懿徳天皇の皇子。
母は息石耳命の娘の天豊津媛命(『日本書紀』)。
兄弟として、
同母弟に武石彦奇友背命(多芸志比古命)がいる。
父帝が崩御した翌々年の1月に即位。
同年7月、
掖上池心宮に都を移す。
即位29年、
尾張連祖の瀛津世襲の妹の世襲足媛を皇后として天足彦国押人命、
日本足彦国押人尊(後の孝安天皇)を得た。
即位83年、崩御。
『日本書紀』・『古事記』とも系譜の記載のみに限られ、
欠史八代の1人に数えられる。
姫や臣たちの寿命が尽きるのを待ち、
孝安天皇38年に
掖上博多山上陵に一緒に葬られた。
生き残った3人も追い罷っ???た。
宮(皇居)の名称は、
『日本書紀』では掖上池心宮、
『古事記』では葛城掖上宮。
宮の伝説地は、
現在の奈良県御所市池之内周辺と伝承される。
同地には「掖上池心宮阯」碑が建てられている。
この説は、
『日本書紀』推古天皇21年(西暦613年)11月条に造られた「掖上池」の所在地を付近に想定したことによる。
実際に掖上池が「掖上池心宮」の宮名の由来であったとすれば、
宮の語り出しが推古朝の造池以後になると指摘される。
陵(みささぎ)の名は掖上博多山上陵。
宮内庁により奈良県御所市大字三室にある俗称「博多山」に治定されている。
宮内庁上の形式は山形。
陵について『日本書紀』では前述のように「掖上博多山上陵」、
『古事記』では「掖上博多山上」の所在とある。
一方『先代旧事本紀』では崩御の翌年に葬ったと見え、
崩御38年後に葬ったとする『日本書紀』の記録と相違することから、
後者を改葬と見る説もある。
『延喜式(諸陵寮)』では「掖上博多山上陵」の名称で大和国葛上郡にあるとし、
兆域は東西6町・南北6町、守戸5烟で遠陵としている。
しかし後世に所伝は失われ、
元禄の探陵で現陵に治定された。
陵近くには孝昭天皇の霊を祀る孝昭天皇神社(孝昭宮)があるが、
これは古く丘上にあったものを幕末の修補の際に現在の東側隣接地に移したものになる。
また皇居では、宮中三殿の1つの皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに孝昭天皇の霊が祀られている。