小窓
孝昭天皇(こうしょうてんのう/かうせうてんのう)

作成日:2019/9/29

  《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第5代天皇 孝昭天皇(こうしょうてんのう/かうせうてんのう)  欠史八代の一人で実在性に乏しい。

[在位] 紀元前475年孝昭天皇元年1月9日 - 紀元前393年孝昭天皇83年8月5日《紀》
[生没] 紀元前506年懿徳天皇5年) - 紀元前393年孝昭天皇83年8月5日 114歳没《紀》
[時代] 伝承の時代(弥生時代
[先代] 懿徳天皇   [次代] 孝安天皇
[和風諡号] 観松彦香殖稲天皇
[] 観松彦香殖稲尊
   御真津日子訶恵志泥命《記》
[父親] 懿徳天皇   [母親] 天豊津媛命《紀》、 賦登麻和訶比売命(ふとまわかひめのみこと)《記》
[皇后] 世襲足媛
[皇居] 掖上池心宮《紀》、葛城掖上宮《記》
[陵所] 掖上博多山上陵
[子女] 天足彦国押人命
    日本足彦国押人尊孝安天皇

年表

天皇の系譜(初代から第9代)
紀元前506年懿徳天皇5年)
観松彦香殖稲尊(のちの孝昭天皇)誕生
紀元前489年(懿徳天皇22年)
(2月)観松彦香殖稲尊(のちの孝昭天皇)立太子
紀元前475年孝昭天皇元年)
(1月)孝昭天皇 即位
(7月)掖上池心宮遷都
紀元前447年孝昭天皇29年)
(1月)世襲足媛立后.
紀元前408年孝昭天皇68年)
(1月)日本足彦国押人尊を立太子
紀元前393年孝昭天皇83年)
(8月)孝昭天皇 崩御。享年は113歳、『古事記』では93歳という
紀元前355年孝安天皇38年)
(8月)掖上博多山上陵に葬られた

略歴

懿徳天皇の皇子。
母は息石耳命の娘の天豊津媛命(『日本書紀』)。
兄弟として、 同母弟に武石彦奇友背命(多芸志比古命)がいる。
父帝が崩御した翌々年の1月に即位。
同年7月、 掖上池心宮に都を移す。
即位29年、 尾張連祖の瀛津世襲の妹の世襲足媛を皇后として天足彦国押人命日本足彦国押人尊(後の孝安天皇)を得た。
即位83年、崩御

漢風諡号である「孝昭」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる。

事績

日本書紀』・『古事記』とも系譜の記載のみに限られ、 欠史八代の1人に数えられる。
姫や臣たちの寿命が尽きるのを待ち、 孝安天皇38年に 掖上博多山上陵に一緒に葬られた。 生き残った3人も追い罷っ???た。

親族

祖父:安寧天皇   祖母:渟名底仲媛命日本書紀』、阿久斗比売『古事記
父親:懿徳天皇   母親:天豊津媛命日本書紀』、 賦登麻和訶比売命『古事記
皇后:世襲足媛
『日本書紀』本文・『古事記』による。尾張連祖の瀛津世襲(奥津余曽)の妹。
ただし、同書第1の一書では磯城県主葉江の娘の渟名城津媛、第2の一書では倭国豊秋狭太媛の女の大井媛とする。

宮(皇居)の名称は、 『日本書紀』では掖上池心宮、 『古事記』では葛城掖上宮。 宮の伝説地は、 現在の奈良県御所市池之内周辺と伝承される。
同地には「掖上池心宮阯」碑が建てられている。
この説は、 『日本書紀』推古天皇21年(西暦613年)11月条に造られた「掖上池」の所在地を付近に想定したことによる。
実際に掖上池が「掖上池心宮」の宮名の由来であったとすれば、 宮の語り出しが推古朝の造池以後になると指摘される。

陵・霊廟

陵(みささぎ)の名は掖上博多山上陵
宮内庁により奈良県御所市大字三室にある俗称「博多山」に治定されている。
宮内庁上の形式は山形。

陵について『日本書紀』では前述のように「掖上博多山上陵」、 『古事記』では「掖上博多山上」の所在とある。
一方『先代旧事本紀』では崩御の翌年に葬ったと見え、 崩御38年後に葬ったとする『日本書紀』の記録と相違することから、 後者を改葬と見る説もある。
延喜式(諸陵寮)』では「掖上博多山上陵」の名称で大和国葛上郡にあるとし、 兆域は東西6町・南北6町、守戸5烟で遠陵としている。
しかし後世に所伝は失われ、 元禄の探陵で現陵に治定された。
陵近くには孝昭天皇の霊を祀る孝昭天皇神社(孝昭宮)があるが、 これは古く丘上にあったものを幕末の修補の際に現在の東側隣接地に移したものになる。

また皇居では、宮中三殿の1つの皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに孝昭天皇の霊が祀られている。

考証

実在性
孝昭天皇を含む綏靖天皇(第2代)から開化天皇(第9代)までの8代の天皇は、 『日本書紀』『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。
これらの天皇は、 治世の長さが不自然であること、 7世紀以後に一般的になるはずの父子間の直系相続であること、 宮・陵の所在地が前期古墳の分布と一致しないこと等から、 極めて創作性が強いとされる。
一方で宮号に関する原典の存在、 年数の嵩上げに天皇代数の尊重が見られること、 磯城県主や十市県主との関わりが系譜に見られること等から、 全てを虚構とすることには否定する見解もある。
名称
和風諡号である「みまつひこ-かえしね」のうち、 「みまつひこ」は後世に付加された美称、 末尾の「ね」は神名の末尾に付く「ね」と同義と見て、 孝昭天皇の原像は「かえしね(香殖稲/訶恵志泥)」という名の古い神であって、 これが天皇に作り変えられたと推測する説がある。

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観松彦香殖稲尊(みまつひこかえしねのみこと)

孝昭天皇の諱(いみな)

懿徳天皇の皇子。母は天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)