孝昭天皇の第二皇子。
母は皇后で尾張連祖の瀛津世襲(奥津余曽)の妹の世襲足媛尊。
同母兄に和珥臣祖の天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと、天押帯日子命)がいる。
父帝が崩御した翌年の1月に即位。
即位2年、室秋津島宮に都を移す。先帝の都からさほど離れていない。
即位26年、天足彦国押人命の娘の押媛を皇后として大日本根子彦太瓊尊(のちの孝霊天皇)らを得た。
即位102年、崩御。
『日本書紀』・『古事記』ともほぼ系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられる。
自身でカセフの祓いとホヅミの祭りをなす。
崩御から33年後に、
ようやく亡骸をハカタの洞(掖上博多山)に納めた。
皇が死んだ時、その臣・后が殉死する事を法制化した。(天御子法)
崩御から33年後に亡骸を納めたのは、その臣・后が死ぬのを待って葬ったらしい。
宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では室秋津島宮(むろのあきつしまのみや)、『古事記』では葛城室之秋津島宮。
宮の伝説地は、『和名類聚抄』の大和国葛上郡牟婁郷と見られ、現在の奈良県御所市室周辺と伝承される。
同地では八幡神社境内に「室秋津島宮阯」碑が建てられている。
『日本書紀』『古事記』では日本の本州の異称として「秋津島(秋津州)」が使用されるが、 元々は上記の宮が営まれた奈良盆地西南部の葛城地方を指した地名であったとする説がある。
陵(みささぎ)の名は玉手丘上陵(たまてのおかのえのみささぎ)。
宮内庁により奈良県御所市大字玉手にある玉手丘陵上に治定されている。
宮内庁上の形式は円丘。
陵について『日本書紀』では前述のように「玉手丘上陵」、
『古事記』では「玉手崗上」の所在とあるほか、
『延喜式(諸陵寮)』では「玉手丘上陵」として兆域は東西6町・南北6町、守戸5烟で遠陵としている。
しかし、
中世に陵の所在が失われ、
元禄年間以来検討されて室村のとある古墳が擬せられたが、
『歴帝陵』の一本および『大和志』が現在の地を推して以来、
定説となった。
幕末の修陵の時におおいに修治が加えられ、
その竣工に際して、
慶応元年3月12日に広橋右衛門督が遣わされに修陵奉告が行なわれた。
また皇居では、 宮中三殿の1つの皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに孝安天皇の霊が祀られている。
父親:孝安天皇、 母親:忍鹿比売『古事記』
『古事記』では、 大吉備諸進命が第1皇子で、 大日本根子彦太瓊尊(孝霊天皇)が第2皇子となっているが、 『日本書紀』では、 この大吉備諸進命は登場しない。
つまり、 『日本書紀』では大日本根子彦太瓊尊(孝霊天皇)が第1皇子となっている。