながるような事態を回避するために、 訴訟の解決を図りつつも所領問題から天皇・将軍を切り離すための仕組みであったと考えられている。

経済的には、 地方の在地領主である武士の土地所有が法的に安定したため、 全国的に開墾がすすみ、 質実剛健な鎌倉文化が栄えた。
文化芸術的にもこのような社会情勢を背景に新風が巻き起こり、 それまでの公家社会文化と異なり、 仏教や美術も武士や庶民に分かりやすい新しいものが好まれた。
政局の安定が西日本を中心に商品経済の拡がりをもたらすと、 各地に定期的な市が立つようになった。

土地の相続に関しては分割相続が採用されていたが、 そのため時代を下るごとに御家人の所領は零細化され、 御家人の生活を圧迫することになってしまった。
また鎌倉時代中期から本格的に貨幣経済が浸透し始めたが、 これに順応できない御家人が多く、 生活が逼迫した結果土地を売却する御家人もいた。
救済策として幕府は永仁の徳政令を発布するなどしたが、 成果は得られなかった。
正中の変、元弘の乱
13世紀には、 西暦1274年の文永の役と西暦1281年の弘安の役の二度にわたる元寇があったが、 元の侵攻を撃退した。
これにより「日本は神国」という神国思想の発端となり、 後世に影響を与える事となった。
また「元」の侵攻は阻止したものの、 今までの幕府の戦争と違い、 外国を相手にした防衛戦であったため、 この戦いによって実質的に獲得したものは何も無く、 そのため出征した武士(御家人)への恩賞の支払いが少なかったこともあって、 「いざ鎌倉」といった幕府と御家人との御恩と奉公という信頼関係を損ねる結果となる。

元寇を機に幕府は非御家人を含む日本全国の武士へ軍事動員をかける権限を得たほか、 鎮西探題や長門探題などの出先機関を置き、 西国への支配を強めた。
西国をはじめ、 日本国内を中央集権的に統治しようとする北条氏嫡流家である得宗家が御家人を排除し、 被官である御内人を重用するようになった。
生活に困窮した御家人の不満を幕府は力で抑えたため表面上は幕政は安定したものの、 霜月騒動や平禅門の乱など専制を強める得宗家と御家人の確執は深まり、 安藤氏の乱において御内人が当事者の双方から賄賂を取り立てるなどといった事象を幕政の腐敗と見る向きもあり、 次第に幕府から人心が離れていくようになった。
後に鎌倉幕府が崩壊する一つの要因となったとも言える。

また、 承久の乱以後の朝廷の衰退は皇位継承を巡る自己解決能力をも失わせ、 結果的に幕府を否応無しに巻き込む事になった。
幕府は両統迭立原則によって大覚寺統・持明院統両皇統間における話し合いによる皇位継承を勧めて深入りを避ける方針を採ったが、 結果的に紛糾の長期化による朝廷から幕府に対する新たな介入要請を招き、 その幕府の介入結果に不満を抱く反対派による更なる介入要請が出されるという結果的に幕府の方針と相反した悪循環に陥った。
その結果、 大覚寺統傍流出身の後醍醐天皇直系への皇位継承を認めないという結論に達したとき、 これに反発した後醍醐天皇が、 これを支持する公家と幕府に対して不満を抱く武士達の連携の動きが現れるのを見て、 叛乱を起こす討幕運動へと発展する事になった(正中の変、元弘の乱)。

鎌倉時代の政治

鎌倉時代は武士が政権を獲得した時代と一般には認識されているが、 依然として京都は鎌倉を凌ぐ経済の中心地であり、 朝廷や公家、寺社の勢力も強力だった。
武家と公家・寺家は支配者としての共通面、相互補完的な側面、対立する面があった。
よって朝廷の支配との二元的支配から承久の乱を通して、 次第に幕府を中心とする武士に実権が移っていった時代とみるのが適切であろう。

鎌倉幕府は当初、 将軍(実際には「鎌倉殿」。征夷大将軍職は必須ではない)を中心としていた。
源氏(河内源氏の源頼朝系)直系の将軍は3代で絶え、 将軍は公家(摂家将軍)、 後には皇族(皇族将軍)を置く傀儡の座となり、 実権は将軍から、 十三人の合議制へ移る。
さらに和田合戦、宝治合戦、平禅門の乱などにより北条氏以外の他氏族を幕府から排除すると、 権力を北条氏に集中させる動きも強まった。
そうして実権は、 頼朝の妻である北条政子を経て、 執権であった北条氏へ移っていった。
更に執権北条時頼が執権引退後も執政を行ったことから、 幕府権力は執権の地位よりも北条泰時を祖とする北条氏本家(得宗家)に集中するようになり、 執権在職者も幕府最高権力者というわけではなく、 宮騒動、二月騒動などで得宗家に反抗する名越北条家などの傍流や御家人は排除された(得宗専制)。

北条氏の功績としては御成敗式目の制定が挙げられる。
これは今までの公家法からの武家社会の離脱であり、 法制上も公武が分離したことを示す。
先の北条氏による他氏排斥に伴い、 諸国の守護職などは大半が北条氏に占められるようになり、 さらに北条氏の家臣である御内人が厚遇され、 御家人や地方の武士たちの不満を招くことになった。
執権北条時宗の代に2度に渡る元寇があり、 鎌倉幕府はこれを撃退したが、 他国との戦役であり新たに領土を得たわけではなかったため、 十分な恩賞を与えることができず、 これもまた武士たちの不満を強めさせた。
北条貞時の代になると御内人の権力は増長し、 得宗の権威すら凌ぐようになり、 貞時は平禅門の乱で平頼綱を討ち得宗へ権力を戻そうとするも、 末期には政治への無関心から再び御内人が実権を握った。

また、貨幣経済が浸透して、市場がある市場町が誕生した。
多くの御家人が経済的に没落して、 凡下(庶民階級・非御家人層)の商人から借財を重ねた。 西暦1284年に弘安徳政、 さらに西暦1297年に永仁の徳政令を実施して没落する御家人の救済を図ったが、 恩賞不足や商人が御家人への金銭貸し出しを渋るなど、 かえって御家人の不満と混乱を招く結果に終わった。
後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒は、 この武士たちの不満を利用する形で行われることになる。

鎌倉幕府の征夷大将軍の一覧

一般的には、 征夷大将軍の地位は「鎌倉殿(鎌倉幕府の長)の地位を公的に担保するもの」、 と考えられている。

だが征夷大将軍はもとは源頼朝が鎮守府将軍である奥州藤原氏を凌駕する官職として望んだもので、 鎌倉殿の本質的属性ではなかった。
実際、 2代目鎌倉殿となった源頼家が征夷大将軍職に就いたのは家督相続から3年後であり、 源実朝の死後に鎌倉殿となった藤原頼経も征夷大将軍職に就いたのは鎌倉下向から7年後であって(鎌倉幕府公式記録「吾妻鏡」では実朝死去後から北条政子が6年間鎌倉殿だったとしている)、 その間は征夷大将軍職が空席であったが、 「鎌倉殿」であることは変わらず、特に問題とされなかった。

源実朝が暗殺されたあと頼朝の子孫(源氏将軍)が絶え、 京都の朝廷に対抗し、 有力御家人たちを抑えられるだけの高貴な血統の出身者が必要とされたことから、 初めは摂関家の子弟を将軍職に就けたが(摂家将軍)、 北条氏に離反した。
このため、 北条氏は摂家将軍を廃して皇族(宮将軍・親王将軍)を京都から迎え将軍職に就けた。
その結果、 実権が北条氏に握られることとなり、 将軍は名目的存在となったが、 形の上では将軍はあくまでも幕府の長であり、 全ての御家人の主君であることから、 御家人たちに対して一定の求心力を持ち続けた。

これを警戒した北条氏は、 幼少の将軍を迎えては成人すると解任して京都に送還するということを幕末まで繰り返した。

北条氏が幕府内では将軍を遥かに凌駕する権力を握り、 また朝廷に対しては将軍職任命を容易に強要できるだけの実力を持ちながら自らは将軍にならなかったのは、 北条氏を支持する御家人たちが北条氏の将軍職就任を推したが「朝廷が拒絶した」とする説が有力である。
また、 北条氏の出自が一介の地方豪族でしかなかったことから、 仮に将軍職に就いても有力御家人たちの心服を得ることができなかったため、 将軍職就任を断念せざるを得なかった、 とする説も存在する。

将軍氏名 将軍官位 在職(自) 在職(至) 在職期間 享年 執権
みなもとの頼朝よりとも 正二位
権大納言
建久3年7月12日
(西暦1192年)
建久10年1月13日
(西暦1199年)
 6年 6ケ月
53歳
みなもとの頼家よりいえ 正二位
左衛門督
建仁2年7月22日
(西暦1202年)
建仁3年9月7日
(西暦1203年)
 1年 2ケ月
23歳 北条ほうじょう時政ときまさ
みなもとの実朝さねとも 正二位
右大臣
建仁3年9月7日
(西暦1203年)
健保7年1月27日
(西暦1219年)
15年 4ケ月
28歳 北条ほうじょう義時よしとき
藤原ふじわらの頼経よりつね 正二位
権大納言
嘉禄2年1月27日
(西暦1226年)
寛元2年4月28日
(西暦1244年)
18年 3ケ月
39歳 北条ほうじょう義時よしとき
北条ほうじょう泰時やすとき
北条ほうじょう経時つねとき
藤原ふじわらの頼嗣よりつぐ 正三位
左近衛中将
寛元2年4月28日
(西暦1244年)
建長4年2月20日
(西暦1252年)
 7年10ケ月
18歳 北条ほうじょう時頼ときより
宗尊むねたか親王しんのう 一品
中務卿
建長4年4月1日
(西暦1252年)
文永3年7月20日
(西暦1266年)
14年 3ケ月
33歳 北条ほうじょう時頼ときより
北条ほうじょう長時ながとき
北条ほうじょう政村まさむら
惟康これやす親王しんのう 正二位
中納言右近衛大将
文永3年7月24日
(西暦1266年)
正応2年9月14日
(西暦1289年)
23年 2ケ月
63歳 北条ほうじょう時宗ときむね
北条ほうじょう貞時さだとき
久明ひさあきら親王しんのう 一品
式部卿
正応2年10月9日
(西暦1289年)
徳治3年8月4日
(西暦1308年)
18年10ケ月
53歳 北条ほうじょう貞時さだとき
北条ほうじょう師時もろとき
守邦もりくに親王しんのう 二品 延慶元年8月10日
(西暦1308年)
元弘3年5月22日
(西暦1333年)
24年 9ケ月
33歳 北条ほうじょう師時もろとき
北条ほうじょう宗宣むねのぶ
北条ほうじょう煕時ひろとき
北条ほうじょう基時もととき
北条ほうじょう高時たかとき
北条ほうじょう貞顕さだあき
北条ほうじょう守時もりとき
北条ほうじょう貞将さだゆき

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