孝安天皇の皇子。
母は皇后で天足彦国押人命の娘の押媛(忍鹿比売)。
兄弟として『古事記』では同母兄に大吉備諸進命の名が見える。
26才で皇太子となる。
父帝が崩御した年の12月、黒田廬戸宮に都を移す。
それまでの山裾にあった宮と異なり大和盆地の中央に位置する。
翌年の1月に即位。
即位2年、
磯城県主(または十市県主)大目の娘の細媛命を皇后とし、
彦国牽尊(後の孝元天皇)を得た。
また春日千乳早山香媛、倭国香媛らを妃にしている。
倭国香媛との間には崇神天皇の時代に四道将軍となった彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)、
疫病や反乱を収めるのに重要な役割を果たした倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと/やまとととびももそひめのみこと)を得た。
即位76年、崩御。
『日本書紀』・『古事記』ともほぼ系譜の記載のみに限られ、
欠史八代の1人に数えられる。
『古事記』には大吉備津日子命と若建吉備津日子命による吉備平定が簡潔に書かれている。
宮(皇居)の名称は、
『日本書紀』『古事記』とも黒田廬戸宮(くろだのいおどのみや)。
宮の伝説地は『和名類聚抄』の大和国城下郡黒田郷と見られ、
現在の奈良県磯城郡田原本町黒田周辺と伝承される。
同地では、
法楽寺境内に「黒田廬戸宮阯」碑が建てられている。
陵(みささぎ)の名は片丘馬坂陵(かたおかのうまさかのみささぎ)。
宮内庁により奈良県北葛城郡王寺町本町3丁目の丘陵に治定されている。
宮内庁上の形式は山形。
陵について『日本書紀』では前述のように「片丘馬坂陵」、
『古事記』では「片岡馬坂上」の所在とあるほか、
『延喜式(諸陵寮)』では「片丘馬坂陵」として兆域は東西5町・南北5町、守戸5烟で遠陵としている。
しかし後世に所伝は失われ、
元禄の探陵で現陵に治定された。
また皇居では、宮中三殿の1つの皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに孝霊天皇の霊が祀られている。
父親:孝安天皇 母親:忍鹿比売『古事記』
『古事記』では、
大吉備諸進命が第1皇子で、
大日本根子彦太瓊尊(孝霊天皇)が第2皇子となっているが、
『日本書紀』では、
この大吉備諸進命は登場しない。
つまり、
『日本書紀』では大日本根子彦太瓊尊(孝霊天皇)が第1皇子となっている。