野見宿禰(のみのすくね)
土師連(はじのむらじ)の祖。
土師弩美宿禰(はじののみのすくね)とも記す。『播磨国風土記』
垂仁天皇の即位7年、垂仁天皇は出雲
国造家の野見宿禰を召喚した。
当麻村に当麻蹴速(たいまのけはや)という強者がいたからである。
当麻蹴速は「自分より強いものはいないのか、全力で力比べできる相手はいないものか」と吹聴していた。
そこで野見宿禰を当麻蹴速と戦わせたところ、
互いに蹴り合った末に野見宿禰が当麻蹴速の腰を踏み折って勝った。
これが相撲節会の起源だとされる。
天皇は当麻蹴速が持っていた
大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を野見宿禰に与えた。
それからしばらくたった即位32年、
皇后の
日葉酢媛命が亡くなった。
少し前の即位28年に亡くなった倭彦命の葬儀で近習者を集めて殉死させた有様があまりに惨たらしかったため、
天皇は殉死の風習に代わるものを考えていた。
そこに野見宿禰が進み出て出雲国から100人の土部(はじべ)を呼び寄せることにした。
野見宿禰たちは人や馬の形をした焼き物を作り殉死者の代わりとしてはどうかと提案した。これが埴輪の起源だとされる。
天皇はこれを称えて野見宿禰に土師臣(はじのおみ)の姓を与えた。
なお考古学的には人型や馬型の埴輪はかなり後になって出てくるものであり、
この説話は正しくないことがわかっている。
『古事記』には「石祝(棺か)作りを定め、
土師部(はにしべ)を定めたまいき」とある。
石棺を作る
部民や赤土で種々の器を作る部民を定めたという意味である。