仁徳天皇の第一皇子。母は葛城襲津彦の女・磐之媛(いわのひめ)。
5世紀前半に実在したと見られる。
仁徳天皇87年1月、仁徳天皇崩御。
住吉仲皇子が皇位を奪おうとして叛するが、
弟の瑞歯別皇子(のちの反正天皇)に命じてこれを誅殺させ、
翌年2月に即位して葛城黒媛を立后。
皇后との間には磐坂市辺押磐皇子(いわさかのいちのへのおしはのみこ)を得た。
仁賢天皇・顕宗天皇の父である。
その後は国史(ふみひと)や内蔵の制度を整えたものの、
即位6年3月に病気のため磐余若桜宮で崩御した。
『日本書紀』に70歳、『古事記』に64歳、『神皇正統記』に67歳。
『古事記』は壬申年1月3日に崩じたとする。
後を弟の瑞歯別皇子が継いだ(反正天皇)。
父の仁徳天皇の崩御後、
その治世は波乱の幕開けとなった。
『日本書紀』『古事記』によると即位前に婚約者の葛城黒媛(羽田矢代宿禰の娘、葦田宿禰の娘の2説あり。履中5年に神の祟りで急死?)へ使者として遣わされた弟の住吉仲皇子は自分こそが太子だと偽ってまぐわってしまった。
これが知られた住吉仲皇子は反乱を企て、
太子の宮殿に火を放った。
このとき太子は難波宮で酒に酔って寝ており、
部下に馬にやっと乗せて貰ったとされる。
太子は難波宮から大和へ向かい石上神宮へ入った。
逃走の途中では霊験あらたかな乙女に会い、
伏兵が居るので遠回りしろと教えられた。
そして無事到着した石上神宮で以下の歌を詠んだ。
直とは直越えのこと。
直越えとは、
後世、
生駒山を越える道(直越道)で、
埴生坂(羽曳野丘陵)から越えようとしているので、
現在の穴虫峠。
穴虫峠の手前で出会った乙女に道を聞いたのだが、
簡単に越えられるはずの直越え(穴虫峠)ではなく、
遠くて標高も高い竹之内峠越えをしろと教えられたことになる。
穴虫峠(二上山の北)は標高約150mに対して、
竹之内峠(二上山の南)は標高約300m、
数km南に遠い。
逃げ込もうとしていた石上神宮は両峠の北東方向にあり、
回り道は2倍以上だった。
その後、
住吉仲皇子は瑞歯別皇子(後の反正天皇)によって誅されることとなり、
即位することができた。
即位2年、
磐余に遷都。蘇我満智(まち)・物部伊莒弗(いこふつ)・平群木菟(つく)・円大使主(つぶらのおおおみ)らを国政に参画させた。
即位4年8月、
諸国に国史(ふみひと)と呼ばれる書記官を設置し、
国内の情勢を報告させた。
また即位6年正月には蔵職(くらのつかさ)と蔵部を興した(『古語拾遺』には内蔵を興すとある)。
しかし即位5年には筑紫に課税しようとしたことで神の祟りを受けて皇后を失い、
翌年には讃岐国造の鷲住王を呼び寄せようとするが無視されるなど、
西方への支配が行き届いていない面も見られる。
そして間もなく崩御。
跡を弟の瑞歯別皇子が継いだ(反正天皇)。
陵(みささぎ)の名は百舌鳥耳原南陵。
宮内庁により大阪府堺市西区石津ヶ丘にある遺跡名「上石津ミサンザイ古墳(石津ヶ丘古墳)」に治定されている。
宮内庁上の形式は前方後円。墳丘長365メートルの前方後円墳である。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。