仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
作成日:2019/10/3
《紀》:日本書紀による記述
《記》:古事記による記述
年表
- 西暦148年(成務天皇18年)
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- 西暦178年(成務天皇48年)
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- (8月)足仲彦尊(のちの仲哀天皇)31歳(『日本書紀』による)で皇太子に立てられる。
- 西暦190年(成務天皇60年)
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(6月11日)成務天皇107歳で崩御。
『
古事記』では95歳で乙卯年3月15日に崩じたとされる。
- 西暦192年(仲哀天皇元年)
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- 西暦193年(仲哀天皇2年)
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(1月11日)気長足姫(のちの神功皇后)を立后。
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既に、従妹の
大中姫命との間に
麛坂皇子、
忍熊皇子を得ている。
- (2月)角鹿の笥飯宮へ。淡路に屯倉を設ける。
- (3月)紀伊国の德勒津宮へ。同地で熊襲再叛の報を聞き親征開始。
- (6月)再叛した熊襲を討つため親征し穴門豊浦宮に滞在。
- 西暦199年(仲哀天皇8年)
- (1月)再叛した熊襲を討つため穴門豊浦宮、筑紫橿日宮に至るも熊襲との戦いに敗れる。
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(9月)神功皇后が神がかり、渡海遠征するよう託宣。無視して熊襲と闘い敗北。
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仲哀天皇は
熊襲討伐のため
神功皇后とともに
筑紫に赴き、
神懸りした
神功皇后から託宣を受けた。
それは「
熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を渡れば金銀財宝のある
新羅を戦わずして得るだろう」という内容だった。
しかし高い丘に登って大海を望んでも国など見えないため、
仲哀天皇はこの神は偽物ではないかと疑った。
祖先はあらゆる神を祀っていたはずであり、
未だ祀ってない神はいないはずでもあった。
神は再度、
神功皇后に神がかり「おまえは国を手に入れられず、妊娠した皇后が生む皇子が得るだろう」と託宣した。
これを無視して構わず
熊襲を攻めたものの空しく敗走。
- 西暦200年(仲哀天皇9年)
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(2月6日)仲哀天皇、親征先の筑紫で崩御。享年53歳(『古事記』も同じ)
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仲哀天皇は神の託宣に従わず
熊襲を攻めたため、
神の怒りに触れ急死したと見なされた。
『
日本書紀』内の一書(異説)や『天書紀』では
熊襲の矢に当たり、
穴門豊浦宮、
筑紫橿日宮(訶志比宮、現香椎宮)で
崩御したとされる。
遺体は
武内宿禰により海路で穴門(穴戸、現在の下関海峡)を通って
穴門豊浦宮(現下関市長府)で殯された。
下関市長府の日頼寺に宮内庁が管轄する「
御殯斂地」がある。
- (12月)気長足姫(のちの神功皇后)、仲哀天皇の遺児である誉田別尊(のちの応神天皇)を出産。
- 西暦202年(神功皇后摂政2年)
- (11月)恵我長野西陵に葬られた。
略歴
景行天皇皇子である日本武尊の第2子。
母は垂仁天皇の皇女・両道入姫命。
成務天皇の甥。
成務天皇48年に立太子。
先帝が崩御した2年後に即位。
即位2年、気長足姫を皇后とした(神功皇后)。
これより前に従妹の大中姫命との間に麛坂皇子、忍熊皇子を得ている。
再叛した熊襲を討つため親征し穴門豊浦宮に滞在。
即位8年、穴門豊浦宮、筑紫橿日宮に至るも熊襲との戦いに敗れる。
即位9年、親征先の筑紫で崩御。
その後、皇后が誉田別命(のちの応神天皇)を生んだ。
『日本書紀』の仲哀天皇に関する記述を歴史的事実と認める戦前の研究では、
仲哀天皇の時代は4世紀に該当するとされていた。
しかし日本武尊、神功皇后という伝説的な二人の人物を近親者に持つことから、実在性の低い天皇の一人に挙げられている。
名
- 足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと) - 『日本書紀』、和風諡号
- 足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと) - 『日本書紀』
- 帯中日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと) - 『古事記』
漢風諡号である「仲哀天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。
なお、門脇禎二によれば、諡法においては「仲」の字は配すべからざる語であり、
漢風諡号としては異例であるとされる。
事績
容姿端正、身長一丈(約3メートル)。
『日本書紀』によれば、叔父の成務天皇に嗣子がなく成務天皇48年3月1日に31歳で立太子。
皇太子13年を経て先帝崩御二年後の1月に即位。
白鳥となって天に昇った父の日本武尊(景行天皇43年死去)を偲んで諸国に白鳥を献じることを命じたが、
異母弟の蘆髪蒲見別王が越国の献じた白鳥を奪ったため誅殺したとある。
即位2年1月11日、天皇は気長足姫(成務天皇40年誕生)を皇后(神功皇后)とする。
2月、角鹿の笥飯宮へ。
同月、淡路に屯倉を設ける。
3月、紀伊国の德勒津宮へ。
同地で熊襲再叛の報を聞き親征開始。
6月、穴門の豊浦津へ至る。
即位8年、
熊襲討伐のため皇后とともに筑紫に赴いた天皇は神懸りした皇后から託宣を受けた。
それは「熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を渡れば金銀財宝のある新羅を戦わずして得るだろう」という内容だった。
しかし高い丘に登って大海を望んでも国など見えない。
歴代天皇があらゆる神を祀っていたというのに未だ祀っていない神がいるとも考えられない。
そこで天皇は神が偽物ではないかと疑った。
神は再度、皇后に神がかり「天皇は国を手に入れられず、妊娠した皇后が生む皇子が得るだろう」と託宣した。
それでも神を信じられない天皇は構わず熊襲を攻めたものの、
空しく敗走。
翌年2月に天皇は急に崩じてしまい、神の怒りに触れたと見なされた。
『日本書紀』内の一書(異説)や『天書紀』では熊襲の矢に当たり、
穴門豊浦宮、橿日宮(訶志比宮、現香椎宮)で崩御したとされる。
遺体は武内宿禰により海路で穴門(穴戸、現在の下関海峡)を通って穴門豊浦宮(現下関市)で殯された。
親族
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祖父:
祖母:
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父親:日本武尊
母親:両道入姫命
- 皇后:気長足姫(息長宿禰王の女)
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- 妃:大中姫命(おおなかつひめのみこと。彦人大兄の女)
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- 麛坂皇子(かごさかのみこ、香坂王)
- 忍熊皇子(おしくまのみこ)
- 妃:弟媛(おとひめ。来熊田造の祖・大酒主の女)
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- 誉屋別皇子(ほむやわけのみこ、古事記では神功皇后所生)
宮
陵・霊廟
陵(みささぎ)の名は惠我長野西陵(恵我長野西陵:えがのながののにしのみささぎ)。
宮内庁により大阪府藤井寺市藤井寺4丁目にある遺跡名「岡ミサンザイ古墳」に治定されている。
墳丘長242メートルの前方後円墳である。
宮内庁上の形式は前方後円。
『古事記』には「御陵は河内の恵賀(えが)の長江にあり」、
『日本書紀』には「河内国長野陵」とある。
『延喜式(諸陵寮)』には「兆域東西二町、南北二町、陵戸一烟、守戸四烟」と見える。
岡ミサンザイ古墳は幅50m以上の周濠が巡らされているが、
中世に城砦として利用されていたため、部分的に改変されている。
伝承
『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである。
- 岡浦の航海
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熊襲征伐の際、豊浦津から筑紫に入ろうとした天皇を熊鰐という者が周芳の佐波(山口県防府市佐波)で出迎えた。
船首には大きな賢木(さかき)が立てられており上枝に白銅鏡、中枝に十握劒、下枝に八尺瓊が掛かっていた。
熊鰐は六連島、藍島、逆見海といった魚や塩がとれる海域を献上して水先案内を行った。
しかし山鹿岬から岡浦の水戸(みなと)に入ったところで船が進まなくなってしまった。
熊鰐に聞くと、この浦のほとりにいる大倉主、菟夫羅媛(つぶらひめ)という男女の神の意志だという。
そこで菟田出身の伊賀彦という舵取りに祭らせると船は無事進んだ。
後から来た皇后もまた船が進まず熊鰐が導いた。
これらの功から熊鰐は岡県主となった。
さらに進むと五十迹手(いとて)という者が穴門の引嶋で出迎えた。
周芳の熊鰐のときと同じく船主には大きな賢木(さかき)が立てられており上枝に八尺瓊、中枝に白銅鏡、下枝には十握剣が掛かっていた。
八尺瓊は智謀、白銅鏡は見識、十握剣は武力を象徴していると説明された天皇は五十迹手を褒め称え「伊蘇志(いそし)」「よくやった」と褒めたたえた。
そこでこの国を伊蘇国といい、訛って伊都国という。
その後、天皇は無事に灘県に到着して橿日宮を造営した。
賢木(榊)に神器を掲げて貴人を出迎える事例は景行紀にも書かれている。
熊鰐と同じく周芳の佐波で天皇を出迎えた神夏磯媛(かむなつそひめ)の船首には磯津山(しつのやま)の賢木が立てられており上枝に八握剣、中枝に八咫鏡、下枝に八尺瓊が掛かっていた。
神代にも天岩戸に籠る天照大御神を呼び出すため太玉命と天児屋命が天香久山から眞坂樹(まさかき)を掘り出して上枝に八坂瓊、中枝に八咫鏡、下枝に和幣を掛けたという話がある。
- 大祓
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『古事記』によると息長帯日売命(神功皇后)が神がかったとき、天皇は琴を弾き建内宿禰は神の言葉を受けた。
皇后は西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託を告げた。
しかし天皇はこれを疑い琴を弾くのをやめてしまった。
神はとても怒り天皇へ死を宣告した。
建内宿禰は恐れおののき琴を弾き続けるように奏上した。
天皇は渋々従ったものの、そのうちに琴の音が聞こえなくなった。
灯りをつけると天皇は崩御していた。
急遽、穴門豊浦宮で殯が行われた。
『日本書紀』では密かに行われたものであるが『古事記』によると大祓(おおはらえ)という大々的なものだった。
「生剥、逆剥、阿離、溝埋、屎戸、上通下通婚、馬婚、牛婚、鶏婚、犬婚の罪を様々に求めて祓った」とある。
このうち生剥から屎戸までは神代に素戔嗚尊が天上で犯した罪と同じである。
上通下通婚は近親相姦、馬婚から犬婚は獣姦である。
神の意志に逆らった天皇の葬儀にこのようなものが集められ祓われた。
考証
- 実在性
-
現在、仲哀天皇は実在性の低い天皇の一人に挙げられている。
その最大の根拠は、彼が実在性の低い父(日本武尊)と妻(神功皇后)を持っている人物とされているためである。
仲哀天皇は日本武尊と神功皇后の説話を皇室系譜上に位置づけるため、後次的に歴史に加えられた存在である可能性が強い。
また仲哀紀には、日本武尊の白鳥伝説に関連した説話と神功皇后の新羅征討につながる説話しかなく、このふたりの伝承を天皇紀に組み込む装置としての仲哀天皇の位置づけがよくあらわされている。
もとより日本武尊の話は複数の大和地方の英雄の事跡を小碓命(おうすのみこと)一人にあてがって一大英雄伝説に仕立て上げたもの、
神功皇后の話は三国時代から持統天皇による文武天皇擁立までの日朝関係の経緯を基に神話として記紀に挿入されたものであり、
この二人の存在および彼らにまつわる物語を史実として語るために創作され記紀に挿入されたのが仲哀天皇だとする説もある。
さらに「タラシ」「ヒコ」という和風諡号を持つことが仲哀天皇非実在の根拠だともされる。
「タラシナカツヒコ(足仲彦)」という和風諡号のうち「タラシ」「ヒコ」(「タラシヒコ」・「タラシヒメ」)の部分は、
同時期の景行天皇、成務天皇、神功皇后とも共通するものである。
しかし、この「タラシヒコ」・「タラシヒメ」は遥か後世の7世紀頃から用いられるようになった天皇の呼称である。
また、「タラシナカツヒコ」から後世の創作による「タラシヒコ」を除くと、「ナカツ」という普通名詞のみになる。
そのため井上光貞のように、この和風諡号が仲哀天皇が架空の人物である証左であると見る論者もいる。
ただし「ナカツヒコ(仲彦)」という人名は仲哀天皇と別人ではあるが応神二十二年九月条にも登場している。[独自研究?]
- 系譜
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吉井巌や井上光貞のように、
仲哀天皇が実在しないという前提のもと、
応神天皇を仲哀天皇の子ではなく、
崇神天皇系の皇統の女性を娶った入婿であるという系図を復元する論者もいる。
佐伯有清は景行天皇 - 五百城入彦皇子 - 品陀真若王 - 仲姫命が本来の皇統であり、応神天皇は仲姫命の入婿だとしている。
- 生年・立太子年
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『古事記』に「凡そ帯中日津子天皇の御年、五十二歳。壬戌の年の六月十一日に崩りましき」。
『日本書紀』にも52歳とするが、これから逆算すると父の日本武尊の崩御後36年目に生まれたこととなり矛盾する。
また仲哀天皇元年条には父が崩御したとき弱冠(二十歳)に達していなかったという記述がある。
日本武尊の崩御が景行天皇43年のため、仲哀天皇の生年は景行天皇25年から景行天皇43年の間になる。
信仰
神仏習合において仲哀・神功・応神の三尊で本地を阿弥陀如来とするとされるが、
『鶴岡八幡宮記』に「仲哀天皇ハ本地ハ藥師ナル故ニ奉レ除レ之」として単独では薬師如来の化身とされた。
足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)
仲哀天皇の諱(いみな)。
父は日本武尊(やまとたけるのみこと)の第2子。母は両道入姫命(ふたりいりひめのみこと)。