小窓
大彦命(おおひこのみこと/おおびこのみこと)

作成日:2023/4/14

大彦命
おおひこのみこと
生没年 不詳
父親  孝元天皇(第1子)
母親  欝色謎命
配偶者
     
 
日本書紀』では「大彦命」、 『古事記』では「大毘古命」と表記される。
また稲荷山古墳出土鉄剣の銘文に見える「意富比垝」に比定する説がある。

第8代孝元天皇の第1皇子で、 第11代垂仁天皇の外祖父である。 また、阿倍臣(阿倍氏)を始めとする諸氏族の祖。
四道将軍の1人で、北陸に派遣されたという。

第8代孝元天皇欝色雄命の妹で皇后の欝色謎命との間に生まれた第1皇子である。 同母兄弟として開化天皇(第9代)、 少彦男心命(すくなひこをこころのみこと、少名日子建猪心命<すくなひこたけゐこころのみこと>)、 倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと、『古事記』に記載なし)がいる。

子として『日本書紀』では御間城姫(みまきひめ、御真津比売命:第10代崇神天皇皇后)、武渟川別(たけぬなかわわけ、建沼河別命)の名が、『古事記』では加えて比古伊那許志別命(ひこいなごしわけのみこと)の名が見える。御間城姫は垂仁天皇(第11代)の生母であり、大彦命はその外祖父になる。

記録

文献

日本書紀崇神天皇10年9月9日条)』では、 大彦命を北陸に派遣するとあり、 同書では東海に派遣される武渟川別西道に派遣される吉備津彦命丹波に派遣される丹波道主命とともに「四道将軍」と総称されている。

日本書紀崇神天皇10年9月27日条)』では、 大彦命はその途中の和珥坂で不吉な歌を詠う少女に会ったため、 引き返して天皇にこのことを報告した。
そして倭迹迹日百襲媛命(孝霊天皇皇女で、大彦命のおば)の占いによって武埴安彦命(大彦命の異母兄弟)とその妻の吾田媛の謀反が発覚する。果たして実際に謀反が起こると、五十狭芹彦命(吉備津彦命)が吾田媛を、大彦命と彦国葺(和珥臣祖)が共に武埴安彦を討ち鎮圧した[2]。その後、四道将軍らは崇神天皇10年10月22日に出発し、崇神天皇11年4月28日に平定を報告したという。

『古事記』では、建波邇安王(武埴安彦命)の鎮圧においては同様の説話を記す。一方、四道将軍としての4人の派遣ではないが、やはり崇神天皇の時に大毘古命(大彦命)は高志道に、建沼河別命は東方十二道に派遣されたとする。そして大毘古命と建沼河別命が出会った地が「相津」(現・福島県会津)と名付けられた、と地名起源説話を伝える。

なお『新撰姓氏録』河内国皇別難波忌寸条では、崇神天皇の時に大彦命が蝦夷平定に向かった際、大彦命は兎田墨坂(うだのすみさか:現・奈良県宇陀市榛原萩原)で嬰児を拾って育て、「得彦(えひこ)宿禰」と名付けたと伝える[2]。

伝承
葛木坐火雷神社に伝わる旧記によれば、武埴安彦命討伐の際に、天火明命の末裔の笛吹連櫂子を率いたという[3]。

考古資料

稲荷山古墳出土鉄剣(国宝) 埼玉県立さきたま史跡の博物館展示。左は表面、右は裏面。 稲荷山古墳出土鉄剣(国宝) 埼玉県立さきたま史跡の博物館展示。左は表面、右は裏面。 稲荷山古墳出土鉄剣(国宝) 埼玉県立さきたま史跡の博物館展示。左は表面、右は裏面。

埼玉県行田市の埼玉古墳群にある稲荷山古墳で出土した鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣)には銘文があり、その銘文に見える人物の「意富比?(おほひこ)」を大彦命に比定する説が挙げられている[2]。銘文記載の系譜は次の通り。