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清寧天皇/淸寧天皇(せいねいてんのう)

作成日:2019/10/14

清寧天皇は、日本の第22代天皇。

《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第22代天皇 清寧天皇/淸寧天皇(せいねいてんのう)

[在位] 西暦480年清寧天皇元年1月15日) - 西暦484年清寧天皇5年1月16日)《紀》
[生没] 西暦444年允恭天皇33年)? - 西暦484年清寧天皇5年1月16日) 41歳?没《紀》
[時代] 古墳時代
[先代] 雄略天皇   [次代] 顕宗天皇
[和風諡号]
[] 白髪皇子
[父親] 雄略天皇   [母親] 葛城韓媛
[皇后] 皇妃は居なかった。従って皇子女もなし。
[皇居] 磐余甕栗宮
[陵所] 河内坂門原陵

年表

天皇の系譜(第10代から第26代)日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである。
西暦444年允恭天皇33年)
白髪皇子(のちの清寧天皇)誕生
西暦478年雄略天皇22年)
(1月1日)白髪皇子(のちの清寧天皇)を立太子
西暦479年雄略天皇23年)
(7月)雄略天皇が病気になり、皇太子の白髪皇子に政務をゆだねる。
(8月7日)父帝雄略天皇62歳で崩御
     天皇崩御をうけて吉備稚媛星川稚宮皇子が起こした反乱を鎮圧(星川皇子の乱
西暦480年清寧天皇元年)
(1月15日)清寧天皇 即位
西暦481年清寧天皇2年)
(2月)白髪部を定める
(11月)市辺押磐皇子の子である億計弘計を発見。(⇒ 市辺押磐皇子の遺児発見
西暦482年清寧天皇3年)
(1月)億計弘計を皇子と認めて宮中に迎え入れる。
(4月17日)億計王清寧天皇の皇太子として立太子される。
西暦484年清寧天皇5年)
(1月16日) 清寧天皇41歳で崩御
(11月)河内坂門原陵に葬られる
西暦485年顕宗天皇元年)
(1月1日)顕宗天皇36歳で即位

略歴

御名の「白髪皇子」の通り、 生来白髪であったため、 父帝の雄略天皇は霊異を感じて皇太子としたという。

西暦479年雄略天皇23年8月)、雄略天皇62歳で崩御
吉備氏の母を持つ星川稚宮皇子が大蔵を占拠し、 権勢を縦(ほしいまま)にしたため、 大伴室屋・東漢直掬らにこれを焼き殺させる(星川皇子の乱)。
白髪皇子は翌年1月15日に即位(清寧天皇)。

清寧天皇は皇子がいないことを気に病んでいたが、 西暦481年清寧天皇2年)、 市辺押磐皇子の子である億計王(のちの仁賢天皇)・弘計王(のちの顕宗天皇)の兄弟を播磨で発見したとの情報を得、 勅使を立てて明石に迎えさせる。
翌年2王を宮中に迎え入れ、億計王を東宮に、 弘計王を皇子とした。

清寧天皇は、 西暦484年清寧天皇5年1月16日)に崩御した。
『水鏡』に41歳、『神皇正統記』に39歳という。

なお、『古事記』では億計王弘計王2王の発見は天皇崩御後の出来事としている。

漢風諡号である「清寧天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。

親族

祖父:允恭天皇   祖母:忍坂大中姫
父親:雄略天皇   母親:葛城韓媛
皇后:皇妃は居なかった。従って皇子女もなし。

市辺押磐皇子の遺児発見

允恭天皇第5皇子の雄略天皇は即位前の混乱の中、多くの政敵を殺した。
履中天皇の第1皇子である市辺押磐皇子帳内佐伯部仲子は蚊屋野(カヤノ)で大泊瀬天皇(=雄略天皇)に殺されました。、 西暦456年安康天皇3年10月)に雄略天皇によって殺された。
遺児となった市辺押磐皇子の子の億計弘計の兄弟は針間国へ逃げた。

針間国へ潜んだ億計弘計兄弟は、 身分を隠し名を変えて、 縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)忍海(おしぬみ)部細目の馬飼牛飼として仕えていた。

西暦481年清寧天皇2年11月)、 大嘗祭の供物を調えるため、 伊予来目部小楯が播磨に勅使として遣わされた時、 縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)の館で新築祝いが催されており、 そこで使役されている億計弘計兄弟も招かれていた。 弘計は勅使の伊予来目部小楯の前で舞いつつ歌って身分を明かした。
勅使の伊予来目部小楯は驚き、 朝廷に報告した。

雄略天皇の子清寧天皇は、 かねがね皇子がいないことを気に病んでいたが、 億計弘計兄弟の発見を聞き非常に驚き、 「天は大きな恵を垂れて、二人の皇子を賜った」とお喜びになり、 勅使を立てて明石郡に二人の皇子を迎えさせた。 西暦482年清寧天皇3年4月17日)兄の億計王清寧天皇の皇太子として立太子される。

西暦484年清寧天皇5年1月16日)、清寧天皇が41歳で崩御。

兄の億計は「勇気を奮って身分を明かし名乗り出たのは弟の弘計だから弟が即位すべき」と弟の弘計に皇位を譲ろうとした。
弟の弘計は「皇太子であり兄である億計が即位すべき」と互いに皇位を譲り合っていたが、 西暦485年顕宗天皇元年1月1日)、 弟の弘計が顕宗天皇として即位した。

これで皇位の断絶は免れた。皇太子は先帝・清寧天皇の時そのままに、兄の億計王が務められたが、弟である天皇の兄が皇太子という事態は、これ以前も以降もその例がない。「皇太兄」という言葉はないが実質いわば「皇太兄」である。

難波小野女王が弘計王の皇后に立てられた。この難波小野女王は允恭天皇の曾孫、磐城王(雄略天皇の皇子・母は吉備稚姫)の孫、丘稚子王(おかのわくごのおう)の女王である。

この年顕宗元年4月11日、詔「来目部小楯の功を賞し給ふの詔」を発せられた。

皇紀1147年=顕宗3年(487年)4月25日、天皇はわずか3年(2年5ヶ月)の在位、38歳で崩御される。皇子女はおられなかった。

陵・霊廟

陵(みささぎ)は、 宮内庁により大阪府羽曳野市西浦6丁目にある河内坂門原陵治定されている。
宮内庁上の形式は前方後円。
遺跡名は「白髪山古墳」で、墳丘長112メートルの前方後円墳である。

また皇居では、 皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。


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白髪皇子(しらかのみこ)

清寧天皇の諱(いみな)

億計皇子(おけのみこ)

仁賢天皇の諱(いみな)。

弘計皇子(顕宗天皇)は同母弟。

弘計皇子(をけのみこ)/

顕宗天皇の諱(いみな)。

億計皇子(仁賢天皇)は同母兄。