『延喜式(諸陵寮)』には「成相墓(ならひのはか)。押坂彦人大兄皇子。在大和国廣瀬郡。兆域東西廿五町。南北廿町。守戸五烟」とあり、記載のとおりとすればその規模は現在日本最大の大仙陵古墳(同じく『延喜式』に「兆域東西八町。南北八町。陵戸五烟。」とある)の10倍以上の広さがあったことになる。
墓陵には現在の奈良県広陵町の牧野古墳を推定する研究がある。
忍坂部や丸子部といった押坂彦人大兄皇子伝来の私領は「皇祖大兄御名入部」と呼ばれ、 以後も息子である舒明から孫の中大兄皇子(後の天智天皇)らへと引き継がれて、 大化の改新後に国家に返納された(『日本書紀』大化2年3月壬午条)と考えられており、 彦人大兄の死後においても、 皇子の系統が蘇我氏や上宮王家に対抗して舒明即位から大化の改新の実現を可能にしたのは、 こうした財政的裏付けの存在があったからだと言われている。
系譜(主として『古事記』に拠る。)
妃:小墾田皇女(おはりたのひめみこ。敏達天皇・推古天皇の皇女)
妃:桜井弓張皇女(さくらいのゆみはりのひめみこ、桜井玄王。敏達天皇・推古天皇の皇女。小墾田皇女の同母妹。婚姻前もしくは押坂彦人大兄皇子の死後来目皇子妃か)
山代王(やましろのみこ)
笠縫王(かさぬいのみこ)
妃:糠手姫皇女(ぬかでひめのみこ、宝王・田村皇女。敏達天皇の皇女)
田村王(たむらのみこ)(舒明天皇)
中津王(なかつみこ)
多良王(たらのみこ)
妃:大俣王(おおまたのみこ。漢王の妹)
茅渟王(ちぬのみこ、智奴王。宝女王(皇極、斉明天皇)・孝徳天皇の父)
桑田王(くわたのみこ、女性)
4人の妃が確認されるが、うち3人は押坂彦人大兄皇子にとって異母姉妹に当たる。
なお、『新撰姓氏録(左京皇別)』に敏達天皇の孫として見える「百済王(くたらのみこ)」も彦人大兄皇子の子であることは確実だが、
『古事記』に掲げられた系譜には見えないため、
多良王(久多良王の久が脱落)や茅渟王と同一人に考える説がある。