仁徳天皇の第三皇子。母は葛城襲津彦の女・皇后葛城磐之媛命
履中天皇・住吉仲皇子の同母弟、允恭天皇の同母兄に当たる。
仁徳天皇87年、
父仁徳天皇の崩後、
叛乱を起こした同母兄の住吉仲皇子を、
そのきんじゅう近習である曾婆訶理(隼人)を利用して誅殺した。
履中天皇2年1月4日に立太子(皇太弟)。
同6年3月15日に履中天皇が崩御し、
翌反正天皇元年1月に即位。
兄弟継承はここに始まる。
同年8月6日、
共に和珥木事の娘である和珥津野媛を皇夫人に、
和珥弟媛を妃に立てる。
同母兄弟の2天皇と異なり皇族の妻を娶ることはなく、
子孫が即位することもなかった。
10月に河内丹比を都とする。
天下太平であり、
何事もなく在位5年。
後に反正天皇となる瑞歯別皇子が史書で具体的に登場するのは、
父の大鷦鷯天皇(仁徳天皇)が崩御した直後である。
このとき次兄の住吉仲皇子が自分を長兄の太子・去来穂別尊(のちの履中天皇)だと偽ってその婚約者である葛城黒媛とまぐわう事件が起きた。
これを知られた住吉仲皇子は反乱を企てて太子の宮殿に火を放ち、
太子は命からがら石上神宮に逃げ延びた。
それを知った瑞歯別皇子は太子を助けるためにかけつけた。
しかし太子は命を狙われ疑心暗鬼となっており、
住吉仲皇子を誅殺してくるまでは会わないと言われてしまった。
そこで瑞歯別皇子は住吉仲皇子のいる難波へと向かい、
住吉仲皇子の側近で隼人の刺領巾(『古事記』では曽婆訶理)へ大臣の位を餌として暗殺を唆した。
これを真に受けた刺領巾は厠に入っている住吉仲皇子を矛で刺し殺した(従って本人は直接手は下していない)。
任務を成功させたとはいえ、
刺領巾の行為は義にもとるものだった。
そこでねぎらいの酒を酌み交わし刺領巾の頭が大きな杯で覆われた隙に剣で首を切り落としてしまった。
こうして去来穂別尊(履中天皇)の即位が確定し、
瑞歯別皇子自身は太子となった。
兄の履中天皇が在位6年で西暦405年(履中天皇6年3月15日)に70歳で崩御したのち、
瑞歯別皇子は反正天皇として即位した。
在位5年で崩御。
事績はなく後継者も指名しないままだった。
『古事記』『水鏡』に60歳。
『古事記』に従えば、
崩御した「丁丑年七月」は西暦437年に相当。
生年は逆算して、兄履中天皇より9歳年下の西暦378年に相当するが、定かではない。
陵(みささぎ)の名は百舌鳥耳原北陵
宮内庁により大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2丁にある遺跡名「田出井山古墳」に治定されている。
宮内庁上の形式は前方後円。
墳丘長148メートルの前方後円墳である。
上記とは別に宮内庁から大阪府堺市北区百舌鳥西之町にある遺跡名「土師ニサンザイ古墳」が東百舌鳥陵墓参考地(ひがしもずりょうぼさんこうち)として反正天皇の空墓に想定されている。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。