高天原(たかまのはら)
作成日:2019/8/3
高天原(たかまのはら)は、 『
古事記』に含まれる、
天照大御神を主宰神とした天津神が住んでいるとされた場所のことである。
『日本書紀』においては本文にはほとんどみえず、わずかに神代紀第一段の第四の一書と養老4年(西暦720年)に代々の天皇とともに持統天皇につけられた和風諡号「高天原廣野姫天皇」にある。
記紀神話には、 天上界に高天原、 地上界に
葦原中国、地下界に黄泉国(もしくは
根の国)という3層の神話的世界構造がみられる。
それぞれに王権神話における固有の意義をにない、 単に天上、地上、地下というだけではない。
とりわけ高天原は、王権の神聖性がそこに由来する特別の世界であった。
『古事記』では、高天原は原初にすでにあったように書かれている。
それは、
葦原中国に
蟠踞する
国津神と対立する
天津神の居所であった。
高天原の読みに関しては、原文は漢文であるため、どの訓が正しいかはある程度推測にとどまる。
しかし、『古事記』冒頭の訓注には「訓高下天云
阿麻下效此」とあり、天は「アマ」と読むよう明確に指定がされている。
上代文学では、「たかまのはら」もしくは「たかあまのはら」が正当な訓とされている。
ちなみに、「たか」は美称、「はら」は広いところを意味する。
読み
「高天原」の読みに関しては諸説ある。
- たかまがはら
- たかのあまはら
- たかあまはら
- たかあまのはら
- たかのあまはら
- たかまのはら
原文は漢文であるため、
どの訓が正しいかは推測にとどまる。
しかし、『古事記』冒頭の訓注には
訓高下天云阿麻下效此
高の下の天は訓読みで阿麻(アマ)という。下これにならえ
とあり、
天は「アマ」と読むよう明確に指定がされている。
通常は、
「たかまがはら」という格助詞「が」を用いた読み方が一般的であるが、
この読み方が広まったのは歴史的には新しい。
「たかまがはら」は、
中世後半ころから近世に使用例がみられ、
江戸時代の庶民文化、
すなわち読本や洒落本など戯作文学の中で広まり、
やがて一般化されていったものと考えられる。
上代文学では、
「たかまのはら」もしくは「たかあまのはら」が正当な訓とされている。
古事記における記述
『古事記』においては、
その冒頭に「天地(あめつち)のはじめ」に神々の生まれ出る場所としてその名が登場する。
次々に神々が生まれ、
国生みの二柱の神が矛を下ろして島を作るくだりがあるから、
海の上の雲の中に存在したことが想定されていたと推測される。
天照大御神が生まれたときに、
高天原を治めるよう命じられた。
須佐之男命にまつわる部分では、
高天原には多くの神々(天津神)が住み、
天之安河や天岩戸、
水田、機織の場などもあったことが記述されており、
人間世界に近い生活があったとの印象がある。
葦原中国が天津神によって平定され、
天照大御神の孫の邇邇芸命が天降り(天孫降臨)、
以降、
天孫の子孫である天皇が葦原中国を治めることになったとしている。
古事記以外における記述
『日本書紀』においては本文にはほとんど見られない。
わずかに「神代紀第一段の第四の一書」と「養老4年(西暦720年)」に代々の天皇とともに持統天皇につけられた和風諡号「高天原廣野姫天皇」にある。
平安時代『古語拾遺』。
本文では1箇所天孫降臨の神勅。
他に祝詞説明の注に、
奈良時代『風土記』では『常陸風土記』冒頭2語あるのみである。
近代に入っては、
出口王仁三郎による『霊界物語』では至美天球とも書かれ、
輝き広がる宇宙の清い中にも清い光の霊界と描かれた。
縷々難解な内容で高天原の解説や物語の約束事も変わっており、
岩戸の段なども新たに長く大きく記されている。
所在地についての諸説
高天原の所在地については古来より諸説あり、
古事記における神話をどのように捉えるかでその立場が大きく異なる。
- 天上説
-
信仰や観念的な考え方で、
「高天原は神の住まう場所であるから、
天上や天より高い宇宙に決まっており、
それ以外の場所を考えるのは不遜である」とする説。
本居宣長の説が代表的なもので、
戦前は皇国史観と結びついてこの考え方が主流であった。
- 地上説
-
「神話は何がしかの史実を含んでおり、
高天原も実在したものを反映している、
または故地を高天原と呼んでいた」とする説。
早くには新井白石が「高天原とは常陸国(茨城県)多賀郡である」とした。
地上説にはさらに国内説と海外説がある。
国内説の中には、
邪馬台国と高天原を関連付けて考える説もある。
海外説の代表的なものは韓国江原道説である。
-
九州邪馬台国説
筑後川流域山本郡や御井郡、山門郡、夜須郡など、邪馬台国の候補地のいずれかが高天原のこととする説。
御井郡を高天原、伊都国を日向、奴国を葦原中国と見る説もある。
- 作為説
-
神話は作られたものであるから、
そこに出てくる高天原について「どこにあったか?」などと考えること自体が無意味であるとする説。
山片蟠桃の説が代表的なもので、
『古事記』における神代のことは後世の作為であるとする。
戦後主流となっている津田左右吉の史観はこの考え方に基づく。