磐余池(いわれのいけ)
日本古代にヤマト王権が磐余の地に造営させたとされる池。
「磐余市磯池」(いわれいちしのいけ)とも言う。
現在の奈良県桜井市池之内から橿原市池尻の地に存在したと推定されている。
磐余池については、
『
日本書紀(巻第十二)』に、
西暦401年(
履中天皇2年11月)に築造されたことが記述されている。
西暦402年(
履中天皇3年)の冬に、
履中天皇が両俣船(ふたまたぶね)を浮かべて、
皇后の
草香幡梭皇女と分かれて遊宴をした折りに、
履中天皇の盃に季節外れの桜の花が紛れ込んだため、
宮の名前を「
磐余稚桜宮」としたことが述べられている。
磐余は、
5世紀から
6世紀にかけてのヤマト王権の政治的要地で、
上述のように皇居が置かれてきた場所でもあり、
「磐余池」も歌枕とされてきた。
磐余池は平安時代頃まで存在したが、
その後埋め立てられ耕作地として利用されている。