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神功皇后(じんぐうこうごう)

作成日:2021/12/18

神功皇后(成務天皇40年 - 神功皇后69年4月17日)は、 日本の第14代天皇・仲哀天皇の皇后。
日本書紀』での名は気長足姫で、 仲哀天皇崩御から応神天皇即位まで初めての摂政として約70年間君臨したとされる。

明治時代以前は、 神功皇后を第15代の帝と数えた史書が多数あったが、 歴代天皇から外した。
『大日本史』が採った立場に基づくものである。 この結果、第33代推古天皇が最初の女性天皇となった。

《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
女性摂政 神功皇后(じんぐうこうごう)
明治時代以前は、神功皇后を第15代の帝と数えた史書が多数あったが、歴代天皇から外した。

[在位] 西暦201年神功摂政元年10月2日) - 西暦269年神功摂政69年4月17日)
[生没] 西暦170年成務天皇40年) - 西暦269年神功摂政69年4月17日) 享年100歳
[時代] 伝承の時代(古墳時代
[先代] 仲哀天皇 神功皇后摂政)   [次代] 応神天皇
[諡号] 気長足姫尊、神功皇后
[] 気長足姫
[父親] 息長宿禰王   [母親] 葛城高顙媛
[配偶者] 仲哀天皇
[皇居] 磐余若桜宮
[陵所] 狹城盾列池上陵(⇒ 位置
[子女] 誉田別命(のちの応神天皇

年表

天皇の系譜(第10代から第26代)
西暦170年成務天皇40年)
西暦193年仲哀天皇2年)
西暦199年仲哀天皇8年)
西暦200年仲哀天皇9年)
若井敏明著「邪馬台国の滅亡」吉川弘文館発行では仲哀天皇9年は西暦367年と推定している。
西暦201年神功摂政元年)
西暦202年神功皇后摂政2年)
西暦203年神功摂政3年)
西暦205年神功摂政5年)
神功摂政5年は、西暦205年または西暦325年
西暦213年神功摂政13年)
西暦246年神功摂政46年)
神功摂政46年は、西暦246年または西暦366年
西暦247年神功摂政47年)
西暦249年神功摂政49年)
西暦250年神功摂政50年)
西暦251年神功摂政51年)
西暦252年神功摂政52年)
西暦253年神功摂政53年)
西暦256年神功摂政56年)
西暦262年神功摂政62年)
西暦264年神功摂政64年)
西暦265年神功摂政65年)
西暦269年神功摂政69年)

略歴

父は開化天皇玄孫息長宿禰王で、 母は天之日矛の子孫・葛城高顙媛
弟に息長日子王、妹に虚空津比売、豊姫がいる。

明治時代までは一部史書(『常陸国風土記』『扶桑略記』『神皇正統記』)で第15代天皇、 初の女帝(女性天皇)とされていたが、 大正15年(西暦1926年)の皇統譜令(大正15年皇室令第6号)に基づく皇統譜より正式に歴代天皇から外された。

摂政69年目に崩御。

漢風諡号である「神功皇后」は、 代々の天皇と同様、 奈良時代に淡海三船によって撰進された

親族

祖父:迦邇米雷王   祖母:高材比売
父親:息長宿禰王   母親:葛城高顙媛
配偶者:
仲哀天皇

熊襲征伐

仲哀天皇2年1月11日に立后。
2月、天皇と共に角鹿の笥飯宮(けひのみや)へ。
3月、天皇が紀伊国の德勒津宮に向かうが皇后は角鹿に留まる。
同月、天皇が熊襲再叛の報を聞き親征開始。穴門で落ち合うよう連絡を受ける。
7月、穴門豊浦宮で天皇と合流。
西暦199年仲哀天皇8年)、天皇と共に筑紫橿日宮へ移動して神託を行い神懸った。託宣の内容は「熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を渡り金銀財宝のある新羅を攻めるべし」というものだった。
天皇はこの神を信じず熊襲を攻めたが空しく敗走。
翌、西暦200年仲哀天皇9年)2月6日に天皇が筑紫橿日宮にて急死。
日本書紀』内の異伝や『天書紀』では熊襲の矢が当たったという。

仲哀天皇9年3月1日、 小山田邑の斎宮で武内宿禰を審神者として再び神託を行い、 前年に託宣した神が撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(天照大神荒魂)、 事代主神、 住吉三神などであることを確認した。
しかしひとまずは目の前の熊襲征伐を続行することとなり吉備鴨別を派遣して熊襲を従わせた。
3月17日、 皇后自ら松峽宮(福岡県筑前町)に移動し、 20日に層増岐野(そそきの)で羽白熊鷲という者を討った。
そばの人に「熊鷲を取って心が安らかになった」と言われたので、 そこを安(夜須)という。

3月25日には筑後川下流域の山門県に移動して田油津媛という女酋を討ちとり、 兄の夏羽は戦わずして逃げ出した。
この女酋田油津姫は邪馬台国女王の末裔とする説もある。
いずれにせよ最後まで抵抗していた九州北部もヤマト王権の支配下になり、 ここにヤマト王権の全国制覇が完了したとされる。

三韓征伐

三韓征伐

三韓征伐とは、 神功皇后が夫・仲哀天皇崩御後の西暦200年仲哀天皇9年)に 新羅に出兵し、 朝鮮半島の広い地域(三韓)を服属下においたとする日本における伝承である。 経緯は『古事記』『日本書紀』に記載されているが、 朝鮮や中国の歴史書や碑文にも関連するかと思われる記事がある。

西暦200年仲哀天皇9年4月)、 肥前国松浦郡で誓約を行った皇后は渡海遠征の成功を確信し、 神田を作ったのちに筑紫橿日宮へ戻った。 そして角髪を結って男装すると渡海遠征の全責任を負うことを宣言した。 9月には(筑紫夜須)にて大三輪神を祀り矛と刀を奉し船と兵を集めた。 また草という海人を派遣して新羅までの道を確かめさせた。 さらに軍規を定めて略奪、婦女暴行、敵前逃亡などを禁じ、 依網吾彦男垂見(よさみのあびこおたるみ)に航海の無事を祈らせた。

10月、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。 その勢いは船が山に登らんばかりだったという。 新羅の王は「吾聞く、東に日本という神国有り。亦天皇という聖王あり。」と言い白旗を上げ、 戦わずして降服し朝貢することを誓った。 神功皇后は宝物庫に入って地図と戸籍を手に入れ、 また王宮の門に矛を突き立てて宗主権を誇示した。 新羅王の波沙寐錦(はさ むきん)は微叱己知(みしこち)という王族を人質に差し出し、 さらに金・銀・絹を献上した。 これを見た高句麗百済朝貢を約束した。

帰国した後の12月14日、 皇后は筑紫で誉田別尊を出産した。 出産した土地を「生み」から転じて「宇美」という。 そして穴門の山田邑で住吉三神を祀った。

忍熊王との戦い

新羅を討った翌年(摂政元年)2月、 皇后は群臣を引き連れて穴門豊浦宮に移り天皇の殯を行った。
そして畿内への帰途についた。
しかし都には天皇の長男、次男である麛坂王、忍熊王がいた。
彼らは誉田別尊の誕生を知り、 皇后たちがこの赤子を君主(天皇、あるいは太子)に推し立ててくることを察した。
そこで播磨の赤石に父の山陵を作ると称して挙兵、 五十狹茅宿禰(いさちのすくね)に命じて東国から兵を集めさせた。
そして菟餓野というところで「戦いに勝てるならば良い猪が捕れる」と誓約(うけい)の狩りを行った。
ところが突然現れた獰猛な赤い猪に麛坂王は食い殺されてしまった。
凶兆と理解した忍熊王は住吉まで撤退した。

忍熊王たちが待ち受けていることを知った皇后は、 一旦紀伊に寄って誉田別尊を預けて北上。
しかし紀淡海峡を突破できなかったため明石海峡を回って務古水門に到着。
道中で天照大御神、稚日女尊、事代主神、住吉三神を祀った後に進撃。
忍熊王はまた撤退して山背の菟道に陣を敷き、ここが決戦の場となった。
忍熊王方の熊之凝(くまのこり)という者が歌を詠み軍を鼓舞した。

彼方の あらら松原 松原に 渡り行きて 槻弓に まり矢をたぐへ 貴人(まれびと)は 貴人どちや いざ鬪はな 我は たまきはる 内の朝臣が 腹内は 砂あれや いざ鬪はな 我は

皇后軍を率いる武内宿禰や武振熊命は一計を案じて偽りの和睦を申し出た。
兵に命じて弓の弦を切らせ剣も捨てさせた。
忍熊王がそれに応じて自軍にも同じようにさせると武内宿禰は再び号令し、 兵に替えの弦と剣を取り出させた。
予備の兵器など用意していなかった忍熊王は敗走した。
武内宿禰は逢坂山を超えて狹々浪の栗林(滋賀県大津市膳所)まで追撃した。
逃げ場のなくなった忍熊王は五十狹茅宿禰を呼びよせ歌を詠んだ。

いざ吾君 五十狹茅宿禰 たまきはる 内の朝臣が 頭槌の 痛手負はずは 鳰鳥の 潜爲な

忍熊王と五十狹茅宿禰は共に瀬田川へ入水し、遺体は後日になって引き上げられた。
同年10月、皇后は群臣に皇太后と認められた。
この年が摂政元年(若井敏明によると西暦368年に比定)である。
摂政2年11月8日、天皇を河内国長野陵に葬った。
摂政3年1月3日、誉田別尊を太子とし、磐余若桜宮遷都
摂政13年、2月に太子が武内宿禰に連れられて角鹿の笥飯大神に参拝。
笥飯宮出発から始まった皇太后の遠征事業はここに終わり、酒宴が催された。

新羅再征

摂政5年3月7日、 本国に一時帰国したいという微叱己知(新羅からの人質)の願いを聞き入れて葛城襲津彦を監視に付けるも逃がしてしまう。
摂政46年3月、 斯摩宿禰を朝鮮半島の卓淳国(大邱)に派遣。斯摩宿禰はさらに百済へ使者を送り、 百済から日本への道を繋いだ。
翌年4月、新羅百済朝貢してきた。
百済の貢物が酷くみすぼらしいので使者の久氐を問い詰めたところ、 新羅に貢物を奪われたと訴えた。
摂政49年、新羅を再征伐することになった。
将軍として派遣された荒田別(あらたわけ)・鹿我別(かがわけ)は百済の木羅斤資(もくらこんし)・沙々奴跪(ささなこ)と共に七つの国を平定した。
以後、摂政52年まで久氐が日本と百済を往復し、 百済から宝物をもたらした。

葛城襲津彦の新羅征討

神功皇后62年(西暦262年または西暦382年)、 葛城襲津彦を遣わして新羅を撃たせる。

『百済記』によれば壬午年(西暦382年)、 新羅は日本に朝貢しなかったため、 日本は沙至比跪(さちひこ、襲津彦)を派遣し新羅を討伐した。 しかし、沙至比跪新羅の美女に心を奪われ矛先を加羅に向け、 加羅を滅ぼす。 加羅国王己早岐、児白久至らは、百済に亡命する。 加羅国王の妹既殿至は、大倭(やまと)の天皇に直訴すると、 天皇は怒って、 木羅斤資(もくらこんし)を使わし沙至比跪を攻め、 加羅を戻した。 また、沙至比跪は天皇の怒りが収まらないことを知ると石穴で自殺したともいう。

葛城襲津彦については、神功代以降も、次のような記録がある。

以上の記述において日本書紀の紀年を記載したが、 日本書紀の紀年論にみられるごとく年代はいまだ確定していない。 そのため、神功皇后の活躍、三韓征伐のあった年代および、 その史実の妥当性についての研究が続いている。 紀年については、『日本書紀』は百済三書の一つ『百済記』を参照または編入している。 百済記の年月は干支で記しているので60年で一周するが、 『日本書紀』の編者は日本の歴史の一部を2周(2運=120年)繰り上げて書いているとされており、 百済記もそれに合わせて引用されているので、 当該部分の記述も実年代とは120年ずれていると考えられる。
井上光貞によれば、 日本書紀の編纂者は神功皇后を卑弥呼に比定したこともあって、 干支を2運繰り上げたとしている。 また、百済記は早くから暦を導入しており、紀年は正確とみられている。

宮(皇居)

宮(皇居)の名称は、 『日本書紀』では磐余若桜宮
後の履中天皇の宮と同名である。

陵・霊廟

神功皇后の陵(みささぎ)は、 宮内庁により奈良県奈良市山陵町にある狹城盾列池上陵に治定されている。 宮内庁上の形式は前方後円。 後円部頂に祠があったことから、俗に五社神ともよぶ。 遺跡名は「五社神古墳」で、墳丘長275メートルの前方後円墳である。

神功皇后の陵について、 『古事記』では「御陵は沙紀の盾列池上陵(さきのたたなみのいけがみのみささぎ)に在り」、 『日本書紀』では「狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬る」と記している。

西暦843年承和10年)、 盾列陵で奇異があり、 調査の結果、 神功皇后陵と成務天皇陵を混同していたことがわかったという記事が『続日本後紀』にある。 後に、 「御陵山」と呼ばれていた佐紀陵山古墳(現 日葉酢媛陵)が神功皇后陵とみなされるようになり、 神功皇后の神話での事績から安産祈願に霊験ありとして多くの人が参拝していた。

その後、 西大寺で「京北班田図」が発見され、 これにより神功皇后陵が五社神古墳とされ、 西暦1863年文久3年)に五社神古墳が神功皇后陵に治定され、 現在に踏襲されている。

西暦2008年、 宮内庁は日本考古学協会などの要請に応じ、 五社神古墳の立ち入り調査を許可した。 これは、 考古学者の要請に答えて古墳の調査が許可された初めての例となった。 ただし調査は古墳外周の表層だけとされたため、 調査ではさしたる成果は上がっておらず、 宮内庁調査の確認と円筒埴輪列が新たに発見されたに留まっている。
この古墳は4世紀中から末5世紀初めの築造とされていたが、 円筒埴輪列によってやや新しく(5世紀)なるのではないかと推測される。

考証

実在性と実態

明治から太平洋戦争敗戦までは学校教育の場で実在の人物として教えられていたが、 現在では実在説と非実在説が並存している。
直木孝次郎は、 「斉明天皇持統天皇が神功皇后のモデルではないか」の説を唱えている。
実在すると仮定しても皇后となるには仲哀天皇と血縁が離れすぎており、 一方で香坂王、 忍熊王の母である大中姫命は皇后より下位の妃(みめ)と記述されているものの天皇の従姉妹なので血縁の近さを重視する古代においてはより皇后にふさわしい。
大中姫命が真の皇后だった場合、 神功皇后と後に呼ばれた気長足姫仲哀天皇とともに行った九州遠征で成果を出して、 武内宿禰や武振熊命の協力を得てクーデターを起こしたことになる。
また上記のように仲哀天皇崩御から応神天皇即位まで初めての摂政として約70年間君臨したとされるが、 その間は天皇不在の空位である。
神功皇后摂政のまま崩御するまで息子を皇位につかせなかったことになるが、 仮に女帝として即位していたのならこの不自然さは和らぐ。

即位説

『新唐書』列伝第145 東夷 日本に「仲哀死、以開化曽孫女神功為王」。
『宋史』列伝第250 外国7 日本国に「次 神功天皇 開化天皇之曽孫女、又謂之息長足姫天皇」。
とあるが、 『宋史』には10世紀に日本から渡った僧・奝然が伝えた『王年代紀』の内容を掲載したと明記されている。

『新唐書』が編纂されたのも11世紀であり、やはり『王年代紀』を参照したと考えられる。

明治時代以前は、 神功皇后を天皇(皇后の臨朝)とみなして、 第15代の帝とした史書もあったが、 西暦1926年大正15年)10月の皇統譜令に基づく皇統譜から歴代天皇から外された。

卑弥呼との関係

日本書紀』には、 「倭の女王」についての記述が引用されている。
引用元は『魏志』と、 『晋起居注』(現存しない)である。

『魏志』での倭の女王とは邪馬台国の卑弥呼のことであり、 江戸時代までは神功皇后が卑弥呼だと考えられていた。
ただし倭の女王の記述はあくまでも引用されているだけであり神功皇后と卑弥呼、 台与を同一視する記述はなく、 卑弥呼、 台与、 邪馬台国といった、 魏国が書き記した名称も『日本書紀』には書かれていない。
『魏志』からの引用は現存する『魏志』と相違があり、 特に人名・役名に相違が多いため、 以下の訳文では現存の『魏志』に基づく人名・役名を示す。

以上が引用された全文である。

現存の『魏志』では最初の遣使は景初2年(西暦238年)であり、 明帝(曹叡)は景初3年1月に死去している。
『晋起居注』の引用では泰始を泰初とした元号の誤りがあるが、 『注』が現存しないため引用の誤りとは断定できない。
また泰始2年に卑弥呼は既に死去しており、 この年の倭の女王は台与の可能性が高いとされている。
現存する『晋書』武帝紀では泰始2年(西暦266年)11月に倭人が朝貢したこと、四夷伝では泰始の初めに倭人が通訳を重ねて朝貢したことは書かれているが、 いずれも女王という記述は無い。


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注1
肖古王、貴須王、枕流王、辰斯王は同じくそれぞれ朝鮮半島の正史である『三国史記』百済本紀の近肖古王(在位:346年 - 375年)、近仇首王(在位:375年 - 384年)、枕流王(在位:384年 - 385年)、辰斯王(在位:385年 - 392年)と考えられている。 紀年が120年ずれているが、各王の在位期間がほぼ一致する。
井上光貞も『日本書紀』の編者が神功皇后を卑弥呼に比定したため干支を二運繰り上げたという説を支持している。
ただし井上秀雄は、 百済記の年紀は干支だけの簡単なものでありそれだけでは絶対年代が確定せず、 『日本書紀』も『三国史記』百済本紀も、 それぞれの編者が独自に考証して絶対年代を付与したものであって、 既存の伝承があった上でそれよりも上げたり下げたりしたわけではない、 とみている。 いずれにせよ年代がずれているだけなので、 少なくとも神功皇后摂政紀においていわゆる二倍暦説は当てはまらない可能性が高い。

ちなみに日本書紀の紀年をそのまま当てはめた戦前の説では肖古王、 貴須王は肖古王(在位:166年 - 214年)、 責稽王(在位:286年 - 298年)とされた。 「貴須王」と「責稽王」には文字の差が大きいが、 これもただの誤写だと片付けられていた。
枕流王、辰斯王についてはどう考察しても時代が120年下る人物であるが、 これは後代になっても百済が毎年貢物を奉じている旨を神功皇后の記事に挿入しただけであり、 肖古王・責稽王の時期とは分ける必要があるとしていた。

一方、 新羅については『三国史記』新羅本紀の婆娑尼師今と、 奈勿尼師今の子で倭国に人質として赴いた後に逃げ帰った未斯欣がそれぞれ『日本書紀』の波沙寐綿と微叱己知に該当すると思われるが、 婆娑尼師今と奈勿尼師今では大きく時代が異なる。
『三国史記』では新羅の未斯欣と百済の腆支(『日本書紀』では「直支(とき)」)はほぼ同時期に倭国の人質になっているが、 『日本書紀』では微叱己知と直支の日本滞在は重ならず、 80年もの差がある。
気長足姫(おきながたらしひめ)

神功皇后の諱(いみな)。

名はほかにも

德勒津宮(ところつのみや)

和歌山県和歌山市新在家に石碑(2箇所)が残っているだけ。