御名の「白髪皇子」の通り、 生来白髪であったため、 父帝の雄略天皇は霊異を感じて皇太子としたという。
西暦479年(雄略天皇23年8月)、雄略天皇62歳で崩御。
吉備氏の母を持つ星川稚宮皇子が大蔵を占拠し、
権勢を縦(ほしいまま)にしたため、
大伴室屋・東漢直掬らにこれを焼き殺させる(星川皇子の乱)。
白髪皇子は翌年1月15日に即位(清寧天皇)。
清寧天皇は皇子がいないことを気に病んでいたが、
西暦481年(清寧天皇2年)、
市辺押磐皇子の子である億計王(のちの仁賢天皇)・弘計王(のちの顕宗天皇)の兄弟を播磨で発見したとの情報を得、
勅使を立てて明石に迎えさせる。
翌年2王を宮中に迎え入れ、億計王を東宮に、
弘計王を皇子とした。
允恭天皇第5皇子の雄略天皇は即位前の混乱の中、多くの政敵を殺した。
履中天皇の第1皇子である市辺押磐皇子も
帳内の佐伯部仲子は蚊屋野(カヤノ)で大泊瀬天皇(=雄略天皇)に殺されました。、
西暦456年(安康天皇3年10月)に雄略天皇によって殺された。
遺児となった市辺押磐皇子の子の億計と弘計の兄弟は針間国へ逃げた。
針間国へ潜んだ億計・弘計兄弟は、 身分を隠し名を変えて、 縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)忍海(おしぬみ)部細目の馬飼牛飼として仕えていた。
西暦481年(清寧天皇2年11月)、
大嘗祭の供物を調えるため、
伊予来目部小楯が播磨に勅使として遣わされた時、
縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)の館で新築祝いが催されており、
そこで使役されている億計・弘計兄弟も招かれていた。
弘計は勅使の伊予来目部小楯の前で舞いつつ歌って身分を明かした。
勅使の伊予来目部小楯は驚き、
朝廷に報告した。
雄略天皇の子清寧天皇は、 かねがね皇子がいないことを気に病んでいたが、 億計・弘計兄弟の発見を聞き非常に驚き、 「天は大きな恵を垂れて、二人の皇子を賜った」とお喜びになり、 勅使を立てて明石郡に二人の皇子を迎えさせた。 西暦482年(清寧天皇3年4月17日)兄の億計王は清寧天皇の皇太子として立太子される。
西暦484年(清寧天皇5年1月16日)、清寧天皇が41歳で崩御。
兄の億計は「勇気を奮って身分を明かし名乗り出たのは弟の弘計だから弟が即位すべき」と弟の弘計に皇位を譲ろうとした。
弟の弘計は「皇太子であり兄である億計が即位すべき」と互いに皇位を譲り合っていたが、
西暦485年(顕宗天皇元年1月1日)、
弟の弘計が顕宗天皇として即位した。
これで皇位の断絶は免れた。皇太子は先帝・清寧天皇の時そのままに、兄の億計王が務められたが、弟である天皇の兄が皇太子という事態は、これ以前も以降もその例がない。「皇太兄」という言葉はないが実質いわば「皇太兄」である。
難波小野女王が弘計王の皇后に立てられた。この難波小野女王は允恭天皇の曾孫、磐城王(雄略天皇の皇子・母は吉備稚姫)の孫、丘稚子王(おかのわくごのおう)の女王である。
この年顕宗元年4月11日、詔「来目部小楯の功を賞し給ふの詔」を発せられた。
皇紀1147年=顕宗3年(487年)4月25日、天皇はわずか3年(2年5ヶ月)の在位、38歳で崩御される。皇子女はおられなかった。
陵(みささぎ)は、
宮内庁により大阪府羽曳野市西浦6丁目にある河内坂門原陵に治定されている。
宮内庁上の形式は前方後円。
遺跡名は「白髪山古墳」で、墳丘長112メートルの前方後円墳である。
また皇居では、 皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。