小窓
孝安天皇(こうあんてんのう/かうあんてんのう)

作成日:2019/9/29

  《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第6代天皇 孝安天皇(こうあんてんのう/かうあんてんのう)  欠史八代の一人で実在性に乏しい。

[在位] 紀元前392年孝安天皇元年1月7日) - 紀元前291年孝安天皇102年1月9日)《紀》
[生没] 紀元前427年孝昭天皇49年) - 紀元前291年孝安天皇102年1月9日) 137歳没《紀》
[時代] 伝承の時代
[先代] 孝昭天皇   [次代] 孝霊天皇
[和風諡号] 日本足彦国押人天皇《紀》
[] 日本足彦国押人尊
   大倭帯日子国押人命《記》
[父親] 孝昭天皇   [母親] 世襲足媛《紀》 余曾多本毘売命《記》
[皇后] 押媛《紀》
[皇居] 室秋津島宮
[陵所] 玉手丘上陵
[子女] 大吉備諸進命大日本根子彦太瓊尊孝霊天皇

年表

天皇の系譜(初代から第9代)
紀元前427年孝昭天皇49年)
日本足彦国押人尊(のちの孝安天皇)誕生
紀元前408年孝昭天皇68年)
(1月)日本足彦国押人尊(のちの孝霊天皇)立太子
紀元前392年孝安天皇元年)
(1月7日)孝安天皇 即位
紀元前391年孝安天皇2年)
(10月)室秋津島宮遷都
紀元前367年孝安天皇26年)
(2月)押媛立后
紀元前317年孝安天皇76年)
(1月)大日本根子彦太瓊尊を立太子
紀元前291年孝安天皇102年)
(1月)孝安天皇 崩御。享年は137歳、『古事記』では123歳という
(9月)玉手丘上陵に葬られた

略歴

孝昭天皇の第二皇子。
母は皇后で尾張連祖の瀛津世襲(奥津余曽)の妹の世襲足媛尊。
同母兄に和珥臣祖の天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと、天押帯日子命)がいる。
父帝が崩御した翌年の1月に即位。
即位2年、室秋津島宮に都を移す。先帝の都からさほど離れていない。
即位26年、天足彦国押人命の娘の押媛を皇后として大日本根子彦太瓊尊(のちの孝霊天皇)らを得た。
即位102年、崩御

名称

漢風諡号である「孝安」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる。

事績

『日本書紀』・『古事記』ともほぼ系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられる。
自身でカセフの祓いとホヅミの祭りをなす。
崩御から33年後に、 ようやく亡骸をハカタの(掖上博多山)に納めた。
皇が死んだ時、その臣・后が殉死する事を法制化した。(天御子法)
崩御から33年後に亡骸を納めたのは、その臣・后が死ぬのを待って葬ったらしい。

親族

祖父:懿徳天皇   祖母:天豊津媛命日本書紀』、賦登麻和訶比売命『古事記
父親:孝昭天皇   母親:世襲足媛日本書紀』、 余曾多本毘売命『古事記
皇后:押媛
日本書紀』本文・『古事記』による。天足彦国押人命の娘で、孝安天皇の姪にあたる。
ただし、書紀第1の一書では磯城県主葉江の娘の長媛、第2の一書では十市県主五十坂彦の娘の五十坂媛とする。

宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では室秋津島宮(むろのあきつしまのみや)、『古事記』では葛城室之秋津島宮。
宮の伝説地は、『和名類聚抄』の大和国葛上郡牟婁郷と見られ、現在の奈良県御所市室周辺と伝承される。
同地では八幡神社境内に「室秋津島宮阯」碑が建てられている。

『日本書紀』『古事記』では日本の本州の異称として「秋津島(秋津州)」が使用されるが、 元々は上記の宮が営まれた奈良盆地西南部の葛城地方を指した地名であったとする説がある。

陵・霊廟

陵(みささぎ)の名は玉手丘上陵(たまてのおかのえのみささぎ)。
宮内庁により奈良県御所市大字玉手にある玉手丘陵上に治定されている。
宮内庁上の形式は円丘。
陵について『日本書紀』では前述のように「玉手丘上陵」、 『古事記』では「玉手崗上」の所在とあるほか、 『延喜式(諸陵寮)』では「玉手丘上陵」として兆域は東西6町・南北6町、守戸5烟で遠陵としている。
しかし、 中世に陵の所在が失われ、 元禄年間以来検討されて室村のとある古墳が擬せられたが、 『歴帝陵』の一本および『大和志』が現在の地を推して以来、 定説となった。
幕末の修陵の時におおいに修治が加えられ、 その竣工に際して、 慶応元年3月12日に広橋右衛門督が遣わされに修陵奉告が行なわれた。

また皇居では、 宮中三殿の1つの皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに孝安天皇の霊が祀られている。

考証

実在性
孝安天皇を含む綏靖天皇(第2代)から開化天皇(第9代)までの8代の天皇は、 『日本書紀』『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。
これらの天皇は、 治世の長さが不自然であること、 7世紀以後に一般的になるはずの父子間の直系相続であること、 宮・陵の所在地が前期古墳の分布と一致しないこと等から、 極めて創作性が強いとされる。
一方で宮号に関する原典の存在、 年数の嵩上げに天皇代数の尊重が見られること、 磯城県主や十市県主との関わりが系譜に見られること等から、 全てを虚構とすることには否定する見解もある。
名称
和風諡号である「やまとたらしひこ-くにおしひと」のうち、 「やまとたらしひこ」は後世に付加された美称、 「くにおしひと」の「ひと」は天熊人等と同様に神名の末尾に付く名称と見て、 孝安天皇の原像は「くにおしひと(国押人)」という名の古い国造りの神であって、 これが天皇に作り変えられたと推測する説がある。
これとは別に、 後世の諡号である「たらしひこ」と「くにおしひと」の合成に過ぎないとする説もある。

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大吉備諸進命(おおきびのもろすすみのみこと)

父親:孝安天皇、 母親:忍鹿比売『古事記』

『古事記』では、 大吉備諸進命が第1皇子で、 大日本根子彦太瓊尊(孝霊天皇)が第2皇子となっているが、 『日本書紀』では、 この大吉備諸進命は登場しない。

つまり、 『日本書紀』では大日本根子彦太瓊尊(孝霊天皇)が第1皇子となっている。

日本足彦国押人尊(やまとたらしひこくにおしひとのみこと)

孝安天皇の諱(いみな)

孝昭天皇の第2皇子。母は世襲足媛。