生誕から即位まで 明治時代 慶応4年(1868年)12月11日(1月5日)から始まった戊辰戦争においては、 仁和寺宮嘉彰親王に錦旗と節刀を与えて征討大将軍に任命し、 旧幕府勢力を鎮圧した。 この間、 慶応4年(明治元年)3月14日(1868年4月6日)には五箇条の御誓文を発布して新政府の基本方針を表明し、 閏4月21日(6月11日)には政体書によって新しい政治制度を採用。 また、明治と改元して「一世一元の制」を定めた(改元の詔書を発したのは、慶応4年9月8日〈1868年10月23日〉。しかし、改元は慶応4年1月1日〈1868年1月25日〉に遡って適用するとした)。 江戸開城から半年を経た明治元年10月13日(1868年11月26日)、明治天皇は初めて江戸に行幸し同日、江戸を東京に、江戸城を東京城に改称(東京奠都)。一旦京都に還幸後、翌明治2年(1869年)に再び東京に移り、崩御まで東京に居住していた。 明治2年6月17日(1869年7月25日)には版籍奉還の上表を勅許した。当初、新政府内では公家や旧大名が中心メンバーを占めていたが、東京へ遷ったことも一つのきっかけとして、次第に三条実美、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らの発言権が強大になっていった。明治4年7月14日(1871年8月29日)には廃藩置県を断行し、中央集権体制を確立した。 明治天皇の最も有名な肖像画。イタリア人画家エドアルド・キヨッソーネによって描かれたコンテ画を丸木利陽が写真撮影したもの(1888年〈明治21年〉1月)。 他方、明治3年正月3日(1870年2月3日)には、「宣教使ヲ置クノ詔」(大教宣布の詔)[3]を発して、「神道の国教化(国家神道)」と「天皇の絶対化」を推し進めた。岩倉、大久保らは、天皇を近代国家の主体的君主として育成するため、宮廷改革を行なって旧習を廃し、天皇親政体制への切り替えと君徳の涵養に尽くした。 ※注:1872年(明治5年)に太陽暦を導入し、明治5年12月2日(1872年12月31日)の次の日(1873年1月1日)を「明治6年1月1日」と定めた(明治5年太政官布告第337号)。 明治6年(1873年)に征韓論を巡って政府部内が紛糾した明治六年政変では、勅旨を出して西郷隆盛の朝鮮派遣を中止させてこれを収め、明治7年(1874年)から同8年(1875年)にかけて続いた自由民権運動では、立憲政体の詔(漸次立憲政体樹立の詔)を発して政体改革を進めるなど、天皇は政府内部の政治的対立を調停する役割を果たした。 しかし士族反乱が激化する折、下野した西郷らが西南戦争を起こし逆賊となり新政府軍はこれを鎮定した。またこれが日本史上最後の内戦となっている。 自由民権運動への対応として、明治14年(1881年)には「国会開設の勅諭」を発して帝国議会(上院:貴族院 (日本)、下院:衆議院)創設の時期を明示し運動の沈静化を図った。 明治宮殿豊明殿 宇多天皇による寛平御遺誡以降、天皇が外国人に直に面会することはなかったが[注釈 1]、明治天皇は外国要人と頻繁に会談している。まず明治2年(1869年)にイギリスの女王ヴィクトリアの子・アルフレートがイギリス王族として初めて訪日し会談。明治12年(1879年)にユリシーズ・グラントがアメリカ合衆国大統領経験者として初めて訪日し会談。明治14年(1881年)に、ハワイ国王カラカウアが外国元首としては初めて訪日し会談する。 明治2年(1869年)、直轄領であった蝦夷地を北海道として編入。明治12年(1879年)には琉球王国を廃し沖縄県として併合、奄美群島を正式に大隅国として編入している。 赤坂離宮(1911年〈明治40年〉) 明治15年(1882年)、陸海軍を「天皇の軍隊」と規定するとともに、「忠節・礼儀・武勇・信義・質素」という軍人としての5つの基本徳目や、軍人の政治不関与を命じた軍人勅諭を発した[4]。 明治17年(1884年)以降は、間近に控えた議会創設に備えて立憲制に対応する諸制度を創設した。内閣制度、市町村制、府県制、郡制の制定など、官僚制支配体系の整備と並行して莫大な皇室財産の設定を行った。 明治22年(1889年)2月11日、 大日本帝国憲法を公布した。 この憲法は、日本史上初めて天皇の権限(天皇大権)を明記しており、 立憲君主制国家確立の基礎となった。 翌明治23年(1890年)10月30日には教育勅語(教育ニ関スル勅語)を発し、 近代天皇制国家を支える臣民(国民)道徳の涵養に努めた。 帝国議会開設当初は、 超然主義を唱える藩閥政府と衆議院に依拠する政党勢力が鋭く対立衝突したが、 明治天皇はしばしば詔勅を発し調停者的機能を発揮した。 また、藩閥政府内の元勲間にあった政策や感情の上での対立においても、 明治天皇は宥和に努めた。 共和演説事件では文部大臣・尾崎行雄に辞表を提出させた。 皇居(1902年〈明治35年〉) 栃木県那須村演習統監時の写真(1909年〈明治42年〉11月、参謀本部陸地測量部写真班撮影)。 外交上は1894年(明治27年)の日英通商航海条約、1902年(明治35年)の日英同盟など大国との条約を締結し、列強の一員たるべく、軍事的・経済的な国力の増強を図った。 日本が初めて直面した外国との近代戦争である日清戦争と日露戦争では、明治天皇は大本営で直接戦争指導に当たった。他方、日露戦争の『宣戦の詔勅』に続いて作成された詔勅草案は、「信教の自由」と「戦争の不幸」を強調していたが、大臣らの署名がないまま公布されなかった[注釈 2]。 日英軍事同盟と日露戦争での働きにより、イギリスの首相アーサー・バルフォアの許可を得、1906年(明治39年)にガーター勲章を授与される[5]。また、日清戦争の勝利により獲得した台湾、日露戦争後は韓国併合による朝鮮領有や満州経営(現在の中国東北部)を進め、日本をイギリスやフランス、ドイツなど他の西洋列強のような植民帝国へと膨張させる政策を採用した。 明治天皇-写真を嫌悪していた明治天皇にとって貴重な最晩年の写真(1912年〈明治45年〉) 明治44年(1911年)には、開国以来の懸案であったイギリスやアメリカなどの欧米各国との不平等条約の改正を完了させ、名実共に日本は列強の一員となった。 崩御 大葬の礼の様子(1912年〈明治45年〉) 明治天皇の聖像(岐阜県岐阜市) 明治天皇が崩御した公式の日時は1912年(明治45年)7月30日午前0時43分であり、同月30日に刊行された号外でも「聖上陛下、本日午前零時四十三分崩御あらせらる。」とあり[1]、『明治天皇記』でも、「三十日、御病気終に癒えさせられず、午前零時四十三分心臓麻痺に因り崩御したまふ、宝算実に六十一歳なり」とある。持病の糖尿病が悪化して尿毒症を併発し、宝算61歳(満59歳)で崩御した。これに伴い、皇太子嘉仁親王が皇位継承し(大正天皇)、第123代天皇として践祚した。 明治天皇は明治45年(1912年)7月11日の東京大学卒業式に出席したが、「気分は悪かった」という。侍医では対応できなくなり、20日青山胤通と三浦謹之助が診察し、尿毒症と診断した。28日に痙攣が始まり、初めてカンフル、食塩水の注射が始まった。「病や死などの『穢れ』を日常生活に持ち込まない」という宮中の慣習により、また、明治天皇の寝室に入れるのは基本的に皇后と御后女官(典侍)だけであり、仕事柄上、特別に侍医は入れるものの、限られた女官だけでは看病が行き届かないということで、明治天皇は自分の寝室である御内儀で休養することができなくなった。そして、明治天皇の居間であった常の御座所が臨時の病室となった[6]。看護婦も勲5等以上でなくてはいけないので、5位以上の女官が看護した[7]。 宮内省は崩御日時を7月30日午前0時43分と公表したが、当時宮内書記官であった栗原広太によると、実際の崩御日時は前日の7月29日22時43分である。これは「登極令の規定上、皇太子嘉仁親王が新帝(新天皇)になる践祚の儀式を崩御当日に行わなければならないが、その日が終わるまで1時間程度しか残されていなかったため、様々に評議した上で、崩御時刻を2時間遅らせ、翌日午前0時43分と定めた」という[8]。 明治天皇の崩御に際してその側にいた皇族の梨本宮妃伊都子も、この間の様子を日記に克明に記している。伊都子の日記によれば、「(伊都子ら皇族は)二十八日に危篤の報を聞き、宮中に参内し待機した。二十九日午後十時半頃、奥(後宮)より、『一同御そばに参れ』と召され伊都子らが部屋に入ると、皇后、皇太子、同妃、各内親王が病床を囲み、侍医らが手当てをしていた。明治天皇は漸次、呼吸弱まり、のどに痰が罹ったらしく咳払いをしたが時計が10時半を打つ頃には天皇の声も途絶え、周囲の涙のむせぶ音だけとなった。2,3分すると、にわかに天皇が低い声で『オホンオホン』と呼び、皇后が『何にてあらせらるるやら。』と返事をしたが、そのまま音もなく眠るように亡くなった」という。 同年(大正元年)8月27日、追号を明治天皇(めいじてんのう)にすると、大正天皇による勅定がなされた。 同年(大正元年)9月13日午後8時、東京・青山の大日本帝国陸軍練兵場(現在の神宮外苑)において明治天皇の大喪の礼が執り行われた。明治天皇の柩は遺言に従い御霊柩列車に乗せられ、東海道本線等を経由して京都南郊の伏見桃山陵に運ばれ、9月14日に埋葬された。大喪のために設営された葬場殿の跡地には、『聖徳記念絵画館』が建設された。 世界における明治天皇崩御の受けとめ 明治天皇の大喪儀におけるフランス特派使節。代表のジョルジュ・ルボン中将(前列右より2番目)、接伴員の秋山好古(前列左端) 明治天皇の崩御は、世界各国で報道された。 明治天皇崩御の代表的論調は、望月小太郎が「明治天皇の一年祭」に際して編纂し刊行された『世界に於ける明治天皇』にまとめられた。各国別全28章にわたり20余国からなり、そこには、イギリス、フランス、帝政ドイツ、アメリカ合衆国はもとより、中国、イギリス領インド、ベルギー、スウェーデン、ペルーなど世界各国をはじめ、ハワイ、ブラジルなど日系移民と関わりの深い国、在中国外国人の論調まで掲載されている。 日本との軍事同盟を締結し同様に立憲君主制を敷くイギリスは「王朝の臣民として能く日本の君民関係は理解」、革命により王政を廃止し共和制国家となったフランスは「血を以って革命を贖いたる国民なるを以って、神聖なる君主政体と立憲政体の一致とは不可能なる如し想像し、民主主義に重きを措くの先入観あり」、当時は帝政を敷きのちに君主制が崩壊するドイツ、オーストリア=ハンガリーは「深奥なる哲理思想なる国民として多くは、大帝陛下の御治績を科学的分析的に研究」とした。 日露戦争において日本に敗北して、社会主義革命により君主制が崩壊する帝政ロシアは「沈痛懐疑の口調の中にも能く先帝陛下が常に恋々として平和を愛したる御真情を解得」、近代史上初の共和制国家としての成立起源を持ち、黒船来航を行い日本が明治維新に至るきっかけを作り、日露戦争の際には両国の講和の仲介役を務めたアメリカ合衆国は「其建国の事情を異にし、自ら我が君臣の関係を知らず」さらに、米領フィリピンに対して、共和国でありながら明治天皇のために挽歌をつくり、「祖宗神霊の御加護を失ふ国民は滅亡すべしと謳える如きは最も味ふべき点」と述べ、また南米諸国も共和国であるが、「『我が国体の崇高さ』や『先帝陛下の叡聖』などを『憧憬仰慕』として感心している」と述べた。
霊元天皇 112代
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東山天皇 113代
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中御門天皇 114代 閑院宮直仁親王
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桜町天皇 115代 典仁親王 (慶光天皇) 倫子女王 鷹司輔平
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後桜町天皇 117代 桃園天皇116代 光格天皇119代 美仁親王
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後桃園天皇118代 仁孝天皇120代
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孝明天皇121代 桂宮淑子内親王 和宮親子内親王
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明治天皇122代
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大正天皇123代
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昭和天皇124代
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元号 | 期間 | |
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自 | 至 | |
慶応 | 西暦1867年 2月13日 | 西暦1868年10月23日 |
明治 | 西暦1868年10月23日 | 西暦1912年 7月30日 |