陵(みささぎ)は、 宮内庁により滋賀県米原市村居田字北屋敷にある息長陵(おきながのみささぎ)に治定されている。 宮内庁上の形式は円丘。 遺跡名は「村居田古墳」。
広姫の陵について『日本書紀』に記載はないが、
『延喜式(諸陵寮)』では遠墓の「息長墓」として記載され、
近江国坂田郡の所在で、
兆域は東西1町・南北1町で守戸3烟を毎年あてるとする。
その後、息長墓の所在に関する所伝は失われ、
後世の坂田郡内には「皇后塚」と称される古墳が数ヶ所存在した。
村居田の皇后塚(村居田古墳)は、
元々は現陵でなく荒陵山光運寺境内地に存在した古墳を指した。
その古墳は西暦1696年(元禄9年)の光運寺建立の際に大部分が削平され、
その際には石室・家形石棺とともに宝冠・大刀・鏡が出土したが、
出土品の入った石棺は光運寺隣接地の堀居氏の庭に埋納されたという。
西暦1874年(明治7年5月)に教部省により当地が息長陵に考証され、
西暦1875年(明治8年7月)には掌丁付置が命じられたが、
上述の経緯を踏まえて同年9月に遺物埋納地に円丘が築かれてそれが息長陵に定められた。
西暦1877年(明治10年)の兆域確定の際には、
光運寺南側の皇后塚残丘は息長陵付属地と定められ、
陵の参道に囲い込まれている。
ただし考古学的には、
この皇后塚は古墳時代中期の5世紀代の築造と見られ、
広姫の墓とするには否定的な見解が強い。
広姫の出自の息長氏は、近江国坂田郡を本貫とした氏族である。
『古事記』・『日本書紀』の記す上代では、
「息長」を名に含む人物や、
皇室と婚姻関係を持った息長氏出身人物が知られ、
広姫もその1人になる。
この息長氏に関する諸説の中で、
皇室との確実な婚姻関係を持ったのは広姫と推測し、
天智天皇・天武天皇が「皇祖大兄」と位置づける押坂彦人大兄皇子をこの広姫が産んだことから、
上古の息長氏関係系譜は広姫(および皇親息長氏)の顕彰のための述作とする説がある。