安寧天皇の第二皇子。
母は鴨王(事代主神の孫)の娘の渟名底仲媛命(『日本書紀』)。
兄弟として同母兄に息石耳命(または常津彦某兄)、同母弟に磯城津彦命がいる。
父帝が崩御した翌々年の1月に即位。
即位2年1月、軽之境岡宮(かるのさかいおかのみや)に都を移す。
同年2月、息石耳命の娘の天豊津媛命を皇后として観松彦香殖稲尊(後の孝昭天皇)を得た。
即位34年、崩御。
大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと) - 『日本書紀』
大倭日子耜友命(おおやまとひこすきとものみこと) - 『古事記』
漢風諡号である「懿徳」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる。
『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載のみに限られ、
欠史八代の1人に数えられる。
食国政申大夫の出雲色命を大臣とした。
宮(皇居)の名称は、
『日本書紀』では軽曲峡宮(かるのまがりおのみや)、
『古事記』では軽之境岡宮(かるのさかいおかのみや)。
宮の伝説地は、
現在の奈良県橿原市大軽町周辺と伝承される。
同地付近の白橿町では、
「軽曲峡宮跡伝承地」碑が建てられている。
陵(みささぎ)の名は畝傍山南纖沙溪上陵(うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ)。
宮内庁により奈良県橿原市西池尻町にある俗称「マナゴ山」に治定されている。
宮内庁上の形式は山形。
陵について『日本書紀』では前述のように「畝傍山南纖沙溪上陵」、
『古事記』では「畝火山の真名子谷の上」の所在とあるほか、
『延喜式(諸陵寮)』では「畝傍山南繊沙渓上陵」として兆域は東西1町・南北1町、
守戸5烟で遠陵としている。
しかし後世に所伝は失われ、
幕末修陵に際して現陵に治定された。
なお、
橿原市畝傍町の「イトクの森古墳」はその名から懿徳陵とされることもあったが、
一説に皇后陵だともいわれる。
また皇居では、 宮中三殿の1つの皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに懿徳天皇の霊が祀られている。
中世の『古今和歌集序聞書三流抄』には、天皇が出雲に行幸して、素戔嗚尊に出会うという逸話が見える。