神功皇后(じんぐうこうごう)
作成日:2021/12/18
神功皇后(成務天皇40年 - 神功皇后69年4月17日)は、
日本の第14代天皇・仲哀天皇の皇后。
『日本書紀』での名は気長足姫で、
仲哀天皇崩御から応神天皇即位まで初めての摂政として約70年間君臨したとされる。
明治時代以前は、
神功皇后を第15代の帝と数えた史書が多数あったが、
歴代天皇から外した。
『大日本史』が採った立場に基づくものである。
この結果、第33代推古天皇が最初の女性天皇となった。
年表
- 西暦170年(成務天皇40年)
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- 西暦193年(仲哀天皇2年)
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- 西暦199年(仲哀天皇8年)
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- (1月)仲哀天皇。再叛した熊襲を討つため穴門豊浦宮、筑紫橿日宮に至るも熊襲との戦いに敗れる。
-
(9月)神功皇后が神がかり、渡海遠征するよう託宣。仲哀天皇は託宣を無視して熊襲と闘い敗北。
-
仲哀天皇は
熊襲討伐のため
神功皇后とともに
筑紫に赴き、
神懸りした
神功皇后から託宣を受けた。
それは「
熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を渡れば金銀財宝のある
新羅を戦わずして得るだろう」という内容だった。
しかし高い丘に登って大海を望んでも国など見えないため、
仲哀天皇はこの神は偽物ではないかと疑った。
祖先はあらゆる神を祀っていたはずであり、
未だ祀ってない神はいないはずでもあった。
神は再度、
神功皇后に神がかり「おまえは国を手に入れられず、妊娠した皇后が生む皇子が得るだろう」と託宣した。
これを無視して構わず
熊襲を攻めたものの空しく敗走。
- 西暦200年(仲哀天皇9年)
-
若井敏明著「邪馬台国の滅亡」吉川弘文館発行では仲哀天皇9年は西暦367年と推定している。
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- 西暦201年(神功摂政元年)
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- (2月)穴門豊浦宮に移動して天皇の殯を行い、京へと向かう。
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(3月)仲哀天皇の嫡男、次男である香坂皇子、忍熊皇子との滋賀付近での戦いで勝利し、そのまま都に凱旋した。
この勝利により神功皇后は
皇太后摂政となり、
誉田別尊を太子とした。
誉田別命(のちの
応神天皇)が即位するまで政事を執り行い聖母(しょうも)とも呼ばれる。
- (10月2日)神功皇后は摂政に就任。
- 西暦202年(神功皇后摂政2年)
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- 西暦203年(神功摂政3年)
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- 西暦205年(神功摂政5年)
神功摂政5年は、西暦205年または西暦325年
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4月12日(3月7日)新羅王が汗礼斯伐・毛麻利叱智・富羅母智らを遣わして朝貢した。
-
新羅王は、西暦200年(仲哀天皇9年10月)に差し出した人質・微叱許智伐旱を取り返したいと思っていた。
それで微叱許智伐旱に指示して、
使者の汗礼斯伐・毛麻利叱智らが私に告げて、
『我が王は私が久しく帰らないので、妻子を没収して官奴とした』と言い、
『願わくは暫く本土に帰還して、虚実を知りたいと思います』と言わせた。
神功皇后はこれを許した。
見張りとして葛城襲津彦を新羅に使わした。
対馬に至り、鋤海の水門に泊った。
新羅の使者・
毛麻利叱智らは、
密かに船の水夫を手配して、
微叱旱岐を乗せて新羅に逃した。
そして人形を作って、
微叱旱岐の床に置いて偽り、
病にかかったようにして、
葛城襲津彦に「
微叱旱岐が急に病にかかり、死んでしまいました」と言った。
葛城襲津彦は人を遣わして病人を調べさせた。
欺かれたことを知ると、
新羅の使者三人を捕らえて、
檻の中に入れて火で焼き殺した。
【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政五年三月己酉条】
その後
葛城襲津彦は蹈鞴津(たたらつ。釜山南の多大浦)から上陸し、
草羅城(くさわらのさし。慶尚南道梁山)を攻撃して捕虜を連れ帰った。
このときの捕虜は、桑原、佐備、高宮、忍海の四つの村の漢人の祖先である。
- 西暦213年(神功摂政13年)
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- 西暦246年(神功摂政46年)
神功摂政46年は、西暦246年または西暦366年
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- 西暦247年(神功摂政47年)
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- 西暦249年(神功摂政49年)
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- 西暦250年(神功摂政50年)
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- (2月)荒田別が復命。
- (5月)千熊長彦に伴われて久氐が来朝。
- 西暦251年(神功摂政51年)
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- 西暦252年(神功摂政52年)
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- (9月)久氐が来朝、七枝刀一口・七子鏡一面・及び種々の重宝を献上。
- 西暦253年(神功摂政53年)
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- 西暦256年(神功摂政56年)
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- 西暦262年(神功摂政62年)
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- 西暦264年(神功摂政64年)
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- 西暦265年(神功摂政65年)
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- 西暦269年(神功摂政69年)
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略歴
父は開化天皇の玄孫・息長宿禰王で、
母は天之日矛の子孫・葛城高顙媛。
弟に息長日子王、妹に虚空津比売、豊姫がいる。
明治時代までは一部史書(『常陸国風土記』『扶桑略記』『神皇正統記』)で第15代天皇、
初の女帝(女性天皇)とされていたが、
大正15年(西暦1926年)の皇統譜令(大正15年皇室令第6号)に基づく皇統譜より正式に歴代天皇から外された。
摂政69年目に崩御。
名
- 気長足姫尊/氣気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと) - 『日本書紀』、和風諡号
- 息長帯姫大神(おきながたらしひめのみこと) - 『古事記』
- 大帯比売命(おおたらしひめのみこと) - 『古事記』
- 大足姫命皇后 - 『続日本後紀』
- 大帯日姫 - 『日本三代実録』
- 氣長足比賣命(おきながたらしひめのみこと)
- 息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)
- 大足姫命(おおたらしひめのみこと)
- 息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)
- 息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
漢風諡号である「神功皇后」は、
代々の天皇と同様、
奈良時代に淡海三船によって撰進された。
親族
-
祖父:迦邇米雷王
祖母:高材比売
-
父親:息長宿禰王
母親:葛城高顙媛
- 配偶者:
- 仲哀天皇
-
熊襲征伐
仲哀天皇2年1月11日に立后。
2月、天皇と共に角鹿の笥飯宮(けひのみや)へ。
3月、天皇が紀伊国の德勒津宮に向かうが皇后は角鹿に留まる。
同月、天皇が熊襲再叛の報を聞き親征開始。穴門で落ち合うよう連絡を受ける。
7月、穴門豊浦宮で天皇と合流。
西暦199年(仲哀天皇8年)、天皇と共に筑紫橿日宮へ移動して神託を行い神懸った。託宣の内容は「熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を渡り金銀財宝のある新羅を攻めるべし」というものだった。
天皇はこの神を信じず熊襲を攻めたが空しく敗走。
翌、西暦200年(仲哀天皇9年)2月6日に天皇が筑紫橿日宮にて急死。
『日本書紀』内の異伝や『天書紀』では熊襲の矢が当たったという。
仲哀天皇9年3月1日、
小山田邑の斎宮で武内宿禰を審神者として再び神託を行い、
前年に託宣した神が撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(天照大神荒魂)、
事代主神、
住吉三神などであることを確認した。
しかしひとまずは目の前の熊襲征伐を続行することとなり吉備鴨別を派遣して熊襲を従わせた。
3月17日、
皇后自ら松峽宮(福岡県筑前町)に移動し、
20日に層増岐野(そそきの)で羽白熊鷲という者を討った。
そばの人に「熊鷲を取って心が安らかになった」と言われたので、
そこを安(夜須)という。
3月25日には筑後川下流域の山門県に移動して田油津媛という女酋を討ちとり、
兄の夏羽は戦わずして逃げ出した。
この女酋田油津姫は邪馬台国女王の末裔とする説もある。
いずれにせよ最後まで抵抗していた九州北部もヤマト王権の支配下になり、
ここにヤマト王権の全国制覇が完了したとされる。
三韓征伐
三韓征伐
三韓征伐とは、
神功皇后が夫・
仲哀天皇の
崩御後の
西暦200年(
仲哀天皇9年)に
新羅に出兵し、
朝鮮半島の広い地域(三韓)を服属下においたとする日本における伝承である。
経緯は『
古事記』『
日本書紀』に記載されているが、
朝鮮や中国の歴史書や碑文にも関連するかと思われる記事がある。
西暦200年(
仲哀天皇9年4月)、
肥前国松浦郡で
誓約を行った
皇后は渡海遠征の成功を確信し、
神田を作ったのちに
筑紫橿日宮へ戻った。
そして
角髪を結って男装すると渡海遠征の全責任を負うことを宣言した。
9月には(筑紫夜須)にて大三輪神を祀り矛と刀を奉し船と兵を集めた。
また草という
海人を派遣して
新羅までの道を確かめさせた。
さらに軍規を定めて略奪、婦女暴行、敵前逃亡などを禁じ、
依網吾彦男垂見(よさみのあびこおたるみ)に航海の無事を祈らせた。
10月、お腹に子供(のちの
応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して
新羅の国を攻めた。
その勢いは船が山に登らんばかりだったという。
新羅の王は「吾聞く、東に日本という神国有り。亦天皇という聖王あり。」と言い白旗を上げ、
戦わずして降服し
朝貢することを誓った。
神功皇后は宝物庫に入って地図と戸籍を手に入れ、
また王宮の門に矛を突き立てて宗主権を誇示した。
新羅王の波沙寐錦(はさ むきん)は微叱己知(みしこち)という王族を人質に差し出し、
さらに金・銀・絹を献上した。
これを見た
高句麗・
百済も
朝貢を約束した。
帰国した後の12月14日、
皇后は筑紫で
誉田別尊を出産した。
出産した土地を「生み」から転じて「宇美」という。
そして
穴門の山田邑で住吉三神を祀った。
忍熊王との戦い
新羅を討った翌年(摂政元年)2月、
皇后は群臣を引き連れて穴門豊浦宮に移り天皇の殯を行った。
そして畿内への帰途についた。
しかし都には天皇の長男、次男である麛坂王、忍熊王がいた。
彼らは誉田別尊の誕生を知り、
皇后たちがこの赤子を君主(天皇、あるいは太子)に推し立ててくることを察した。
そこで播磨の赤石に父の山陵を作ると称して挙兵、
五十狹茅宿禰(いさちのすくね)に命じて東国から兵を集めさせた。
そして菟餓野というところで「戦いに勝てるならば良い猪が捕れる」と誓約(うけい)の狩りを行った。
ところが突然現れた獰猛な赤い猪に麛坂王は食い殺されてしまった。
凶兆と理解した忍熊王は住吉まで撤退した。
忍熊王たちが待ち受けていることを知った皇后は、
一旦紀伊に寄って誉田別尊を預けて北上。
しかし紀淡海峡を突破できなかったため明石海峡を回って務古水門に到着。
道中で天照大御神、稚日女尊、事代主神、住吉三神を祀った後に進撃。
忍熊王はまた撤退して山背の菟道に陣を敷き、ここが決戦の場となった。
忍熊王方の熊之凝(くまのこり)という者が歌を詠み軍を鼓舞した。
彼方の あらら松原 松原に 渡り行きて 槻弓に まり矢をたぐへ 貴人(まれびと)は 貴人どちや いざ鬪はな 我は たまきはる 内の朝臣が 腹内は 砂あれや いざ鬪はな 我は
皇后軍を率いる武内宿禰や武振熊命は一計を案じて偽りの和睦を申し出た。
兵に命じて弓の弦を切らせ剣も捨てさせた。
忍熊王がそれに応じて自軍にも同じようにさせると武内宿禰は再び号令し、
兵に替えの弦と剣を取り出させた。
予備の兵器など用意していなかった忍熊王は敗走した。
武内宿禰は逢坂山を超えて狹々浪の栗林(滋賀県大津市膳所)まで追撃した。
逃げ場のなくなった忍熊王は五十狹茅宿禰を呼びよせ歌を詠んだ。
いざ吾君 五十狹茅宿禰 たまきはる 内の朝臣が 頭槌の 痛手負はずは 鳰鳥の 潜爲な
忍熊王と五十狹茅宿禰は共に瀬田川へ入水し、遺体は後日になって引き上げられた。
同年10月、皇后は群臣に皇太后と認められた。
この年が摂政元年(若井敏明によると西暦368年に比定)である。
摂政2年11月8日、天皇を河内国長野陵に葬った。
摂政3年1月3日、誉田別尊を太子とし、磐余若桜宮に遷都。
摂政13年、2月に太子が武内宿禰に連れられて角鹿の笥飯大神に参拝。
笥飯宮出発から始まった皇太后の遠征事業はここに終わり、酒宴が催された。
新羅再征
摂政5年3月7日、
本国に一時帰国したいという微叱己知(新羅からの人質)の願いを聞き入れて葛城襲津彦を監視に付けるも逃がしてしまう。
摂政46年3月、
斯摩宿禰を朝鮮半島の卓淳国(大邱)に派遣。斯摩宿禰はさらに百済へ使者を送り、
百済から日本への道を繋いだ。
翌年4月、新羅と百済が朝貢してきた。
百済の貢物が酷くみすぼらしいので使者の久氐を問い詰めたところ、
新羅に貢物を奪われたと訴えた。
摂政49年、新羅を再征伐することになった。
将軍として派遣された荒田別(あらたわけ)・鹿我別(かがわけ)は百済の木羅斤資(もくらこんし)・沙々奴跪(ささなこ)と共に七つの国を平定した。
以後、摂政52年まで久氐が日本と百済を往復し、
百済から宝物をもたらした。
葛城襲津彦の新羅征討
神功皇后62年(西暦262年または西暦382年)、
葛城襲津彦を遣わして新羅を撃たせる。
『百済記』によれば壬午年(西暦382年)、
新羅は日本に朝貢しなかったため、
日本は沙至比跪(さちひこ、襲津彦)を派遣し新羅を討伐した。
しかし、沙至比跪は新羅の美女に心を奪われ矛先を加羅に向け、
加羅を滅ぼす。
加羅国王己早岐、児白久至らは、百済に亡命する。
加羅国王の妹既殿至は、大倭(やまと)の天皇に直訴すると、
天皇は怒って、
木羅斤資(もくらこんし)を使わし沙至比跪を攻め、
加羅を戻した。
また、沙至比跪は天皇の怒りが収まらないことを知ると石穴で自殺したともいう。
葛城襲津彦については、神功代以降も、次のような記録がある。
-
応神14年 百済の弓月君が誉田天皇に対し、
百済の民人を連れて帰化したいけれども新羅が邪魔をして加羅から海を渡ってくることができないことを告げる。
天皇は襲津彦を加羅に遣わして百済の民を連れ帰るように命令するが、
3年、音沙汰もなくなった。
-
応神16年8月、
天皇は平群木菟宿禰・的戸田宿禰に「襲津彦が帰ってこないのはきっと新羅が邪魔をしているのに違いない、
加羅に赴いて襲津彦を助けろ」といって、
加羅に兵を派遣した。
新羅の王はその軍勢に怖じけづいて逃げ帰った。
そして襲津彦はやっと弓月氏の民を連れて帰国した。
-
仁徳天皇41年3月、
紀角宿禰に無礼をはたらいた百済王族の酒君(さけのきみ)を、
百済王が襲津彦を使って天皇のところへ連行させる。
以上の記述において日本書紀の紀年を記載したが、
日本書紀の紀年論にみられるごとく年代はいまだ確定していない。
そのため、神功皇后の活躍、三韓征伐のあった年代および、
その史実の妥当性についての研究が続いている。
紀年については、『日本書紀』は百済三書の一つ『百済記』を参照または編入している。
百済記の年月は干支で記しているので60年で一周するが、
『日本書紀』の編者は日本の歴史の一部を2周(2運=120年)繰り上げて書いているとされており、
百済記もそれに合わせて引用されているので、
当該部分の記述も実年代とは120年ずれていると考えられる。
井上光貞によれば、
日本書紀の編纂者は神功皇后を卑弥呼に比定したこともあって、
干支を2運繰り上げたとしている。
また、百済記は早くから暦を導入しており、紀年は正確とみられている。
宮(皇居)
陵・霊廟
神功皇后の陵(みささぎ)は、
宮内庁により奈良県奈良市山陵町にある
狹城盾列池上陵に治定されている。
宮内庁上の形式は前方後円。
後円部頂に祠があったことから、俗に五社神ともよぶ。
遺跡名は「五社神古墳」で、墳丘長275メートルの前方後円墳である。
神功皇后の陵について、
『
古事記』では「御陵は沙紀の盾列池上陵(さきのたたなみのいけがみのみささぎ)に在り」、
『
日本書紀』では「狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬る」と記している。
西暦843年(
承和10年)、
盾列陵で奇異があり、
調査の結果、
神功皇后陵と
成務天皇陵を混同していたことがわかったという記事が『続日本後紀』にある。
後に、
「御陵山」と呼ばれていた佐紀陵山古墳(現 日葉酢媛陵)が
神功皇后陵とみなされるようになり、
神功皇后の神話での事績から安産祈願に霊験ありとして多くの人が参拝していた。
その後、
西大寺で「京北班田図」が発見され、
これにより
神功皇后陵が五社神古墳とされ、
西暦1863年(
文久3年)に五社神古墳が
神功皇后陵に治定され、
現在に踏襲されている。
西暦2008年、
宮内庁は日本考古学協会などの要請に応じ、
五社神古墳の立ち入り調査を許可した。
これは、
考古学者の要請に答えて古墳の調査が許可された初めての例となった。
ただし調査は古墳外周の表層だけとされたため、
調査ではさしたる成果は上がっておらず、
宮内庁調査の確認と円筒埴輪列が新たに発見されたに留まっている。
この古墳は
4世紀中から末
5世紀初めの築造とされていたが、
円筒埴輪列によってやや新しく(
5世紀)なるのではないかと推測される。
考証
実在性と実態
明治から太平洋戦争敗戦までは学校教育の場で実在の人物として教えられていたが、
現在では実在説と非実在説が並存している。
直木孝次郎は、
「斉明天皇と持統天皇が神功皇后のモデルではないか」の説を唱えている。
実在すると仮定しても皇后となるには仲哀天皇と血縁が離れすぎており、
一方で香坂王、
忍熊王の母である大中姫命は皇后より下位の妃(みめ)と記述されているものの天皇の従姉妹なので血縁の近さを重視する古代においてはより皇后にふさわしい。
大中姫命が真の皇后だった場合、
神功皇后と後に呼ばれた気長足姫は仲哀天皇とともに行った九州遠征で成果を出して、
武内宿禰や武振熊命の協力を得てクーデターを起こしたことになる。
また上記のように仲哀天皇崩御から応神天皇即位まで初めての摂政として約70年間君臨したとされるが、
その間は天皇不在の空位である。
神功皇后は摂政のまま崩御するまで息子を皇位につかせなかったことになるが、
仮に女帝として即位していたのならこの不自然さは和らぐ。
即位説
『新唐書』列伝第145 東夷 日本に「仲哀死、以開化曽孫女神功為王」。
『宋史』列伝第250 外国7 日本国に「次 神功天皇 開化天皇之曽孫女、又謂之息長足姫天皇」。
とあるが、
『宋史』には10世紀に日本から渡った僧・奝然が伝えた『王年代紀』の内容を掲載したと明記されている。
『新唐書』が編纂されたのも11世紀であり、やはり『王年代紀』を参照したと考えられる。
明治時代以前は、
神功皇后を天皇(皇后の臨朝)とみなして、
第15代の帝とした史書もあったが、
西暦1926年(大正15年)10月の皇統譜令に基づく皇統譜から歴代天皇から外された。
卑弥呼との関係
『日本書紀』には、
「倭の女王」についての記述が引用されている。
引用元は『魏志』と、
『晋起居注』(現存しない)である。
『魏志』での倭の女王とは邪馬台国の卑弥呼のことであり、
江戸時代までは神功皇后が卑弥呼だと考えられていた。
ただし倭の女王の記述はあくまでも引用されているだけであり神功皇后と卑弥呼、
台与を同一視する記述はなく、
卑弥呼、
台与、
邪馬台国といった、
魏国が書き記した名称も『日本書紀』には書かれていない。
『魏志』からの引用は現存する『魏志』と相違があり、
特に人名・役名に相違が多いため、
以下の訳文では現存の『魏志』に基づく人名・役名を示す。
-
魏志云「神功皇后摂政39年(西暦239年)」
魏志云「明帝景初三年六月 倭女王 遣大夫難斗米等 詣郡 求詣天子朝獻 太守鄧夏 遣吏將送詣京都也」
【訳】
魏志によると明帝の景初3年6月、倭の女王は大夫の難升米等を郡(帯方郡)に遣わし天子への朝獻を求め、太守の劉夏は吏將をつけて都に送った
-
神功皇后摂政40年(西暦240年)
魏志云「正始元年 遣建忠校尉梯携等 奉詔書印綬 詣倭国也」
【訳】
魏志によると正始元年、建中校尉の梯儁らを遺わして倭國に詔書・印綬を与えた
-
神功皇后摂政43年(西暦243年)
魏志云「正始四年 倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻」
【訳】
訳:魏志によると正始4年、倭王はまた大夫の伊聲耆・掖邪狗たち8人を遣わして朝貢した
-
神功皇后摂政66年(西暦266年)
是年 晋武帝泰初二年晋起居注云「武帝泰初二年十月 倭女王遣重譯貢獻」
【訳】
この年は晋の武帝の泰初(泰始の誤り)2年である。晋の起居注という記録によると泰初2年10月に倭の女王が使者を送り通訳を重ねて朝貢した
以上が引用された全文である。
現存の『魏志』では最初の遣使は景初2年(西暦238年)であり、
明帝(曹叡)は景初3年1月に死去している。
『晋起居注』の引用では泰始を泰初とした元号の誤りがあるが、
『注』が現存しないため引用の誤りとは断定できない。
また泰始2年に卑弥呼は既に死去しており、
この年の倭の女王は台与の可能性が高いとされている。
現存する『晋書』武帝紀では泰始2年(西暦266年)11月に倭人が朝貢したこと、四夷伝では泰始の初めに倭人が通訳を重ねて朝貢したことは書かれているが、
いずれも女王という記述は無い。
注1
肖古王、貴須王、枕流王、辰斯王は同じくそれぞれ朝鮮半島の正史である『三国史記』
百済本紀の近肖古王(在位:346年 - 375年)、近仇首王(在位:375年 - 384年)、枕流王(在位:384年 - 385年)、辰斯王(在位:385年 - 392年)と考えられている。
紀年が120年ずれているが、各王の在位期間がほぼ一致する。
井上光貞も『日本書紀』の編者が神功皇后を卑弥呼に比定したため干支を二運繰り上げたという説を支持している。
ただし井上秀雄は、
百済記の年紀は干支だけの簡単なものでありそれだけでは絶対年代が確定せず、
『日本書紀』も『三国史記』百済本紀も、
それぞれの編者が独自に考証して絶対年代を付与したものであって、
既存の伝承があった上でそれよりも上げたり下げたりしたわけではない、
とみている。
いずれにせよ年代がずれているだけなので、
少なくとも神功皇后摂政紀においていわゆる二倍暦説は当てはまらない可能性が高い。
ちなみに日本書紀の紀年をそのまま当てはめた戦前の説では肖古王、
貴須王は肖古王(在位:166年 - 214年)、
責稽王(在位:286年 - 298年)とされた。
「貴須王」と「責稽王」には文字の差が大きいが、
これもただの誤写だと片付けられていた。
枕流王、辰斯王についてはどう考察しても時代が120年下る人物であるが、
これは後代になっても
百済が毎年貢物を奉じている旨を神功皇后の記事に挿入しただけであり、
肖古王・責稽王の時期とは分ける必要があるとしていた。
一方、
新羅については『三国史記』
新羅本紀の婆娑尼師今と、
奈勿尼師今の子で倭国に人質として赴いた後に逃げ帰った未斯欣がそれぞれ『日本書紀』の波沙寐綿と微叱己知に該当すると思われるが、
婆娑尼師今と奈勿尼師今では大きく時代が異なる。
『三国史記』では
新羅の未斯欣と
百済の腆支(『日本書紀』では「直支(とき)」)はほぼ同時期に倭国の人質になっているが、
『日本書紀』では微叱己知と直支の日本滞在は重ならず、
80年もの差がある。
気長足姫(おきながたらしひめ)
神功皇后の諱(いみな)。
名はほかにも
- 気長足姫尊/氣気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと) - 『日本書紀』、和風諡号
- 息長帯姫大神(おきながたらしひめのみこと) - 『古事記』
- 大帯比売命(おおたらしひめのみこと) - 『古事記』
- 大足姫命皇后 - 『続日本後紀』
- 大帯日姫 - 『日本三代実録』
- 氣長足比賣命(おきながたらしひめのみこと)
- 息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)
- 大足姫命(おおたらしひめのみこと)
- 息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)
- 息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
德勒津宮(ところつのみや)
和歌山県和歌山市新在家に石碑(2箇所)が残っているだけ。