小窓
履中天皇(りちゅうてんのう)

作成日:2019/10/4

《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第17代天皇 履中天皇(りちゅうてんのう)

[在位] 西暦400年履中天皇元年2月1日) - 西暦405年履中天皇6年3月15日)《紀》
[生没] 西暦336年仁徳天皇24年)? - 西暦405年履中天皇6年3月15日) 70歳没《紀》
[時代] 伝承の時代(古墳時代
[先代] 仁徳天皇   [次代] 反正天皇
[和風諡号] 去来穂別天皇
[] 大兄去来穂別尊大江之伊邪本和気命大兄伊射報本和気命
[父親] 仁徳天皇   [母親] 葛城磐之媛
[皇后] 草香幡梭皇女
[夫人] 葛城黒媛太姫郎姫高鶴郎姫
[皇居] 磐余若桜宮
[陵所] 百舌鳥耳原南陵

年表

天皇の系譜(第10代から第26代)
『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである。
西暦336年仁徳天皇24年)
仁徳天皇の長男として大兄去来穂別尊(のちの履中天皇)誕生。
西暦343年仁徳天皇31年)
(1月)大兄去来穂別尊(のちの履中天皇)太子に立てられる。
西暦399年仁徳天皇87年)
仁徳天皇崩御住吉仲皇子の反乱
西暦400年履中天皇元年)
(2月1日)履中天皇 即位
(7月)葛城黒媛立后
西暦401年履中天皇2年)
(1月)弟の瑞歯別皇子(のちの反正天皇)を立太子
(10月)磐余に遷都
西暦402年履中天皇3年)
(11月)都を稚桜宮と名付ける
西暦403年履中天皇4年)
(8月)諸国に国史(ふみひと)を派遣
西暦404年履中天皇5年)
(9月)筑紫三神の祟りで皇后崩御
(10月)皇后を埋葬。筑紫からの徴税を中止
西暦405年履中天皇6年)
(1月)草香幡梭皇女立后、蔵職と蔵部を興す
(2月)讃岐国造の鷲住王を呼び寄せようとするが無視される
(3月15日)履中天皇、病気のため磐余若桜宮崩御
跡を弟の瑞歯別皇子反正天皇)が継いだ。
(10月)百舌鳥耳原南陵に葬られる。

略歴

仁徳天皇の第一皇子。母は葛城襲津彦の女・磐之媛(いわのひめ)。
5世紀前半に実在したと見られる。
仁徳天皇87年1月、仁徳天皇崩御

住吉仲皇子が皇位を奪おうとして叛するが、 弟の瑞歯別皇子(のちの反正天皇)に命じてこれを誅殺させ、 翌年2月に即位して葛城黒媛立后

皇后との間には磐坂市辺押磐皇子(いわさかのいちのへのおしはのみこ)を得た。
仁賢天皇・顕宗天皇の父である。

その後は国史(ふみひと)や内蔵の制度を整えたものの、 即位6年3月に病気のため磐余若桜宮崩御した。

『日本書紀』に70歳、『古事記』に64歳、『神皇正統記』に67歳。
『古事記』は壬申年1月3日に崩じたとする。

後を弟の瑞歯別皇子が継いだ(反正天皇)。

漢風諡号である「履中天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。

事績

父の仁徳天皇の崩御後、 その治世は波乱の幕開けとなった。
『日本書紀』『古事記』によると即位前に婚約者の葛城黒媛(羽田矢代宿禰の娘、葦田宿禰の娘の2説あり。履中5年に神の祟りで急死?)へ使者として遣わされた弟の住吉仲皇子は自分こそが太子だと偽ってまぐわってしまった。
これが知られた住吉仲皇子は反乱を企て、 太子の宮殿に火を放った。
このとき太子は難波宮で酒に酔って寝ており、 部下に馬にやっと乗せて貰ったとされる。
太子は難波宮から大和へ向かい石上神宮へ入った。
逃走の途中では霊験あらたかな乙女に会い、 伏兵が居るので遠回りしろと教えられた。
そして無事到着した石上神宮で以下の歌を詠んだ。

大坂に遇うや嬢子を道問へば 直には告らず 当岐麻路を告る
(おおさかにあうやおとめをみちとへば ただにはのらず たぎまじをのる)

直とは直越えのこと。
直越えとは、 後世、 生駒山を越える道(直越道)で、 埴生坂(羽曳野丘陵)から越えようとしているので、 現在の穴虫峠。
穴虫峠の手前で出会った乙女に道を聞いたのだが、 簡単に越えられるはずの直越え(穴虫峠)ではなく、 遠くて標高も高い竹之内峠越えをしろと教えられたことになる。
穴虫峠(二上山の北)は標高約150mに対して、 竹之内峠(二上山の南)は標高約300m、 数km南に遠い。
逃げ込もうとしていた石上神宮は両峠の北東方向にあり、 回り道は2倍以上だった。

その後、 住吉仲皇子瑞歯別皇子(後の反正天皇)によって誅されることとなり、 即位することができた。
即位2年、 磐余に遷都。蘇我満智(まち)・物部伊莒弗(いこふつ)・平群木菟(つく)・円大使主(つぶらのおおおみ)らを国政に参画させた。
即位4年8月、 諸国に国史(ふみひと)と呼ばれる書記官を設置し、 国内の情勢を報告させた。
また即位6年正月には蔵職(くらのつかさ)と蔵部を興した(『古語拾遺』には内蔵を興すとある)。
しかし即位5年には筑紫に課税しようとしたことで神の祟りを受けて皇后を失い、 翌年には讃岐国造の鷲住王を呼び寄せようとするが無視されるなど、 西方への支配が行き届いていない面も見られる。
そして間もなく崩御
跡を弟の瑞歯別皇子が継いだ(反正天皇)。

親族

祖父:応神天皇   祖母:仲姫命
父親:仁徳天皇   母親:葛城磐之媛
皇妃:葛城黒媛(くろひめ。葛城葦田宿禰の女、一説に羽田八代宿禰の女)
皇后:草香幡梭皇女(くさかのはたびのひめみこ。応神天皇の皇女)
太姫郎姫(ふとひめのいらつめ、鯽魚磯別王の女)
高鶴郎姫(たかつるのいらつめ、鯽魚磯別王の女)
鯽魚磯別王
鯽魚磯別王 / 鮒魚磯別王(ふなしわけのおおきみ、ふなしわけのおほきみ、ふなしわけのきみ)

西暦405年3月17日。 娘の太姫郎姫高鶴郎姫が、履中天皇のとなる。
太姫郎姫
太姫郎姫(ふとひめのいらつめ)『日本書紀』

鯽魚磯別(ふなしわけの)王の娘。

履中天皇6年。妹の高鶴郎姫(たかつるのいらつめ)とともに履中天皇の後宮にはいり、 (ひん)となった。
高鶴郎姫
高鶴郎姫(たかつるのいらつめ)『日本書紀』

鯽魚磯別(ふなしわけの)王の娘。

履中天皇6年。姉の太姫郎姫(ふとひめのいらつめ)とともに履中天皇の後宮にはいり、 嬪(ひん)となった。

陵・霊廟

陵(みささぎ)の名は百舌鳥耳原南陵
宮内庁により大阪府堺市西区石津ヶ丘にある遺跡名「上石津ミサンザイ古墳(石津ヶ丘古墳)」に治定されている。
宮内庁上の形式は前方後円。墳丘長365メートルの前方後円墳である。

また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

考証

中国の『宋書』に見える「倭の五王」中の倭王讃に比定する説がある(応神天皇もしくは仁徳天皇とする説もあり)。


仁徳天皇 [← 前へ]  [次へ →] 反正天皇

大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)

履中天皇の諱(いみな)