小窓
安寧天皇(あんねいてんのう)

作成日:2019/8/10

《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第3代天皇 安寧天皇(あんねいてんのう)  欠史八代の一人で実在性に乏しい。

[在位] 紀元前549年綏靖天皇33年7月15日) - 紀元前511年安寧天皇38年12月6日)《紀》
[生没] 紀元前577年綏靖天皇5年) - 紀元前511年安寧天皇38年12月6日)57歳没《紀》
[時代] 伝承の時代(弥生時代
[先代] 綏靖天皇   [次代] 懿徳天皇
[和風諡号] 磯城津彦玉手看天皇《紀》
[] 磯城津彦玉手看尊
[父親] 綏靖天皇   [母親] 五十鈴依媛命《紀》、 河俣毘売《記》
[皇后] 渟名底仲媛命《紀》、 阿久斗比売(あくとひめ)《記》
[子女] 息石耳命、 大日本彦耜友尊懿徳天皇)、 磯城津彦命
[皇居] 片塩浮孔宮/片塩浮穴宮
[陵所] 畝傍山西南御陰井上陵

年表

天皇の系譜(初代から第9代)
『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである。
紀元前577年綏靖天皇5年)
磯城津彦玉手看尊(のちの安寧天皇)誕生
紀元前557年綏靖天皇25年)
(1月) 磯城津彦玉手看尊(のちの安寧天皇)21才で立太子
紀元前549年綏靖天皇33年)
(5月10日) 綏靖天皇84歳で崩御
(7月15日) 安寧天皇 即位
紀元前547年安寧天皇2年)
(1月) 片塩浮孔宮遷都
紀元前546年安寧天皇3年)
(2月) 渟名底仲媛命立后
紀元前538年安寧天皇11年)
(1月) 大日本彦耜友尊を立太子
紀元前511年安寧天皇38年)
(12月) 安寧天皇 崩御。享年は57歳、『古事記』では49歳という
紀元前510年懿徳天皇元年)
(8月) 安寧天皇は、畝傍山西南御陰井上陵に葬られた。

略歴

綏靖天皇の皇子。母は事代主神の娘の五十鈴依媛命(『日本書紀』)。
兄弟に関する記載は『日本書紀』『古事記』ともにない。
父帝が崩御した年の7月に即位。
即位2年1月、片塩浮孔宮(かたしおのうきあなのみや)に都を移す。
即位3年2月、鴨王(事代主神の孫)の娘の渟名底仲媛命を皇后として息石耳命、大日本彦耜友尊(後の懿徳天皇)、磯城津彦命を得た。
即位38年、崩御

漢風諡号である「安寧」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる。

事績

『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられる。
磯城県主クロハヤの館で生まれ、そのときに朝日が輝いたのでこの名が付いた。

親族

祖父:神武天皇   祖母:媛蹈鞴五十鈴媛命日本書紀』 伊須気余理比売『古事記
父親:綏靖天皇   母親:五十鈴依媛命日本書紀』、  河俣毘売古事記
皇后:渟名底仲媛命(渟名襲媛とも)
日本書紀』本文による。鴨王(事代主神の孫)の娘。
ただし、同書第1の一書では磯城県主葉江の娘の川津媛、 第2の一書では大間宿禰の娘の糸井媛とする。
古事記』では師木県主波延(河俣毘売の兄)の娘の阿久斗比売(あくとひめ)とする。
日本書紀』本文では子を息石耳命大日本彦耜友尊の2人とするが、 同書一書や『古事記』では常津彦某兄・大日本彦耜友天皇・磯城津彦命の3人とする。

宮(皇居)の名称は、 『日本書紀』では片塩浮孔宮(かたしおのうきあなのみや)、 『古事記』では片塩浮穴宮。

宮の伝説地については、次の3説がある。
  • 奈良県橿原市四条町付近 (『帝王編年記』『和州旧跡幽考』)
  • 奈良県大和高田市三倉堂・片塩町 (『大和志』『古都略紀図』)
  • 大阪府柏原市 (『古事記伝』『大日本地名辞書』)

安寧天皇前後の諸宮が全て奈良盆地の中に位置することから、 候補としては第1・2説が有力視されるが明らかでない。
大和高田市では石園座多久虫玉神社境内に「片塩浮孔宮阯」碑が建てられている。
なお、 現在の大和高田市に残る「片塩」「浮孔」といった町名・施設名(例:浮孔駅)は、 全て第2説を基にした近代以降の復古地名になる。

陵・霊廟

陵(みささぎ)の名は畝傍山西南御陰井上陵(うねびやまのひつじさるのみほどのいのえのみささぎ)。
宮内庁により奈良県橿原市吉田町にある俗称「アネイ山」に治定されている。
宮内庁上の形式は山形。

陵について『日本書紀』では前述のように「畝傍山西南御陰井上陵」、 『古事記』では「畝火山の美富登(みほと)」の所在とあるほか、 『延喜式(諸陵寮)』では「畝傍山西南御陰井上陵」として兆域は東西3町・南北2町、守戸5烟で遠陵としている。
しかし後世に所伝は失われ、 元禄修陵では所在を誤ったが、 幕末修陵に際して現陵に治定された。
陵号の由来になったとされる古井戸の「御陰井」が陵南の集落中にあり、 陵と共に宮内庁によって管理されている。

また皇居では、 宮中三殿の1つの皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに安寧天皇の霊が祀られている。

考証

実在性
安寧天皇を含む綏靖天皇(第2代)から開化天皇(第9代)までの8代の天皇は、 『日本書紀』『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。
これらの天皇は、 治世の長さが不自然であること、 7世紀以後に一般的になるはずの父子間の直系相続であること、 宮・陵の所在地が前期古墳の分布と一致しないこと等から、 極めて創作性が強いとされる。
一方で宮号に関する原典の存在、 年数の嵩上げに天皇代数の尊重が見られること、 磯城県主や十市県主=十市氏=中原氏との関わりが系譜に見られること等から、 全てを虚構とすることには否定する見解もある。
名称
和風諡号である「しきつひこ-たまてみ」のうち、 「しきつひこ」は後世に付加された美称。
末尾の「み」は神名の末尾に付く「み」と同義と見て、 安寧天皇の原像は「たまてみ(玉手看/玉手見)」という名の古い神であって、 これが天皇に作り変えられたと推測する説がある。

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磯城津彦玉手看尊 (しきつひこたまてみのみこと) 『日本書紀』
師木津日子玉手見命(しきつひこたまてみのみこと) 『古事記』

安寧天皇の諱(いみな)

綏靖天皇の皇子。母は五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)。