孝元天皇の第二皇子。
母は皇后で欝色雄命(内色許男命、穂積臣遠祖)の妹の欝色謎命。
同母兄弟には大彦命・少彦男心命・倭迹迹姫命、異母兄弟には彦太忍信命・武埴安彦命がいる。
16才で皇太子となる。
父帝が崩御した同じ年の11月に即位。
翌年、春日の率川宮に都を移す。
以前の都とは大きく離れた大和盆地の北に位置している。
即位6年、孝元天皇の妃(側室)だった伊香色謎命を皇后として御間城尊(後の崇神天皇)らを得た。
また丹波竹野媛、和珥臣の祖の姥津命の妹の姥津媛を妃にしている。
姥津媛との間には狭穂彦命、狭穂姫命、日葉酢媛命、神功皇后の祖となる彦坐王を得た。
即位60年、崩御。
『日本書紀』・『古事記』とも系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられる。
又、14代仲哀天皇の皇后である神功皇后の五代祖である。
宮(皇居)の名称は、
『日本書紀』では春日率川宮(かすがのいざかわのみや)、
『古事記』では春日之伊邪河宮。
宮の伝説地は、
現在の奈良県奈良市本子守町周辺と伝承される。
同地では、
率川神社境内が宮跡にあたるとされる。
この説は開化天皇陵にも近く優勢であるが、
一方で奈良市春日野町の東の四恩院廃寺付近とする説もある。
陵(みささぎ)の名は春日率川坂上陵(かすがのいざかわのさかのえのみささぎ)。
宮内庁により奈良県奈良市油阪町にある遺跡名「念仏寺山古墳」に治定されている。
墳丘長約100メートルの前方後円墳。
宮内庁上の形式は前方後円。
陵について『日本書紀』では前述のように「春日率川坂本陵(坂上陵)」、
『古事記』では「伊邪河之坂上」の所在とあるほか、
『延喜式(諸陵寮)』では「春日率川坂上陵」として兆域は東西5段・南北5段、在京戸10烟を毎年あてる旨とともに遠陵としている。
近世には近隣の念仏寺の墓地になったため墳丘は削られたが、
幕末に墓地の移転と陵の修補がなされて現在に至っている。
また皇居では、 宮中三殿の1つの皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに開化天皇の霊が祀られている。